9話目 とある執事の教育譚

 私、レナート・ヒルガルドは今より四年前、北西部に位置するヴァーリエ領の伯爵家、ヴァーリエ家に執事として仕えておりました。

 私の仕える旦那様と奥様は心根の真っ直ぐな、少し気弱な所こそあれど領主の器に相応しい、素晴らしい主人でした。立場に差のある使用人達にも分け隔てなく、まるで実の子供のように接して下さるまさに理想の主君。貧民の身に生まれた私には到底味わえなかったその温かみを一度一度と改めて知る度に、私は一生この方々に忠義を尽くそうと改めて誓い直しました。

 そんな旦那様と奥様の下に、一つの命が生まれます。それがフェニキスお坊っちゃん……彼はやんちゃで手のかかる部分もありましたが、旦那様によく似たキリッとしたお顔と奥様によく似た健康そうな小麦肌の可愛らしい、本当に可愛らしい玉のような赤子です。わあわあと声をあげてよく泣かれ、よく笑われる元気な子。

 公爵家の嫡男である坊っちゃんに無礼な話ではございますが……私も、弟が生まれるというような気持ちで旦那様奥様と同じくフェニキスお坊っちゃんが生まれる時を今か今かと待ち望んでおりました。

 ですから坊っちゃんの産声が部屋の中から聞こえた時……嗚呼これは筆舌に尽くし難い。目頭が熱くなり、思わず感動に目を潤ませたものです。

 ……追記しておきますが、私は出産に立ち会ったわけではございません。奥様の妊娠が公になってからは公爵家に分娩医を常駐させ、医師の指示を受け寝台などを用意して出産に相応しいよう私含む数人の使用人が奥様の為に空き部屋を整えました。

 そこで奥様は坊っちゃんを出産されましたが、その部屋は男性禁制……つまり女性分娩医とメイド、あとは唯一男性で立会いを許された旦那様しか入ることはできませんでした。その為部屋の前で、祈るような心地で出産の時を心待ちにしていたのです。奥様も旦那様も、有難いことにそれを容認してくださいました。

 無礼に当たりますので直接申し上げたことはございません。ですが私が生まれてくるフェニキス坊っちゃんのことを実の弟のように思っていたことが聡い奥様や旦那様には分かっていたのでしょう。

 こうして数多の人々の期待に応えるように、フェニキス坊っちゃんは天使の輪っかを外し、この地上にいらっしゃいました。そして旦那様奥様、我々使用人は勿論誰からも坊っちゃんは愛され、健やかに成長されました。

 ……ですが坊っちゃんが六歳になってから、領地の経営が急激に悪化し歯車が狂い始めます。領地の経営の悪化の理由は長期的に続いた大雨の影響による不作。それにより税の徴収もままらならなくなり、それどころか一部では食料を奪い合って農民同士が争いを始めました。

 旦那様はその食料不足の事態に気付くといち早く公爵家の食料庫から貧しい思いをする農民達へ食料を配りましたが……元々旦那様も奥様も、贅沢がお嫌いな方です。公爵家にある食料だけでは農民達全員にはとても行き渡りそうにありません。それでも旦那様は食料の確保、人民の保護に死力を尽くされましたが、次第に不満が高まっていきます。

 配られた、平等でない少なすぎる食料。これだけではない筈だ。きっと公爵家は食料を独占して、俺たちを嘲笑っているんだ……!!と。

 それはある種の切望だったのかもしれません。このどうしようもない苦境を誰かのせいにして、それを打ち払えばまた元通りの生活に戻れるのだと信じたかったのかもしれません。

 そんな風潮を察知し、旦那様は私に「妻と息子を連れて逃げろ」と命令なさいました。公爵家として、領主として己の土地と民の責任を取らねばならぬ私が逃げることはできない、だから妻と息子、そして使用人のお前達だけでもと旦那様は悲壮の表情をされました。

 そんな旦那様に、奥様は「お前様の役目がこの地に残り責務を果たすことであれば、私の役目はお前様の側で妻としての責務を果たすことです」とおっしゃられ、奥様は最期まで旦那様と共に在りたいと領地に残ることを決意されました。

 本音を言えば、私も領地に残って旦那様と奥様を守る盾にでもなりたいという気持ちはありましたが……旦那様と奥様が責務を果たされると言うのなら、私は私の責務を果たさねばなりません。他の使用人達は口々に領地に残ると言いましたが、私は旦那様と奥様に「どうかご無事で」と思いの丈をぶつけるように頭を深く下げ、坊っちゃんにお別れのご挨拶を促すと坊っちゃんの手を引いて屋敷から去りました。

 その時のお二人の顔が、未だ忘れられません。旦那様と奥様は、見たこともない程美しく、柔らかく微笑んでいらっしゃいました。

 雪の降る夜でした。寒さに凍える坊っちゃんの手をぎゅっと握り締め、私は夜の街道を進んで行きます。

 暗い夜に、旦那様の用意してくださった暖かい黒い外套が功を奏したのでしょうか。それとも大人一人子供一人の少人数だったことからまさかその内一人が公爵家の息子だとは思わなかったのでしょうか。逃げ延びる途中、多少の襲撃や柄の悪い連中に絡まれることは覚悟していましたが、幸い誰にも話しかけられることはなく、ただただ雪がしんしんと降り注ぐのみ。思ったほどの悪いことは起こりませんでした。

 ただならぬ雰囲気に気を張っていた坊っちゃんも流石にここまで何もないと気疲れしてしまったのか、それに夜でしたから、坊っちゃんは道の中途で眠ってしまわれました。

 それでも立ち止まるのは不安に思われて、私は坊っちゃんを抱き上げ夜の街を走り、そうして夜が明ける前に街を抜けました。そこからはもう流れるようでした。

 旦那様が街の外に待たせてくださっていた馬車に坊っちゃんを乗せ、馬車はゆっくりと走り出します。無事領地を抜けられるかどうか、旦那様と奥様の安否ばかりが気がかりで、眠れなかったのは馬車の揺れのせいだけではなかったでしょう。

 …………旦那様が用意してくださった別邸に辿り着いたのは、それから三日後のことでした。私は戦火の中心に身を置く旦那様と奥様のことが心配で堪りません。

 しかし、私は思いました。こんなに愛らしい息子がまだ成長途上にあるのです。その成長を、どんな手を使ってでも見守りたい、そう思うのが親心というものではありませんか。フェニキス坊っちゃんがいらっしゃる限り、旦那様も奥様も、死ぬ訳にはいかない筈です。

 ならば私は、その大切な大切な坊っちゃんを、責任を持って育て上げましょう。旦那様と奥様はいつの日かまた、坊っちゃんに会いにくるのですから。そう私は決意し、坊っちゃんを立派な男性へと育て上げてみせることを旦那様と奥様に密かに誓いました。

 しかし、坊っちゃんの教育は難航しました。坊っちゃんは遊びたい盛りですから、椅子に座ってさあお勉強、とはいきません。お勉強は、坊っちゃんにとって酷く退屈なことに他ならなかったようです。坊っちゃんはこの私めの言うことなど少しも聞いてはくれず、椅子にも座らずきゃあきゃあと遊んでばかりいます。さあ困りました。


 ばき、と音が立ちました。


 中々に痛いものです。顔を顰めて僅かに痛んだ固めた自身の拳を一瞥してから坊っちゃんの方を見やれば、坊っちゃんの頬は赤く腫れ上がっています。坊っちゃんは何が起こったのかが分からないというように一瞬呆然と目を見開きましたが、それからぎゃあぎゃあと泣き叫び出しました。

「坊っちゃん、お勉強を致しましょう。さあ椅子に座ってください」

 そう椅子を引いても坊っちゃんが動く気配はなく、ぺたりと床にへたり込んでぎゃんぎゃん泣き声を上げています。

 子供とは難しいものですね。しかし、坊っちゃんを聞き分けの良い優秀な子供に教育するのもこの私めの仕事です。泣き喚く子供の頬を今度は平手で張り、「坊っちゃん、お勉強を致しましょう」と再度言い直せば坊っちゃんはぼろぼろと涙を零し、震えながらも引いた椅子に座ってくださいました。

 これは良い傾向です。この調子でお行儀良く勉学に努めていければ、元々賢い坊っちゃんのことです。きっと成人なさる頃には引く手数多の秀才となられるでしょう。旦那様と奥様もさぞお喜びになるだろう、とお二人の笑顔を思い浮かべて私は頬を緩めました。

 それから私と坊っちゃんはありとあらゆる教養を身に付ける為の勉学に奮走しました。気を緩めてうつらうつら舟を漕いでしまったり集中力を欠いて凡ミスをされては敵いませんので私は坊っちゃんのすぐお側に付き、集中力を欠いていると判断した時はすぐに目を覚まさせて差し上げました。

 ……後で気付いたことなのですが、初日に坊っちゃんを殴った時、坊っちゃんの頬は暫く赤く腫れ上がっていました。顔を殴っては坊っちゃんの愛らしい顔が歪んでしまうかもしれない。

 それに気付いて私は酷く己の行いを後悔し、それから手を上げる時には服の下に隠れる部分にしなければならない、と深く反省をしました。若き日を思い出します。教育係の先輩執事は大変な思いやりを私に下さっていたのでしょう。

 身体に沢山の痣ができた姿を人前に晒すのは、坊っちゃんもお嫌でしょう。私はそれから坊っちゃんの目を覚まさせる時は、顔ではなく腹などを殴ることとしました。

 それから日夜、勉強勉強の毎日です。……遊びたい盛りの坊っちゃんにそれは大層残酷なことだったでしょうが、領地は荒れに荒れ、将来の坊ちゃんの立場は非常に危ういもの。私めは、坊っちゃんの将来が気掛かりで気掛かりで仕方がないのです。せめて厳しい世間に立ち向かえる教養を。そう一介の執事が願ってしまうのは、出過ぎた真似でしょうか。少なくとも私は……。

 坊っちゃんの手が滑って手の中で万年筆が躍り、インクは文字にならぬめちゃくちゃな道筋を辿ります。おっと、これはいけない。





 私は、坊っちゃんに幸せになって欲しいのです。








 月日は流れ、坊っちゃんは成人の歳となられました。

 上背はまだ私には及びませんが、それでも坊っちゃんが健やかに成長されたのがこの私めの最上の喜び。鞭の当たった裂傷の広がる背中が幼かった頃よりずっと大きくなり、私は思わず泣きそうに笑ってしまいました。

 そして、その朝、とびきりの朗報が飛び込んでやってきました。なんと、旦那様と奥様が十数年ぶりに坊っちゃんに会いにやってくるのだと言います。

 旦那様と奥様は、あの戦火の中で命からがらに生き延びて、怒れる領民達の心を鎮め諭し……長きに渡った領地の内紛を収められたとのこと。無事を報せると共に再会の日時を示したその手紙を読んだ瞬間、私は感極まるあまり溢れ出る涙を止めることができませんでした。

 この日の為に私は生きて、坊っちゃんと共にやってきたのだと強く実感しました。坊っちゃんも旦那様と奥様の心配が要らない程立派になられ、どこに出しても恥ずかしくないと自信を持って言えます。そうして慌ただしく日々を過ごし、いよいよその日。旦那様と奥様に再会する……というその直前も直前に。


「レナート、お前をこの領地から永久に追放する」


 そう、眉間に深く皺を刻み、額に青筋を立てたフェニキス坊っちゃんに告げられました。

「へ」

 最初は告げられたことの意味が分からず、唖然と立ち尽くしていました。使用人達の間にざわざわと動揺が広がります。すると坊っちゃんは、嘲るように低く笑われました。

「分からないとは言わせないぞ。何なら僕は父様と母様に背中をお見せしても良いんだ」

 分かるだろ?そう言って、坊っちゃんはふんぞり返って腕を組まれます。嗚呼、坊っちゃん、お行儀の悪い……。

 しかし、それを指摘しても、領地から永久に追放ということは私は坊っちゃんのお世話係を解雇されるということでしょう。そうなった以上、私は坊っちゃんに物を申せる立場ではありません。坊っちゃんは立派になられ、私のような者が教えられることも、もうなくなってしまいました。

 名残惜しさと寂しさを感じながらも、私は微笑み、頭を深く下げます。

「坊っちゃん、これからもどうか、健やかにお過ごし下さい。」

 私はそれだけを言い残し、踵を返しました。


***


 あれから四年が経ち、私は満点の星空の下、背中に麻袋だけを背負って、行く宛もなく流離っています。私はあれから、領地を出て世界各地を歩き回り美しい風景などに触れて回りました。

 「坊ちゃんは我儘です!大恩あるヒルガルド様を解雇されるなど……」「そうです、坊ちゃんも、あのように雄々しい背中をされて、立派になられたのですから感謝すべきなのに……」そう、使用人達は口々に言って私を引き留めましたが、仕方がありません。

 それにあの時、坊っちゃんにとって私は生まれた頃から側に仕える者でしたから、坊っちゃんは私が主人に、領地に縛られていると不憫に思ったのでしょう。さながら籠の中の鳥を逃すように、私めを領地から解き放ってくださったのでしょう。

 「あの心優しい坊ちゃんを支えてやってください」とそう答えると、使用人達は名残惜しそうにしながら私を見送ってくれました。

 私はその坊ちゃんや使用人達の意志に応えようと、世界中を巡ることを決めたのです。

 各地の絶景は心を癒し、自然の中では屋敷の中では得られなかったような雄大でいて緩やかな時間が流れています。時折、旦那様と奥様、そして坊っちゃんの元で働いていたあの時が懐かしく、恋しくなりますが……坊っちゃんも、大人になられたのです。私めが子供離れならぬ坊っちゃん離れをできずにいて、どうするという話でしょう。そんな寂寥を咳払いで飲み込んで、私は天上いっぱいに広がった星空を眺めて、ほぅ、と息を吐きました。


 そういえば、背中を見せるとかどうとか言っていたのは、何だったのでしょうか。

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