20話目 椿─姉
庭に咲いていた椿が、雪の溶けてできた水溜りにひっくり返って落ちている。
まだちらほらと降る霙の下で無理矢理むしり取られたかのようにニ、三枚の花弁を散らして落ちているその花は、私に或る連想をさせた。
……よく言われる話だ。
大気中の埃をすっかり取り込んで重くなった霙がぼとりと椿の上に降って、霙は水溜りの中へ更に更にと押し込んで行った。降り込む霙の溶け出した水溜りは大分と深くなって、椿の花弁は水面で血液のように赤く揺らいで凍えている。
まるで、野晒しだ。
私はその椿を、両手で丁寧に掬い取った。
……私の手には、人の血は通っていない。
どうやら私は、自分では確かにひとに生まれ落ちた筈と思っていたのだが、そうではなかったらしい。聞くところに依れば私のようなものは、世間一般ではひとと認められていないようなのだ。
近親の弟を愛おしく思い、愛し、手にしたいと思うなど、人間には許されない。それがお天道様の考えらしかった。
それならば私は特段、人間でなくともよかった。日の下を歩けずとも、弟以外の誰の横にも並べずとも、修羅にでも鬼にでも、何にでもなれた。
この手に通う、赤のふりをした血液も、弟がそれを恐れないのならば青にしたって良かった。
鏡写しに見えていた、ひっくり返った椿と水溜まりの向こうの、水の中に落ち切って沈んだ椿のことを想った。
例え私は、この椿のように弟の首が落ちるのでも、その物言わぬ凍り付いた唇にさえ口付けができる。その死体の上に跨って、橙の皮膚を破ったその先の椿の内に霙ですらなく白く花を焼焦がす白雪を散らしたって構わない。
この手の温もりの全ては、世にこれを明かさない全ての欺瞞でできているのだ。
だがしかし、いとしいひとはきっとああと言いながらもこれを罪と捉えるだろう。「愛している」と言いながら、きっとこれからもその瞳を痛切に揺らがせて、背中に抱える必要のない罪悪を抱えて生きて、いずれそれに押し潰されて私の下から、……あれにとっては、私を支配することから。きっと、逃げるだろう。
あれは、そういう男だ。
あれはどうしようもなく、人間なのだ。
あれは私のように、冷酷の獣などにはなれやしない。
私はそんな男に憐憫と深い慈しみを垂れて、未だ落ちぬままで居る椿に優しく口付けた。
……逃してやってもいい。一時なら、あの男が雪解けの季節に霙も白雪も忘れて桜に攫われるのを、許容してやってもいい。
あの子はひとの子だ。
その獣にも鬼にも修羅にもなりきれないところを、私は愛して、哀しているのだから、あの子のそんな、人間らしいところも一時は許容する。
だがしかし、赦すのは、一時だけだ。
女は、箪笥の奥に仕舞われた男のちょろまかした金の記録の残った帳簿や自分を籠の鳥に囲う為、男が殺した女持っていた血の付いた帯のことを思い浮かべてくつくつと笑った。
あれは不器用な男だから、それを密告されて追われたとして、逃げ切ることなどできないだろう。或いは、罪の念に押し潰されて自分から表通りに出て行く筈だ。そうして彼はきっとこの椿のように、野晒しにされる。私はその紡がない唇に口付けをして、野晒しのお前の首を奪い去るのだ。
死さえもお前さえも、私をお前から奪えない。
だからお前は安心して、花と散れ。
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