6 後輩で先輩②

 その人生の先輩の息が酒臭い。佐絵の右手には日本酒の一升瓶がにぎられている。コップには入れず、直接飲んでいる姿を見て、「真面目になったとか、やっぱ嘘」と若葉が決めつけた。そう思われても仕方がない。苦笑した杏奈は、「佐絵さん、授業は? ぎっちぎちに講義入れてるって言ってましたよね?」と質問を重ねた。


「三限、四限、五限、全部休講になっちまったよ」

 そんなことってある? 

「三限目は、担当の教授の身内に不幸があった。教授が実家に帰ったから休講。四限目の講師の人は、新型コロナに感染した。五限目の先生は、四限目の先生の濃厚接触者だ。恋人同士だよ、きっとな。エロいことしてたんだよ」

 中身が完全に中学生の佐絵は、経営学部の学生で、杏奈と若葉は教養学部。学部ごとに担当講師の顔ぶれは異なるから、誰それが付き合っていたとか言われてもピンとこない。


「大学に行きだして、わかったことがある。休講って最高。祝杯を挙げてしかるべきだ」

「やっと気づいたんですか。佐絵さんって今年で大学でしょ。在籍年数だけなら」

 若葉がそこまで言って不意に首をかしげた。「佐絵さんはいま大学二年だから……真面目に講義に出ても卒業できないんじゃないですか?」

 ほんとだ。杏奈も気がついた。うちは八年で大学を卒業しなければならない。日本の大学はどこでもそうだろう。佐絵は浪人はしていないと言っていた。若葉が指摘したとおり八年生のはずだ。


「大丈夫、わたしは休学も利用してるから。休学は最大で四年、それをフルに使ってる。つまり、わたしはあと四年、まだ大学に在籍できる!」

 なぜか自慢げに言って、佐絵は一升瓶を持っていないほうの手の親指を立てた。


「さすがは、お金持ち。モラトリアムが長くてうらやましいです」

 笑って肩をすくめた若葉と一緒に杏奈がエレベーターのほうへと体を向けると、「ちょいちょい、待てよ!」と金持ちの酔っ払いに肩をつかまれた。


「三連続で休講なんてそうそうないよ。お祝いしよ。ね、一緒に飲もうよぉ」

 ヤンキーみたいな口調から急に甘ったるい猫なで声に変わる。佐絵は杏奈の肩から離した指先でビシッと食堂を示した。「来年の三月末までには出ていかないといけない。離れ離れになるのは、さびしいよ。飲もう。ね」

 悪いが飲んでいる場合ではない。提出期限が迫っているレポートがある。それが終わったら卒業制作の下調べとして、八年前の事件の記事を再読する予定だ。――あ、八年前か。


「佐絵さんは八年生。ってことは……」

 杏奈が眉を八の字にする。「八年前の事件のとき、ここの寮生だった?」

「残念、不正解」

 そうなの? 佐絵は大学に入学してからずっと第四女子寮の寮生だったはずだ。


「杏奈ちゃん、八は八でも、八年前と八年目はちがうよ。八年前は二〇一三年、わたしが十八歳になる年だ。わたしは高校三年生。二〇一四年が大学一年目、十九歳」

 佐絵は一升瓶を無理やり若葉に押しつけると、指を折りながら「二〇一五年、二十歳、大学在籍二年目」と数えていく。右手の五指をすべて折る。次に左手の親指、人差し指、そして最後に中指を折った。


「二〇二一年、今年。二十六歳、八年目」


「あ、そっか」

 杏奈はぽんと手のひらをたたいた。「すみません、わたし、そういうの苦手で」

「わかる、わかる。超絶にわかるぜ」

 佐絵はにかっと笑って、若葉から一升瓶を取り戻した。「わたしも苦手だからさ。何年目とか何周年とか何年前とか、計算、まちがうときあるよ」


「佐絵さんは、八年前はまだ第四女子寮ここにはいなかったわけか」と若葉が呟いた。

「そうだけど……もしかしておまえら……」

 佐絵の顔からすうっと笑みが消えた。「八年前の事件のこと、調べてんのか?」

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