4 アルファベット①
みんなで飲むと決まった時点で、佐絵が自分の部屋から大量の酒とパック入りのかち割り氷を食堂に持ちこんでいた。氷は冷蔵庫に、酒は厨房のテーブルに並べてある。
「第二の事件は、第一の事件の二ヵ月後、八年前の十二月三十一日に起きた」
佐絵が千鳥足で厨房に入っていく。「この第二の事件に先駆けて、警察は吉野りんかの死を疑いはじめていた。死体の肩や腕、足に痣が残っていたからな」
厨房から佐絵の声と酒を物色する
「痣は、りんかが誰かに押さえつけられた際にできた物ではないのか。警察はそう考えた。きっかけは聞きこみだ。りんかがクスリに手を出すとは考えづらい――学生たちから話を聞けば聞くほど、警察はそう考えざるをえなかった」
ウィスキーのボトルを抱えて戻ってきた佐絵が、しゃっくりをひとつはさんでから「現場は密室だった」とつづけて言った。
「密室にすることで他殺の可能性を除外しようとした偽装工作だが、それが裏目に出た。マスターキーで自由に出入りできる管理人が怪しいと警察に考えられちまった。管理人と仲のいい村木も疑われた。だが、この時点で村木に捜査情報が漏洩していた」
「村木たちの〝客〟がいたんですよね」若葉が確認する。「警察の内部に」
「それだけじゃない。村木の両親には政界と財界に人脈があった。親戚には高級官僚もいて、東大出身の村木の同窓には警察官僚の友人も何人かいたのさ。いわゆる〝上級国民〟ってやつかな。社会の上層にお住まいなら情報はコネで手に入るんだよ」
「でも、それなら……」
小首をかしげた若葉が、そろりとあごに指先を宛がった。「その警察官僚のお友だちに頼んで、事件をもみ消してもらえばよかったんじゃないですか?」
「したくても、できなかったのさ。さすがに、そこまではな。だって殺人事件だぜ。少額の
警察官僚のお友だちも、村木の裏の顔までは知らなかったらしい。友人が理事長やってる大学の女子寮で若い女が死んだ。事故死と見られていたが、他殺の線で再捜査。その警察官僚のお友だちは、村木にこうアドバイスしてやったそうだ。
『村木のことも調べる予定だってよ。おれは村木が殺しただなんて思っちゃいない。形式的なことで、本気で疑ってるわけじゃないだろ。災難だったな』ってね」
この佐絵の話とほぼ同じ内容の記事を杏奈も週刊誌のウェブ版で読んだことがある。匿名を条件に警察官僚のひとりが村木に捜査情報を漏洩したことを悔いる記事だった。記事の内容が事実なら、その警察官僚は本当に村木の裏の顔までは知らなかったわけか。
村木の裏の顔を知っていたのは、彼の客だった別の警察官だ。最大の情報源だったその警察官は、事件後、クスリと買春の件で本格的に追及される前に自殺した。
「村木は、殺人事件をもみ消してもらえるほどの超特権階級ではなかったが、警察の捜査情報を極秘裏に知ることはできた。その程度のコネなら持ち合わせていた村木は、
事件後、古坂のタンスから、吉野りんか殺害時に使われていたとおぼしき
依田友子は古坂と交際しながら、裏でこっそり村木の愛人もやっていたんだ。期せずして古坂はそのことに気づかされた。依田の浮気どころではすまない裏切りにもな。吉野りんか殺害の罪を全部押しつけられそうだ――そのことで、村木と依田が
事件後に発見された古坂の
「古坂は自分を裏切った依田と村木を殺そうとした。ってのが、警察の見立てだ。それが殺害の動機。古坂の雑記帳にもそのことを示唆する内容が書いてあったらしい。
犯行現場は寮の一階、管理人の住戸、リビングダイニング。
事件当日の夜、古坂は村木と依田を刺し殺した。台所にあった包丁で。現場の床からは古坂の血液も検出された。けっこうな量の血液がな。依田と村木を殺したときに反撃されたみたいだが、致命傷にはいたらなかったんだろう。ふたりを殺害後、古坂はあのガラガラ、旅行のときに使う車輪付きの……」
「トロリーバッグ?」
杏奈が佐絵に助け船を出した。
「そう、そのトロリーバッグを引きずって玄関から出ていく姿を、寮の玄関の防犯カメラがバッチリとらえてる。古坂が目撃された最後の姿をな」
「ニット帽をかぶってサングラスをかけて、マスクもして、体型のわかりづらいロングコートを着ていた古坂の姿が映っていたんですよね、たしか」
警察発表をもとにマスコミが書いた記事を思い出しながら杏奈が言った。いかにも怪しげな格好だが、ニット帽もサングラスもロングコートも古坂の私物らしい。それに、これから逃亡する身の上なら、素性を隠そうとするこの変装は別に不自然ではないだろう。杏奈はそう思う。警察もマスコミもそう考えた。
「ああ。それ以来、古坂は行方知れずさ」と佐絵がつづけて言った。「しかも古坂は、第二の事件の直後から自分のスマホの電源を入れていない」
電源がオフならスマホの現在地は不明だ。端末の位置情報を利用して、古坂の居場所を特定することはできない。「大手キャリアのスマホなら電源がオフになる直前の居場所を割りだせるそうだが、古坂の場合はそれが第四女子寮だった」と、佐絵が言う。
新聞や週刊誌にもそう書いてあった。だから、杏奈もそのことは知っていた。
「ってなわけで、古坂は未だに捕まっちゃいない。いま、どこにいるのか、まだ存命なのか、それとも死んじまったのか。なんにもわかってねえけど、古坂の逃亡によって、第二の事件はひとまず幕を下ろしたわけだ」
「佐絵さん、質問です」
少しズレていたメガネの位置を修正しながらモナカが挙手した。
「九億円のルビーリングは、古坂が逃亡する際に一緒に持っていったのでは?」
「いい質問だな、モナカちゃん」
佐絵はあくびをした。ポリポリ金髪の後頭部もかく。「事件後、氷沼紅子の娘ふたりもそう考えた。だから、あきらめたのさ。ルビー探しを。……けどよ」
半ば閉じかかっていた目を大きく見ひらいた佐絵が、もったいぶってひと呼吸置いた。
「九億円のルビーリングが売られたって話はいっさい聞かないね。古坂は逃亡中の身の上だ。宝石はやつにとって石コロも同然。石コロじゃ飯は食えねえ。必ず現金化するさ」
「それって、ルビーリング売却の情報が表に出てきていないだけなのでは?」
若葉が質問する形で異を唱えたが、さすがに九億の宝石が売却されたらニュースになるだろう。杏奈がそう指摘しようとすると、「闇市場で売った」と若葉がつけ足した。
「そういうの、ありますよね。そっちでルビーを現金化したから情報が表に出てこない」
「闇市場ねぇ……。それなら、わたしの耳に入ってると思う」
口もとだけで佐絵が笑った。冷たい笑顔。杏奈はどきりとした。
「あ、勘違いすんなよ。わたしは悪人じゃないぜ。みんな知ってるだろ、うちが金持ちだってことは。表だろうが裏だろうが、九億のルビーが売れたら、必ずうちの家族の耳に入るんだよ。わが家の場合はとくに、おふくろの耳に。うちのおふくろも、氷沼紅子と同じさ。宝石をコレクションしたがる人なんだよ。九億のルビーリングも、おふくろなら、ぎりぎりだが手が出ると思う」
本筋からズレるから佐絵の家族について訊くつもりはないが、九億のルビーリングが買えるのか……。誇張でないとしたら、すごすぎる。
「わたしは実家には帰りたがらないけど、別に親と仲が悪いわけじゃないんだ。実家だと、わたしは〝お嬢さま〟だからな。そういうの、
もしかして、だから? 佐絵のこの、どこかがさつなしゃべり方はその反動なのかな?
「古坂が九億のピジョン・ブラッドを売ったとしよう。その場合、買い手は個人じゃなくて組織だろうな」
「なぜですか?」と杏奈がたずねた。
「うちの母親みたいな富裕層と、古坂とのあいだにつながりがあったとは思えない。嫌なこと言うぜ。階層が、身分がちがう。コネがないなら金持ちの個人に宝石は売れない」
「富裕層の村木とは、つながりがありましたけど」
「村木との関係は例外だ。犯罪でつながっていた」
佐絵に反論された杏奈は、一応は納得した。
「ルビーリングを組織が買ったとしたら市場に出る。表だろうが裏だろうがな。もしくは、買いませんかって、うちのおふくろに声がかかるんだよ。九億のルビーリングを買えるやつなんて、そうそういないんだから」
「佐絵さんの言うとおり、古坂がルビーを持ちだしていないとしたら……」杏奈は唇をすぼめた。「ルビーリングはやっぱり、第四女子寮に隠されているんですかね?」
「そうに決まってる」
佐絵は両手を広げて断言した。「紅子の娘ふたりが探しても見つからなかったってことはだ、巧妙に隠されてるってことさ。隠し場所を知っていたのは、紅子。孫の村木。このふたりは確定だな。依田と古坂はどうだろう? 村木の愛人だった依田ならありえそうだが、古坂にまで教えるかな?」
教えない――杏奈は直感的にそう思った。佐絵も同じ考えのようだ。
「古坂は犯罪者だ。クスリと
杏奈はおもむろにうなずいた。若葉とモナカも同じようにしている。
「ルビーリングは、この第四女子寮のどこかに隠されている。わたしはそう思ってる。村木の死後、妙な物も見つかったしな。これは、その写しだ」
佐絵はショートパンツのポケットから手のひらサイズのメモ用紙を一枚取りだした。
K
Y
FD
QB
「八年前、警察は第二の事件の現場で、手書きの手帳を発見した。村木の上着のポケットに入っていた手帳を。その手帳に、アルファベットでこう書きつけてあったそうだ」
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