12話目 おにくやさん
豚のキーホルダーが、一層赤く濡れている。
***
私は今日、人を殺した。
被害者は交際相手である男。私に突き飛ばされて運悪く、硬い石に頭を打ち付け、死亡した。……否、これは彼の運が悪かったから起こったことではない。私にとってそれは、必然だった。
私の彼氏は良くも悪くも、完璧だった。段差があれば振り返って手を差し伸べてくれたし、食事の時は椅子を引いて私が座るのを待ってくれた。一般的な恋人として充分な愛情を注いでくれたし、一般的な彼氏としてはボーダーラインを大幅に超えて、大合格だった。
だがしかし、それでは私の彼氏には足り得なかった。彼は紳士で、完璧で……。
それ故に、大幅にスリルを欠いていた。
それ故に、私は彼と別れたかった。
けれどもそう簡単には行かないのが恋情というもので、私の中にはまだ、彼に飽いていたとしても……憐憫と、幼い恋心の情がどうしても居座った。到底手放せるものではない、としか思えなかった。
だからこそ、殺したのだ。
別に殺人を別れの手段にした訳じゃない。殺して彼を消すことでしか、ナイフを握って彼ごと裁断してしまうことでしかこの未練を断ち切ることはできない、と判断して殺した訳じゃない。
寧ろこの手で殺したことで、彼は私と共に、永遠に生き続けるのだ。死に顔がこびり付いたこの脳髄が枯れ果てるまで、彼の魂は放されない。私の魂が彼のことを全く忘れて消えてしまうまで、赦されない。彼は閻魔の裁きにすら辿り着けず、ここで静かに涸れるのだ。
簡単なことだろう。殺してしまえば、殺してさえしまえば、彼は私を困らせた、あの退屈で柔和な笑みを脱ぎ捨ててくれる。彼を私の中で生き続けさせれば、彼はもう、生きている時のようなひたすら優しいだけの退屈な男ではないのだ。
死んでいった彼は常に、私を監視している。罪の意識を与え続け、苛み、罪の露見に怯え、世間の正義から逃げる臆病者に仕立て上げる。そうしていつだって私の背後から、彼は「お前が殺したのだ」と私を責め立て続けるのだ。
それってなんて、素敵なことなの?
びりびりと肌が粟立つようだった。言い表せない打ち震えるような好奇が身体の奥底から稲妻のように走って快楽のように貫いた。寒気のようなぞくぞくとした熱い興奮が込み上げて、冷たくなった喉から生暖かい吐瀉物がまろび出る。
退屈な男とは、離別した。私は愛する彼と、刺激的で魅力的で自罰的な一生をこれから一時も離れず過ごすことができる。私はこの殺人で、繋いだのだ。愛する退屈な彼と、刺激に対する飽くなき欲求を。
パッチワークで一つになった、二つは二度と、離れない。
とはいえ、困ったことがあった。殺してしまったので捕まってしまう、というのは構わない。それに関しては事実であるし、動機もある。推定無罪を基軸とするこの国ではどうせ一人殺してしまった程度では死刑にもならないだろうし、彼と長生きができるのならば、刑務所暮らしも万々歳だ。……だがしかし……。
許せないのは、その私が拘束される過程で彼の死に顔が自分でない不特定多数に晒されることになる、ということだった。彼の死に顔を見た一番は自分なのだからそれ以上欲張るべきではない、と言われたらそれまでだが、そこは乙女の恋情だ。好きな人の普段は見せない一面を知っているのは、自分だけなのが良いじゃないか。
そう考えると、彼氏の死体を他の誰かに発見させる訳にはいかなかった。
今は夜。田舎の畦道は見通しが悪く、今のところ、死体が目立たない。だがしかし日が昇ってしまえば彼氏の死体は忽ち朝日に指差され、近隣住民がその指の差す先を辿って、必ず発見するだろう。
そうさせる訳にはいかない。
一応シャープペンシルなんかで顔をぐちゃぐちゃにして最後の表情を私の記憶の中だけのものにしてしまうことも考えたが、お気に入りのシャープペンシルが汚れて使えなくなりそうだということ、そして途方もない作業になりそうだということで、諦めた。
時刻は十二時五十分。辺りは暗澹とした闇に包まれている。ロープでも持ってきてタイヤを引き摺る時代錯誤な運動部のトレーニングのような風体で引き摺って行こうかとも考えたが、所詮文化部。脆弱な家庭科部の身でそれが出来るとも思えなかった。
暫く考えて、私はスマートフォンをブレザーのポケットから取り出した。
「……もしもし、あのね」
こんな夜半に電話を掛けることを申し訳なく思いながら声を潜めて電話を掛けると、電話先の声は少し怒っていた。「帰りはまだなのか」と急かす声が聞こえる。もうすぐ帰る、と言うと、一人娘をここまで育て上げてくれた父もこんな時間まで帰って来ないた娘の非行に流石に愛想を尽かしたと見えて、「俺はもう寝るからな」と言った。
「うん、ごめんね。あのね、うち、色々機械あるでしょ。少し使う用事ができたから、使いたいの」
何に、と眠たげで乱暴な声が返った。
「家庭科の宿題、家でご飯作るの。折角うちなんだからいいレポート書きたいの」
そう言うと、もう遅いのに、と言ってから、眠気が勝ったのか「好きにせぇ」と父は吐き捨てて、それからガツン、と音がした。スマートフォンを投げ捨てたようだった。
『……迎えに行く』
投げ捨てたらしいスマートフォンの遠くから、小さな声がした。その声に「逢坂さんちの近くの畦道」と返せば、微かに頷いたような反応があった。
電話を切る直前、「使うなら説明書よう読んで、気ぃ付けてやりぃ、手ぇ巻き込まれたらあっちゅうまやからな」と残して、それからぶつりと通信が切れた。
夜は益々深まって行く。
***
ガタンガタンと、田舎の整備されていない土道を『芹沢精肉店』と書かれた白いトラックが走る。
父はハンドルを握って真っ直ぐ前を向いている。そうしてこちらを見ないまま、「お母ちゃんな」と些か先程よりも沈んだ、静かな声色で言った。ハンドルを握る手の中指と薬指の間に挟まった、煙草の匂いが甘かった。
「都会生まれやった。都会で生まれ育って、転勤で田舎に来た。付き合うた当初は凄く楽しそうにしてくれとった……でも」
そう郷愁のような淡い光の灯った瞳は、すぐに夜闇に溶け消えた。
「きっと、都会育ちの女に田舎の村は。……田舎の男は、退屈過ぎたんやろな。母ちゃん愛想尽かして、都会のホストと出て行ってしもた。何で出て行って、愛想尽かされてしもたのか、その時俺には分からんかった」
そんで今更分かっても、もう遅い。
父はそこで、一旦言葉を切った。煙草を口元へ寄せて、気怠げに、溜め息を吐くようにもうもうと煙を吐いた。
……鈴虫の鳴く声が、田舎の夜を一層深く刻み込んでいる。トラックのライトに照らされる影は無く、ただただ遠くまで闇の広がるだけの何もない空間を光が遠くまですぅっと照らして、虫と蛙の鳴く以外はしんと静まり返っている。まるで、村ごと眠ってしまっているのかのようだった。
嗄れた声で言った父の横顔は、常より皺が深いように思えた。この数分で、随分と歳を取ってしまったようだった。
夜の黒を食むように、父の口が、動く。
「……田舎の男は、退屈か」
父は、そこで初めて、こちらを見た。その唇は固く横一文字に結ばれて、こちらを静かに見定めるようだった。
「……田舎は、退屈か」
私はかぶりを振った。
「田舎の男が退屈って言うんじゃないの。私、彼のこと大好き。世界で一番。私はあの人と……お父さんの居る、ここで過ごしたい」
私がそう返せば、父の顔の緊張は幾許か解けたように思えた。
それにこれから、退屈なんて一度もお目に掛かれなくなるくらい、忙しくなるよ、と付け加えれば、それもそうかと父は口元に微かな笑みを浮かべた。
「お前の学費払うて、精肉機新調する金のうなった。せやけん今の古ぃもんに骨引っかかったら壊れかねん。豚で手本見せたるから、きちんとしぃや」
「ありがとうお父さん、残った骨はどうしよう」
「内臓やら骨やら食えんもんは砕いて肥料にして、……翌年畑に回したらええ。今の時代のええもん食っとる若者や、いい肥料になるやろう」
そう言って父はまた、真っ直ぐ前を見据えて固く口を閉ざした。
田舎の砂利道を跳ねる白いトラックが、がたんごとんと揺れている。
その荷台では、ブルーシートに包まれた肉塊が、道の起伏に従って物言わず跳ねている。
「……ごめんなぁ、俺にはもう、…………娘しか、居らんのや」
明日のご飯は、ソーセージ。
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