8話目 湊先輩、あなたの後輩です!


 とりあえず殺そうと思った。

 息が詰まり、瞠目し、少し経って正常な思考が働くようになって一番にそう思った。

 殺そうと思ったのは、他でもない。

 馬鹿げたことを口にした、目の前の愚かな男の口を塞ぐ方法は一つだけ。殺すしかない。そう、本気で思っただけのことだった。

「…………気に入らない?だから殺しちゃう?」

 俺を。

 そう男は冗談めかした口調で言って、はははと笑った。だがその瞳の奥には笑みではない奇妙な感情が渦巻いており、あれだけ美しかった翡翠が俗物に染まってしまったようで吐き気がする。

 敬愛する先輩の変わってしまった姿を痛ましく思いつつ、佑希は静かに目を伏せた。少し考えた末……。

「そうしましょう」

「待て待て待て待て情緒情緒もうちょっと情緒をだな」

 やはり殺すしかなかろうという結論に至った。

 今日は雨が降っていて、小雨だったが来る時は傘を差して来た。あれは誕生日に両親に貰った確かそこそこ値の張るお高い傘で、強度は十分。

 例え折れたとして、先輩の死に何らかの爪痕を残せるのならば彼も嬉しかろう。

 そう端的に判断して、つかつかと早足で玄関に向かう祐希を男は……湊は慌てて引き留めた。

「何か?」

「前々からヤベー後輩だとは思ってたけどここまでヤベーとは思わねぇんだよなぁ……」

「湊先輩がお話しになりたいことは全て俺が聞き届けます。ご安心ください。それはともかく傘だけ取って来てもよろしいでしょうか」

「気に入らなかったら撲殺する気満々じゃねーか!!」

 聞くっつーのは一音だけ聞いたらハイ聞きましたね使命完了、じゃなくて聞き届けるっつーことだって前教えたろうが!!人が言ったことは覚えとけよ!!と、そう叫ぶ湊に祐希は心外だと思い不満げな顔で反論した。

「湊先輩の言ったことを忘れるなんてまさか。きちんと全て覚えています。そして湊先輩は『俺の言ったこととか周りの大人ぜーんぶに従わなくて良いんだ。言われたことはまず受け止めて、ちゃんと理解する。相手の意図とかそういうのな?受け止めねー時点で「そういうの違うと思います!!」って突っ撥ねる奴はゴミ。まずはちゃんと受け止める。だけどそれに従うか従わないか決めんのはお前自身。理解した上できちんと意思持って従わないなら、誰も文句は言えねーよ』と仰いました。そして俺は今回の件には賛同できないので、その教えに従い相容れないと判断した場合聞かないという選択を」

「オッケー、なるほどね〜?元凶俺じゃねぇか!!でも人の話は最後まで聞けとも俺言ってねぇか!?」

「湊先輩は朝礼の教頭先生のお話の時指遊びをしてらっしゃいましたが」

「自分で言ったこともできてなかった!!」

 祐希に何を言っても弁舌では勝てないと再確認させられたらしい湊は、不貞腐れたように後ろのベッドに倒れ込んだ。

「……湊先輩、訳を聞かせてくださいませんか」

 そうだ、いきなり『明日から俺とお前は先輩後輩でも知り合いでもなく赤の他人だから!!そういうことでよろしく』などと言われても、納得ができない。

「湊先輩、俺に何か思う所があったというのなら、どうか」

 弁解のチャンスを。

 そう、祐希の眼は痛切に揺らぐ。湊はそんな後輩からごろりと寝転び眼を背け、「お前、俺の物真似上手いな……」と小さく呟いた。

「あー、えっとな。……あー……いっか、お前なら……」

 目を閉じて、もごもごと口籠もり、それから今にも眠りに落ちそうな脱力した声で、湊はこう言った。

「明後日俺、殺人犯になるからさ」

 祐希は、ぱちくりと瞬いた。

「殺すんですか?」

「そう」

「誰を」

「親父」

 だからお前、俺と知り合いだと困んだわ。そう湊は何でもないことのように、さらりと言ってのけた。

「…………ちなみに言うと、何故」

 殺害の動機は、と問うと、湊は「んー」と顔を顰めて、それから曖昧に口を開いた。

「あいつさぁ、店員さんとかに怒鳴るし犬が吠えたり赤ちゃんが泣いたりするのにも怒鳴って、情けないし正直言って恥なんだわ」

 短気ですぐ暴力振るうし、パチンコで生活費スるし、と指折り数えて、湊はまたぱたんと腕をシーツに落とす。

 白いシーツに広がった、花のような金髪が酷く美しかった。

「……何か、面倒くさくなってきちゃって」

 だから殺そうと思うんだよな、と湊は目を閉じたまま言った。


***


 その後は、ぽつぽつと話をした。

 何故実行日が明後日かと言うと、お世話になった人達に明日お礼を言って、全部の関係を終わらせてから一人で終わりたいからなのだとか。

 明日学校に行って、沢山のさよならを告げて帰って来てから一息も付かずすぐに人を殺して一人で行く当てもなく逃げる、というのは酷く疲れそうで、世間から批判こそされても殺人犯を励まして応援してくれる人などいる筈もないので心労的に厳しいと思うから、だとか。

 湊先輩の腹はもう決まっていて、もうそれ以外を選んでくれるような気配はなかった。

 気を付けて帰れよ〜、と明後日殺人犯になると告げた男とは思えない程呑気に手を振る湊に見送られ、祐希はとぼとぼ帰路を行く。引きずる傘がガリガリとコンクリートの地面を掻いた。

 胸の真ん中にぽっかりと穴が空いたようだった。

 どうにも自分の身体が薄らいで、空虚になったような感覚が離れなかった。


 明後日、俺の先輩は殺人犯になる。


 俺は昔からそうだった。周りに流れる微妙な空気というものがどうしても読めなくて、常識というものが理解できなくて、ずっと群れから外れて一人ぼっち。

 二人以上のなり方なんて、誰も教えてくれなかったし分からなかった。

 言葉にできない空気、常識、誰も教えてくれないのに分かれなんて傲慢だと思わないか。そう思っていたし、今もまだ、そう思っている。

 けれど俺が中学二年生になってから、人生の全てが変わった。

 世界の全てが色付いた。湊先輩に出会ったのだ。

 先輩は世界の全てを教えてくれた。

 全部を言葉にして、世の中の形容し難い常識やら空気やらを物質化させて、赤子の口に離乳食を運ぶように、全てを俺に理解させようと努力してくれた。

 ……いや、湊先輩にとっては、他の誰にもできなかったそれは特段大変なことでも努力だった訳でもないのかもしれない。

 それでも、湊先輩以外にはそれができなかった。

 だから、湊先輩が、俺にとっての世界の全てだった。湊先輩が、俺にとっての世界だった。


 そんな湊先輩が、居なくなる。


 後輩先輩、全部の縁が切れて、一人で歩かなきゃならなくなる俺は、何者になるのだろうか。

 湊先輩の後輩じゃない俺は、一体何と呼べるのだろうか。

 分からぬままに、一人歩いた。

 ふと出掛けに母が、今日のご飯はハンバーグよと浮き足立って言っていたのを思い出す。

 そう言えば父は確か珍しく、今日は早く帰るとか、言っていたような。

 あれは一体何だったのだろうか。

 …………ああ、そうだ。誕生日なのだ。俺の。

 ハンバーグは特段好きでもないが、湊先輩が好んで食べていたので幼い頃に食べたきりだったのを思い出して、母にリクエストしたことがあった。

 結果的には肉の塊といった印象で好きでも嫌いでもなかったが、その時の母がやけに嬉しそうで驚いて、確か次の日湊先輩にどういうことだったのだろうかと聞いたのだったか。

 普段は会話もなく、返事の素っ気ない俺が珍しく自分からリクエストしてきたことに喜んだのだろう、というのが湊先輩の見解だった。どうしてそれで喜ぶのか、と俺が言えば、湊先輩はこう返した。

 お前を愛しているからだ、と。

 愛していなければ素っ気なくて返事もまともにしないような奴にまた話しかけたりとかしねーよ、時間の浪費ってか人生の浪費だからな、と湊先輩は顔を顰めながらもそもそとふにゃふにゃになったポテトを食べていた。

 比較的カリカリしていそうな俺のポテトと交換してやると、それまで例を見なかったくらい喜んでいたのをよく覚えている。

 家に帰れば、父と母が誕生日を祝ってくれるだろう。心からの愛で、この胸に空いた大きな穴さえ埋め切ってくれる。きっと父と母は心から俺の幸せを祈ってくれるだろうし、不自由することもないだろう。

 今までもそうだった。

 湊先輩が居なくなったところで、何が変わる訳でもない。……それでも。

 雨上がりの水面に、虹が静かに揺れている。

 俺はこれから、どうすればいいのだろうか。

 そんな祐希に、声が答えた。

『結局、お前はお前の好きなようにすりゃあ良いんだよ』

 ぽっかり空いた胸の奥から、深く、遠く、響く言葉。

 聴き馴染んだ声。優しくて、少し乱雑で、誰の声よりも愛しい、あの人の声。

 前に、話したのだった。

 もし俺が居なくなると言ったら、と湊先輩が言い、そんなことを言えば俺は湊先輩を殺します、と俺が言うと、マジでやりそうと湊先輩は笑っていた。

 そして、俺はこうも付け加えた。

 先輩が居なくなるのなら、俺も一緒に居なくなります。そう言った俺に「それ結局居なくなれてねー気がすんだけど」とまた湊先輩が笑っていた。

 あの時のやりとりを、たった今、鮮明に思い出した。そして、湊先輩も覚えていたのだ。

 もう後輩でなくなる俺に、最後の一度だけ、選ばせてくれたのだ。

 殺すか。殺さないか。

 先輩後輩でなくなるか。そして。

 嗚呼、俺は……。


***


 今までお世話になった人にお礼を言い終え、湊は帰路を急いだ。

 挨拶回りには想像したより遥かに時間が掛かってしまって、いつもより学校を出る時間が遅くなってしまった。

 もうじき日が落ちる。

 あのクズは、どうせ帰りが遅ければそれにこじつけて暴力を振るってくるに決まっているから面倒だ。

 殴られるならまだしも、意味の分からないねじ曲がった説教で睡眠時間を削られるのが一番許せない。

 どうか、殴られるだけで済みますようにと願いを込めて、湊は玄関扉をゆっくり引いた。

 臭いに、はっとする。

 靴を脱ぐのも忘れてリュックサックを床に放り、湊は弾かれるようにリビングへ飛び込んだ。鮮烈な赤が、白い壁を伝っている。黒いレインコートを着た人影がゆらりと陽炎のように立っていた。

 誰だ、と湊は小さく呟く。

 語り掛ける程の勇気もなく、床に落ちた声を辿る指先が震えた。

 すると血を浴びた影は振り返る。

 そして、こんにちは、と恍惚として微笑んだ。

「湊先輩、あなたの後輩です!!」

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