6 後輩で先輩①

 寮のなかに入ると、管理事務室の窓口が目の前だ。


 管理員の田中が巡回に出たので無人の管理事務室は、建物の外観に合わせて外装が石張りだった。細かく積みあがった石には高級感がある。石材ばかりでなく、他のけんざいも総じて重々しく高級そうで、共用部のぼうかつせいビニル床シートにしても安っぽくは見えない。


 こうした内装の大部分が別荘時代からの引き継ぎだった。人目を惹くレトロで異国的な意匠は、大学のキャンパスと同じで氷沼紅子の趣味だと言われている。

 箱形の管理事務室を軸にして、西側に郵便ポストと宅配ボックスが並ぶ専用スペースがある。それらですら全体の異国趣味エキゾチシズムなデザインと調和していてオシャレだ。


 東側にはテンキーと読み取りパネル付きの集合玄関機がすえてあった。その先に、オートロックの強化ガラス扉。これらはすべて女子寮に改築する際に新設された。氷沼紅子は改築にはノータッチだったそうだが、本当にどれもこれも彼女の趣味に合わせたようなアンティーク調だから芸が細かい。


 杏奈は最上階の四〇四号室。若葉はひとつ下の階の三〇八号室。

 ポストに投函されていた不要なチラシを全部ゴミ箱に捨てる。他にはなにもない。杏奈はきびすを返すと、集合玄関機の読み取りパネルにカードキーをかざした。ピッと鳥がさえずるような音。つづけて、オートロックのガラス扉がひらく。

 ICチップ内蔵で住戸の鍵も兼ねるカードキーを財布に戻しながら、杏奈は若葉と一緒にオートロックを抜けて左折した。管理事務室の裏側に回りこみ、壁掛けの黒板とコルクボードをチェックする。どちらもサイズは三十二型のテレビより少し小さいくらいだ。


〈来年の三月末日までに退去してください〉


 A4用紙の真ん中に大きなフォントの太字で印字されている脅し文句のプリントが、夏ごろからずっと貼りつけてある。新しい連絡事項はなにもない。黒板も下ろし立てのように綺麗だった。もう何ヵ月も使われていないチョークから目をそらした杏奈は、事務室に背中を向けて廊下を見た。


 管理事務室の裏手に広がる大きな廊下、このあたりが一階の中央エリアだ。東のはしから西のはしまで伸びている廊下の真ん中らへんに、エレベーターと階段が設置されている。


 一段と目を惹くのはエレベーターのほうで、窓をはめこんだ木製の外扉と、蛇腹式内扉の二重タイプ。杏奈はこの手の古めかしいデザインが大好きだから、はじめて乗ったときは興奮した。レトロなのは見た目だけで、扉は自動でひらく。本物の古いエレベーターのようにレバーハンドルで昇降操作を行う必要もない。現代的なふつうのエレベーター同様に、ボタンを押すだけで目的のフロアまで運んでくれる。


 杏奈はエレベーターから視線を外すと、顔を、廊下の西のはしに設けてある非常口へと向けた。非常口に近い場所――建物の北西の位置に3LDKの角部屋がある。八年前の事件の日まで依田友子と古坂一郎が暮らしていた部屋だ。古坂を裏切った依田と村木は、そこのリビングで殺された。

 その後、古坂は行方不明に……。以来、空室になっている。


 いわくつきの3LDKとは対称の位置、一階の北東の角部屋が食堂だ。寮生なら食堂には自由に出入りできるけれど、おそらくは誰も利用していない。行方をくらました古坂が元料理人で、彼が管理人だったころは頼めば元プロの料理が出てきたという。

 食堂と元管理人の住戸のあいだにも廊下がある。一階中央エリアを東西に横断する幅広な通路から北に分岐した短くてせまい廊下が。短いほうの廊下には裏口が設けてあった。


「ようようようっ!」

 利用者がいないと思いこんでいた食堂のドアが唐突にひらいた。「みんな、お帰り!」とラッパーみたいな調子の陽気な声とともに、スレンダーな体型の女性が躍り出てくる。身長は一六二センチ。前に本人がそう言っていた。一五八センチの杏奈よりもたしかに数センチ背が高く見える彼女は、ボブカットを金髪に染めている。今日は十二月並みの寒さなのに、タンクトップとショートパンツの組み合わせで、水色のネイルが綺麗な裸足にサンダルを突っかけていた。ほとんど夏場の格好だ。


「佐絵さん……」と杏奈が戸惑いがちに呼びかけた。「なんで食堂に?」

 くろしま佐絵。シボレー・コルベットの所有者。学年は大学二年で後輩だが、佐絵はいま二十五歳。来月には二十六歳になる人生の先輩だ。

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