19話目 椿─弟

 庭に咲いていた椿が、雪が溶けてできた水溜りにひっくり返って落ちている。

 まだちらほらと降る霙の下で無理矢理むしり取られたかのようにニ、三枚の花弁を散らして落ちているその花は、私に或る連想をさせた。

 ……よく言われる話だ。

 大気中の埃をすっかり取り込んで重くなった霙がぼとりと椿の上に降って、霙は水溜りの中へ更に更にと押し込んで行った。降り込む霙の溶け出した水溜りは大分と深くなって、椿の花弁は冷え冷えと傷ましく凍えている。

 その姿に僅かながらの憐憫を覚えながらも、私はその椿を掌で掬い上げなかった。

 ……私の手は、最初から冷たいものだから。

 息を吐きかけたり、擦り合わせたりして誤魔化しても、心と通じた、人体の温かみを失って酷く冷えた血液を浴び続けたこの指先の暖まることは永遠にない。けれどもそうだとして、指先を暖めて冷酷の獣の残滓を追い払う努力くらいは私のような者だってする。

 群衆に紛れた時、私のような者にだってこの指に温かさが灯っているふりくらいは、許されていい筈なのだ。ひととひととの体温が混ざり合って、ひとつに溶けている間くらいは、この手には表の通りを悠々と歩ける人間と同じ温もりが宿っていると勘違いをしても、そうだと騙しても、騙っても、いい筈なのだ。

 ひっくり返った椿と水溜まりの向こうに、水の中に落ち切って沈んだ椿が鏡写しに見えている。

 猫が走って行った。

 猫の鋭い爪に轢き倒された椿の花弁はどろどろと粘着質な血の塊のように水面に浮かび、赤い花を見事に着けていた枝葉は心なしか哀しげに霙の下で縮こまっている。

 私は落ちた椿のあったことを知られぬように、ぽきんと枝を折って懐に隠した。

 私がこの椿を掬い上げない人間であることを、霙としてこの落ちた美しい花を深い深い凍える水面へ押し込んで掬わずに、傘にもならない人間であることを知ったら、あの赤い血の通ったうつくしいひとはどう思うだろうか。

 その答えは知れない。

 できるならば、口にしないでそのままどうか水面の奥へと消えて欲しい。きっと霙は止まないのだから、あなたは下を向いてひっくり返っていて、どうかその霙の正体を知らぬまま。

 あなたが知ればきっと私達は、生き別れてしまう。重く溢れる霙の中より透き通った花散らしの中に居る方の遥かに似合うあなたはきっと、私の手の中から零れ落ちてしまう。

 私は草鞋を脱ぎ捨てると縁側に戻った。鶯張りの床が鳴り、襖に映る影が徐に動く。

「姉上、起きられましたか」

 そう白い太腿に赤い斑点の散っている様を眺めながら、私はにこりと笑顔を作った。飛び立つ翼も何もかもを捥がれて、女は此処から出られない。

 女は昨晩、散らされた。

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