3 ピジョン・ブラッド①

「氷沼紅子とその夫は、食料品店や飲食産業で富を成したらしい。一九七〇年代にはじめたレストランのチェーン店経営が大成功したんだと。紅子の夫がはじめた事業だったが、一九七七年にその夫が過労死すると、妻の紅子がすべての事業を引き継いで、さらなる成功と発展に貢献しつづけた」

 

 だいぶ酔いが回ってきたのか、とろんとしたすいがんになって、佐絵が突然そんなことを言いだした。


「うちの大学が創設されたのは一九八〇年、紅子が六十歳のときだ。

 第四女子寮はその翌年、一九八一年に建てられた。

 最初は社員寮として建設されたらしいぜ。でも、実際に社員が住んだことはない。紅子は自分の趣味に合う大きな別荘が欲しかったみたいだが、法的な問題なのか、他にもなんかあったのか、とにかく個人宅じゃなくて社員寮のアパートとして造ることにしたんだ」


 その話は知らなかったが、紅子が何年になにをはじめたとか、ずいぶんきっちり暗記しているのがすごい。数字がちゃんと合っているかどうかはともかく、不良じみた佐絵のイメージには合っていない気がした。完全に杏奈の偏見だが……。


「紅子には娘がふたりいて、長女の息子が二代目理事長の村木康志だ。次女のほうは、みんな知ってるよな? 氷沼女子大学の現理事長だよ」

 杏奈はうなずく。

「紅子の娘ふたりは金への執着心が尋常じゃなかった。紅子はそのことについて好ましく思っていなかったのさ」

 それも初耳。佐絵はなんで、そんなことまで知っているんだろう? 


「あけすけな娘ふたりにくらべて、孫の村木は立ち回り方が上手かった。村木は表向き教育熱心でクリーンなイメージだったからな。祖母の紅子ですら孫にだまされていたんだ。村木を理事として大学に招き入れ、理事長にも指名した。別荘も生前贈与だ。

 当時、新たに寮を建ててほしいって要望が学生たちから出ていた。紅子はそれに応える形で、別荘を第四女子寮に改築すると決めた。紅子は高齢で第一線からは退いていたから、その役目を孫の村木に託したんだよ。けど、孫に別荘をくれてやった別の理由――本当の理由があったんじゃないのかって、そんなふうにも言われているんだ」

 本当の理由? 


「紅子は娘たちのことをよく思っていなかった。孫は、長女のひとり息子、村木のみ。次女に子どもはいない。結婚はしてるらしいがな」

 いまの理事長に子どもはいないのか。そのことも初耳だ。いくらなんでも情報通すぎないか? 大学にもなると、自然とそのへんの事情にもくわしくなるのかな? 


「村木の母親、氷沼紅子の長女は、すでに他界している」

 またしても初耳。


「だが、紅子が孫に別荘を生前贈与したころは生きていた。当時の紅子には、金にがめつい娘ふたりに、どうしても相続させたくない物があった」

 ピンと来た杏奈は、まなじりを細めた。「氷沼紅子の宝石コレクション?」

「正解だ」

 佐絵がウインクする。「紅子は趣味で集めた宝石が遺族らによって現金化されるのを嫌がっていたそうだ。お気に入りだったピジョン・ブラッド、九億のルビーリングに関しちゃ、とくにな。ピジョン・ブラッドの噂については、みんな知ってるだろ? 第四女子寮と言えば、八年前の事件か、ピジョン・ブラッドだから」


 佐絵以外の三人ともがうなずいたが、「質問です」とモナカがつづけざまに挙手した。

「ピジョン・ブラッドの噂は存じあげていますが、わたし、宝石については無知です。本当に九億円もするんですか? 誇張されて伝わっているのでは?」


「そうでもない。紅子のピジョン・ブラッドはな、でっかい非加熱ルビーだ。非加熱ルビーは加熱処理されたルビーよりも値段が高いんだってよ。何年か前にカルティエのルビーリングがオークションに出品された。ミャンマーで採れた二五・五九カラットの非加熱ピジョン・ブラッドだ。落札価格は三〇四〇万ドル、日本円だと……」

 為替かわせレートの暗算をはじめたらしい。佐絵が数秒間、眉を寄せて空中を見すえた。

「三十四億……六千万くらいかな。すげえ値段で落札されたはずだ」


 杏奈はスマホで米ドルと円の為替レートを調べてみた。

 二〇二一年十月二十二日、この時点で一ドルおよそ一一四円か。スマホ内蔵の電卓で円に換算してみる。三十四億六千万円を超えており、佐絵の言うとおりだ。


 杏奈は子どものころから算数も数学も苦手。できる人にとっては簡単な計算だったのだろうが、あっさり暗算してみせた佐絵に感心した。スマホで調べることなく、為替レートを知っていたことにも。佐絵は経営学部だし、最近は真面目に講義にも出席しているから、経済に関する知識はふつうにあるのかもしれないが。

 情報通なところといい、これまでの佐絵の無知で軽薄で不良っぽいだけのイメージを、いい意味でくつがえされたような気がする。


「そうですか」と、さっき質問したモナカが説明に納得すると、佐絵は話をつづけた。


「紅子は十万円未満の物から九億のルビーリングまでぼうだいな数の宝石をコレクションしていた。彼女の遺言によって、宝石は娘ふたりと孫の三人で均等に相続することになった。。その宝石抜きで三等分だ。紅子の死後、ひとつだけ見つかってねえ宝石があるんだよ。それが……みんなご存じだよな?」

 佐絵はもったいをつけるように間を置いた。


「ミャンマー産の高級ルビー、ピジョン・ブラッドだ。九億円の特注ルビーリング。リングにはダイヤモンドもちりばめられていて、総額で九億らしい」

 三十四億のルビーリングのあとだとインパクトが薄くなるものの、それでも九億だ。豪遊しなければ、仕事をせずにゆうゆうてき、年がら年中、日がな一日遊んで暮らせる額だろう。


「娘たちに宝石を集める趣味はなかったそうだ。紅子は死後も死守したかったのさ、守銭奴の娘ふたりから、超お気に入りのルビーリングをな。あんのじょう、娘ふたりが相続した宝石は紅子の死後にすぐさま売り飛ばされた。紅子は生前の段階でそれをたやすく予見できていたからこそ、一番のお気に入りだったルビーリングを隠したんだ。この第四女子寮が別荘だったころに。われらが鳩の血ピジョン・ブラッドの館に」

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