黒猫


 犬の獰猛に吠える声がして、黒猫が崩れかけのブロック塀から飛び降りた。

 黒猫はしなやかな毛並みを柔軟にうねらせて着地の衝撃を柔らかに殺し、高所からの落下を感じさせない程静かに降り立つ。そうして彼女は身体をぐるんと反転させ、暢気にまぁるく寝転んだ。

 ……犬の吠える声は、まだ聞こえる。けれどもその吠える犬の姿形はどこにも見当たらず、黒猫が容易く飛び越えてみせたブロック塀にも爪先さえ掛からない。彼女はそのままブロック塀に陽の光の覆い隠されない陽だまりで、ぽかぽかとした陽気に微睡みながらぺろぺろと足の裏を舐めて毛繕いをしていた。

 彼女はその犬が、塀を越えられないことを知っている。だからその犬を畏れない。

 彼女はすく、と立ちあがり、大きく鋭い、夜の匂いのする硝子のような瞳をこちらに向けた。

 足音がしない。

 彼女は床に溢れた水滴をぴちゃぴちゃと尖った舌で舐め取り、貪った。彼女は私が三歩も足を踏み出せば、容易に手の届く所に在る。そう、黒猫は、私が妙な気を起こして形振り(なりふり、ルビ)構わずベッドから転げ落ち、手を目一杯、引き千切れるのと引き換えになってもと歯を食い縛る勢いで伸ばせば不躾で高貴で気高い柔らかな畜生の毛皮を握り潰すことのできる距離に在った。それでも彼女は、畏れない。

 彼女はその人間が、ベッドから……自分の領域から出られないことを、知っている。


***


 透き通った冷たい空気が流れ始め、昼と夜の狭間の空が揺れている。

 雲の流れがやけに早く、空模様はまるで彼らが迫り来る深い夜から隣の空まで逃げ出そうと躍起になっているようにも見えた。

 夜が来る。誰も逃れられない。

 私は足の包帯を巻き直して、血の染みた古い包帯でくるくるとリボンの形を作った。


***


 私がその人に拾われたのは、五歳の頃のことだった。正確には、拾い直されたのは。私はそれまで父と母だと思っていた人に育てられ、順風満帆とは行かないがそれでもそれなりに、満ち足りぬなりに幸せな毎日を送っていた。けれども五歳の時、平穏な毎日ががらりと色を変える。契機は、或る女だった。その女の私達の家に訪れるなり唐突に放った「娘を返して」という金切り声が、その日から私の全てを変えたのだ。

その女の言葉を聞いて私にとって父と母だった人はおろおろと目線を彷徨わせていたが、やがて自らの胸の内に金切り声への心当たりを認めたらしく、声を潜めて静かに「大人の会話」をし始めた。

 キョウイクヒガ、イママデアリガトウゴザイマシタ、ショクヒハ、ビョウキハ。コチラコソ。徐々に当時の私には分からなかった難しい単語が滑らかに彼らの間を行き交い始め、ベッドの上で絵本を読んでいた私を余所に気付けば話は終わっていて、あれよあれよと私は家に押しかけてきた女に手を引かれて知らない道を歩いていた。

 両親だと思っていた人間と私に、血の繋がりは無かった。

 私は齢五つにして信頼していた人間が自分に嘘を吐いていたという事実と、今までの幸福が全て偽りに囲い込まれたものであったのだという重苦しい真実を急激に叩き付けられた。

 だがしかし、不思議とそこに裏切られたという憎悪や驚きは、その当時の私にはなかった。私は既に、父と母に、聞いたことがあったのだ。「わたしはおとうさんとおかあさんにどうしてにていないの」と。

 それは当時の私にしてみれば、友達に「あまりにてないね」「どうしてなの?」と聞かれたことをそのまま転写した、深い意味のない質問だった。しかし彼らはその質問に俄かに動揺し、互いに顔を見合わせ、歪んだ微笑みで私を宥めすかし話題を逸らした。

 その表情は今にして思えば、扱い方の分からない他所の家の犬の躾をする人間の姿に近いものがあったかもしれない。世話をしている他人の犬がどんどん先を行ってしまうので、引き留める為にも、犬が主人の指示に従わずいつの日か車に轢かれて踏み殺されてしまわない為にも、どんどんと先へ行く癖を矯正する為に自分はリードを引かなければならない。けれども犬は他人の持ち物であって、当然それは、自分のものではない。その為首紐を引っ張ってしまって、それが躾だとして、他人の持ち物にそんな些か乱暴な扱いを与えてしまって、良いものか。彼らの表情にはそんな、どこか距離のある複雑な逡巡と困惑が秘められていたやも知れなかった。

 両親は優しい人間だった、けれども人一倍不器用で……否、優しさ故に不器用で、私は実の親を知りもしないのだから「あなたは私達の実の娘」だと私を捨てた愚かな男と女など乱暴に葬り去って私の歴史から千切り取って自分達で丸ごと私を幸せにして仕舞えばよかったのに、罪悪感の為に完全にそれを排除できず、父と母であると名乗りながらも私の本当の父と母のことを気遣って他人としての立ち位置を完全に捨てられずにいたような人達だった。そして優しさの為に彼らにとってその罪を背負うことは、人一倍辛く苦しいことだった。

 その為彼らのその罪の意識の残滓は時折幼い私の目の前までも漏れ出て、その度に私を憐れませた。その罪の意識の契機となったのが何であったか、とは当時の私は知りもしなかったが、だがそれでもきっと、それは彼らの苦しむべき咎ではなかろうと私は直感的に感じ取っていた。

 彼らは優しいのと同時に、少し……頭が悪かった。幼い私よりもだ。学問の話ではない。彼らは生まれ持った人間的な知力に於いて、狡猾な人間には到底なれない圧倒的に要領の悪い人間の類に属していた。

 そこで罪悪感など覚えなければ、彼らはもっと楽に生きることができるはずなのに。そこで知らぬふりさえしていれば、罪をおっ被せられることも無かったのに。そこで無駄な自罰などしていなければ、もっと先へ行けた筈なのに。

 彼らにそう思う出来事には事欠かず、私が「彼らと私では根本的な人間としての考え方が違っているのだ」と気付くまでにはそう時間は掛からなかった。

 けれど彼らにとって「かわいそう」だったのは私の方だったらしい。そう、私の足は、先天的な病魔で表皮が爪先から足首までがぐずぐずに侵されていた。

 それは見るに痛々しく、火傷の傷のように赤い皮膚に焦げた肉の黒炭のような斑が趣味悪く散りばめられ、私の足は丸ごと全てが宛ら傷口だった。

 しかし病魔の蔓延るはその足の表皮のみ。つまりは私の足の中身の筋機能自体には全く異常がない。それ故私は不随とは違って機能的に「歩けない」という訳ではなかった。だがしかしそうだとして「だから歩けます」という単純な話ではない。既に病気に皮膚の装甲をずたずたに引き裂かれた私の素足は足首を傾げて地面に足を付け、自分の体重を支えて足全体で伸びをする些細な動作でどろりと膿を出し、薄い皮膚はその度に容易くみしりと裂けてだらだらと血を流した。

 生まれ落ちたその時からどれだけの愚者であろうと容易くできる、動く、というだけの呼吸に次いだ当たり前の動作。そんな当たり前のそれさえも私にとっては全身を引き裂かれるような痛みと引き換えの行為で、一歩を踏み出す度に自重のかかった傷口を床の接地面が私自身を直接抉る、なんて、とんだ拷問。

 私は生まれ付き、健常の足を持ちながら歩くことのできない身体だった。


***


  夜の道を、女は私の手を引いてぐんぐんと歩いて行く。

 冷たい風が容赦なく覆うもののない顔に吹き付けてきて、ひりひりと痛かった。けれどもそれ以上に、針で貫かれたような痛みが一足一足にかかり、しかし大人の足に追い付こうと思うと足へ掛かる負担を少しでも減らす苦心をする暇もなかった。

 私はただ引き摺られるように女の大股の一歩とどうにか差を縮めようと必死に歩いた。

 早足で歩くより、足がもつれて転ぶ方が痛い。私はその最悪の事態をどうにか避ける為だけに全力を注ぎ、包帯の巻かれただけの裸足で外気に晒され冷えた石畳をぺたぺたと、半ば走るような形で早足で駆けた。

 石畳に赤く足跡が付いている。

 私は歩けないから、両親だった人達は私の靴を買っていなかった。その代わりに両親だった人達は私を抱き上げて私の足の代わりになって、どこへだって連れて行ってくれた。

 女は私の足の代わりにはならない。ぺたぺたと足跡を付けて駆ける。弾む衝撃を与えられ続け、焼き切れそうにじゅくじゅくと熱を持った傷口にひんやりとした石畳は材質としては優しくなかれど、幾分か心地良かった。

 女は、私が裸足であることを気にしない。

 女の腕の力は強かった。私の歩幅も、足の痛みも、女にはまるで関係のないことのようだった。否、実際に、彼女には関係がなかったのだ。彼女には両親だった人達と違って人を慈しむ力はとうに枯れているか、最初から無かった。私を再度拾い上げた理由も私に利用価値があったからに他ならず、両親だった人達がきっとそうだろうと思い込んだような当たり前の娘への愛着などは、彼女には持ち合わせがなかった。強いてそれに持ち合わせがあったとしてそれは娘ではなく、元は自分の所有物であった、手放さざるおえなかった自身の財産を取り返したいが為の、一度自身の所有した者に対する執着だった。

 夜が傾く、暗くなっていく。ぽつりぽつりと街を照らしていた街灯の姿が見えなくなっていく。街灯の間隔が一歩一歩と進む度に広くなり、光が弱々しくなっていく。

 いつしか煌々と辺りを照らしていた光は消え、辺りには暗闇だけが広がっていた。

 割れた瓶の硝子が足の裏を突いた。けれどその硝子はそこへ散らばってから随分時間が経っているらしく、誰かに踏み砕かれ、雨風に晒され、すっかり角が削られていた。

 足の感覚はもうとうに麻痺し切っている。痛覚の喪失は即ち、危機信号を受け取れなくなったことに直結する。

 痛覚を始めとする自然界から受ける刺激の全ては往々にして、脳に回避すべき命の危機が側にあり、自身がその下に晒されているのだということを示している。つまり痛覚を感じ取れなくなったということは単純に、死を回避する為の抑止力の崩壊と同義。そう、私は、今自分の足に何が起こっても、全く認識ができない。

 足が軽かった。自分の物として動かしている感覚すらも消えている。私はひたすらに足を機械的に循環させた。そんな掻き消える寸前の灯火の輝きを思わせるようなその働きには、今思い返せば喪失を畏れてぞっとする。とうに限界を超えた自らの足は健常な筋肉の疲労も病弱な皮膚の齎す激痛も忘れていつがらがらと崩れ落ちてもおかしくない有様だった。そしてその危機を知覚できない状態にある私は即ちそれが起こっても足に適切な処置が施せず、私はその足の断面を晒し続け、その足の断面を石畳に直接押し付けながら歩き続けて大量に血を失って死ぬかもしれなかった。

 だがしかし、その危機的状況を目の前にして尚、私の胸は私はときめきのような妙な高鳴りを覚えていた。

 私の足は、私の物。

 そう一足踏み出す度に私は明確に知覚し、口角が抗いようもなく吊り上がった。

 吐く息が白い。胸が苦しい。歩くことができず、それの代替となる筋力を衰えさせぬ為の運動は行っていたとはいえ生まれて一度も走ったことのない身でこれだけ走り続ければ、肺機能が保つ筈はなかった。

 鉄の味がする。一歩を踏み出す度に針で皮膚を食い破られるような痛みの幻影が足全体に掛かる。

 咳をした。正確に言えば、肺が足りない酸素を求めて喘ぎ、危機を訴えていた。

 視界は明滅している。夜のせいだけではない暗い靄がかかり、何も考えられずぼうっと意識がフェードアウトしていくのが分かった。それでも私の胸は、弾んでいた。

 私の足は、私の物。

 誰にも奪わせやしない。生まれ落つ時に神様に偶然攫われてしまった私の足。私が落っことしてしまって神様が善意で持ち帰った、私の足。

 嗚呼、取り戻す時が来たのだ、と思った。

 目眩がして、生温く切らした息に苦鳴の嗚咽が吐瀉感を伴って混じった。

「ぉえ゛、ぐ、ごぇ……か、は」

 未熟な肺機能が、足が、悲鳴を上げている。しかし、それは私の支配の証左であった。

 頬が知らずと緩む。今までは、息が切れるまで走るなどということはしたことがなかった。私の意思に従わぬまま、足も肺も、私の意思など知らぬという限りでどこか他人事に私を今に至るまでぼんやりと生かし続けていた。

 そんな肺と足が、今私の願いに呼応するように、私の行動に引き摺られるように狂い悩み、当惑をしながらその活動に懸命に追従しようとしている。

 全身に、私の為の血が巡っていた。身体全体がぶるりと震えた、脳が痙攣する程の歓喜と快感がそこにあった。この身体に満ちる苦痛の全ては、私が生きているという証明だ。

 私は生きている。私は私の為に生きている。私の為の、身体。

 私の身体はブロック塀の中で吠える為にあるのではない。猫のようにしなやかに、あの塀を越えた向こうの世界の為にあるのだ。

 女はこちらを振り向かない。

 私は恋する心地だった。あの生温い、あの優しい温室は、私に痛みを与えなかった。だから私にとってあのベッドの上で感じていた夜は、足の傷を抉る冷たい痛みとなって私を襲った。しかし今は違う。

 身体全体で切った風が、後ろへ流れて置き去りにされていく。私は置き去りにされていない。脳の髄まで痺れるような、性的快感に似た震えが私の奥底を背骨となって貫いた。込み上げる笑いが酸素を徒に消費し、私ははしたなく吊り上がった口元を隠す為に唇に手を添えた。

 嗚呼、嗚呼、私は、自由だ。

 ぺたぺたと石畳に付けた足跡の赤い痕跡は精神的な、倫理的な健常者が見れば、医者が見れば、両親だった心優しい人間が見れば怒り、そして深く嘆くだろう。ギャンギャンと鳴いて、到底走れる状態をしていない私の足の皮膚を見て誰もが私を走らせた女を責め立てるだろう。けれども彼らは今は眠っている。彼らは己の瞼の裏を眺めて続け、彼女を咎められずに眠り続けている。少女の足の傷も、少女の喘鳴も夜の闇に吸い込まれて、彼らは何一つ知覚できない。そんなお馬鹿な子犬さん達にできることは精々、ブロック塀の中で吠え続けることだけだ。駆ける私の前には、爪先さえも届きはしない。

 女の黒い髪がさらりと流れる。女はこちらを振り向かない。

 女は私が痛みを訴えようと私が復讐をできるような力の持ち主ではないと確信している。子供の力は弱く、軽く、そして女が本気で私を置いて行こうと思えば私などは遥か彼方へ置き去りにできるのだ、と確信している。

 女は私をどこへ連れて行くのだろうか。奴隷商にでも売るのかもしれない。何にしろ、私を何かに利用することは間違いない。

 女は私が愚かしい子供の範疇から出ることのない、畏るることのない存在と、知っていた。私の涙の甘露を啜っても、私という弱者ごときがしなやかな足を持つ己に到底手出しはできまいと、確信していた。

 しかし女は知らない。私はもう、あのベッドの上から降りたのだ。

 すん、と鼻を鳴らした。夜の匂いが変わって行く。黒猫のような金色の瞳を大きく開いて、私は息を吸った。

 さあ、私の夜が来る。

 黒猫を蹴り殺した。

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