5 第四女子寮②

 第四女子寮の玄関扉は両開きだ。古びて黒ずんだ真鍮製のドアハンドルとノッカーが厳めしい。扉の下にはカマキリがいた。服に飛び散った雨粒を払いのけながら、杏奈たちが扉に近づくと、そそくさと逃げていった。


「気持ち悪っ……」と、若葉が顔をしかめた。

 寮は森に隣接している。虫を見かける機会も多くなる。そのことも第四女子寮が学生たちから不人気な理由のひとつだろう。


 さっき逃げだしたカマキリがなにを思ったのか、ふらりと立ち止まって、緩慢な動作でこっちにふり返った。前脚の鎌をわずかに持ちあげる。カマキリと目が合う。「キモ……」と酷評した若葉の声にうなずいた杏奈の肌が、ぶるっと粟立った。


 昆虫と言えば、玄関の屋根に設置されている防犯カメラの側面にも器用に一匹止まっている。トンボが一匹。カメラが一台。両者ともに獲物を観察する目つきだ。杏奈と若葉をじっとにらみつけている。


 背中を向けて歩きだしたカマキリと、飛び立つトンボを見送った杏奈は、カメラへと視線をすべらせた。八年前、依田友子と村木康志を殺害した古坂一郎――。そのとき寮から出ていく者の姿が、このカメラに映っていたらしい。

「カメラに映っていたのは古坂で、それ以来、行方が知れない……か」

 杏奈は自分にしか聞き取れない声量でそう独りごちていた。


 同種のカメラが寮の裏口および非常口と最上階の切妻屋根にもある。切妻屋根にはカメラが何台も設置されていた。すべてレンズが下を向いている。真上から地上まで見下ろす形で、各階の窓を撮影できるようにするためだ。外から侵入できそうな出入り口には常に防犯カメラの目が光っている。死角がない。


 玄関の防犯カメラから目をそらした杏奈は、首を右に回してみた。


 寮の敷地は企業が工場を造りたくなるほど広大だ。寮のはす向かいの、だだっ広いスペースには、アスファルトの駐輪場と駐車場がある。最寄りのスーパーやコンビニまで行くのにも、徒歩だと時間がかかるから、寮生は全員が自転車を所有していた。


 駐輪場には屋根がある。その屋根の内側にも防犯カメラが二台設置されていた。一台は内側に向いて駐輪場を、もう一台は外側に向けられている。駐車場を監視するために。


 駐車場に屋根はない。雨に打たれっぱなしの車が三台、杏奈の目にとまった。

 うち二台は寮生の車だ。白い三菱のSUVアウトランダーと、アメリカ製の真っ黒なスポーツカー。アウトランダーは若葉の車。若葉いわく「寝起きのドライブはかったるい」から、基本的にはバス通学だそうだ。自家用車は帰宅後か、休日にしか運転しない。


「……シボレーのコルベット」

 杏奈は黒いスポーツカーを指さした。「さん、もう帰ってるんだ」

「帰ってるんじゃなくて、大学に行ってないだけでしょ。今日も」

 若葉が細い息を吐く。

「佐絵さん、今年は真面目らしいよ。大学院に、急に行きたくなったんだって」

「ほんとに? ほんとなら雪降るでしょ」若葉は半信半疑だ。「豪雪が降る」

「眠れる獅子が目覚めたって、自分で言ってたからね、佐絵さん」

「それ、信じてんの?」

「信じたいでしょ」杏奈は笑顔で肩をすくめた。「将来、ニートでアル中の娘ができたときの予行演習だと思って接してるから」

「アル中は言いすぎ」

 若葉も笑った。マスク越しなのに妖艶な笑顔だ。「佐絵さんさ、まだ大学二年なんでしょ。大学院の前に、大学を卒業しなきゃ」

「するつもりがあるから、がんばって講義に出てるんだよ」

「ってことは……上手くいけば、佐絵さんも〝みんなの後輩〟から卒業か」

 おめでたいですね、と若葉がつづけて口にした直後、玄関ドアが内側からひらいた。マスクをつけた小太りの男が出てくる。


 男が会釈したので、杏奈と若葉も「お疲れさまです」と挨拶した。

 巡回の時間だ。

 男の名前はなかかず。管理会社の管理員で、年齢はたしか五十代の前半だったかな? 


 駐車場に止まっていた残り一台の車は銀色のライトバン、管理会社の社用車だ。

 という田中と同年代の女性管理員もいるが、今日は来ていない。日替わりでどちらか片方が勤務するからだ。


 八年前までは、依田友子と古坂一郎のふたりが住みこみで管理人をしていた。でも、例の事件でいなくなったから、それを機に大学が管理会社と契約したのだ。

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