紙の上の魔女
赤い電車が、劈くような音を立てて朝のホームを貫いた。
八両編成の電車がホームに最終両の尻だけ残して慌ただしく停車し、キィー、と車輪とレールが擦れて甲高い悲鳴を上げる。ただそれ以上に悲鳴を上げたかったのは運転手に間違いないだろう。電車の前に躍り出た、サラリーマンの通勤鞄が線路と線路の間で物悲しげに佇んでいる。
目の前で止まった電車、その名札には緑の「快特」という文字。それに乗っていた人々だから遠くへ行く人か、きっと急いでいたに違いない。……ご愁傷様です。そう俺はその遭遇の不憫を憐れみながら、いざホームを顧みた。
サラリーマンが飛び込んだ瞬間、一瞬消えて、電車のパァー、と風を切る音、ガタンゴトン、という走行音に攫われて行った音が、再びホームに蘇る。
騒めき、悲鳴、怒り、そして、好奇。
そんな動騒がホームに満ち満ち、普通電車以外の停まらぬぱっとしない最寄駅は一気に常の静寂を忘れ、お祭り騒ぎの勢いになった。
誰かが、跳ね上げられた死体はあそこだ、と指を差した。物珍しいからかそれとも「人身事故、サイアク」とでもSNSに打ち込みたいのか、誰かがスマートフォンを取り出した。ぎょっとした。
パシャ
それに追随するようにパシャパシャと音が鳴り、ひどい時にはフラッシュすら焚かれた。それが傷付いた車体を映したものかホームの騒めきようを映したものか、はたまた他の何かを映したものなのかは分からないが、それが他の何かであればそこには恐らく、自殺であったとして、大勢に迷惑を被らせた犯人の話であったとして、死者への冒涜がある。
駅員の一人が「写真は撮らないでください」と半ば怒鳴った。焦りが同居していた。死体には青いビニールシートが被せられ、駅員達が慌ただしく動いている。シャッター音は鳴り止まない。
そんな中、隣の女がすっと懐から携帯電話を取り出すのが横目に見えた。「写真は……」丁度近くを通りすがった駅員が大きく口を開ける。彼女は無表情のまま顔を上げた。
美しい、女だった。
二十代前半に見える年若い顔付きをしていながら髪の色は白く抜け落ちていて、絹のように柔らかく光って、光が当たるとさながら聖母のようだった。瞳はリボンのような髪を纏める黒いバレッタと揃いの黒。それはどこまでも深い常闇の黒の色彩を持っていてまさしく漆黒と呼ぶに相応しい。光を表面的にしか映しておらず、その目本体が生き生きと奥底に何某かの希望を映して輝いていないのが陶器じみた温度のない滑らかな肌と合わさって、西洋人形を思わせて如何にも不気味だった。
そんな白と黒の色彩を持たない女に、何故だか悪魔的に惹き付けられて、目が追った。
彼女は、写真を撮ろうとして携帯電話を取り出したのではなかった。
そのたおやかな指は今時珍しいガラパゴス携帯の文字盤をなぞり、ゆっくりゆっくり、文字を綴った。
小説のような、ものだった。
彼女はその目で見たもの、映したもの全てを緻密に、文字の上で書き表していた。映像、音、そこで心揺さぶる全ての事象を自分を通して自分から湧き出る言の葉の源泉に乗せて、連ねて、文章に書き換えていた。気の狂った女だ。そうしたければ、写真や動画の方が余程工程は大雑把であっても、緻密だ。莫大な情報量がその一画面で手に入る。そうであると知らない筈はない。なのにも関わらず、彼女は目の前の情景を全て、文字に変えて物を描いた。その莫大な無意味を秘めた彼女の指先の動きから、目が離せなくなっていた。
陳腐な表現だ。馬鹿げている。旧時代的で新しくない。そうと知りながらも、その時その瞬間抱いた感情は、こうとしか言い表せなかった。
俺はその時、ストンと恋に落ちた。
白い睫毛が小さく伏せられ、その脳髄の奥では膨大な量の信号が行き交い、その中のたった一つを掴み取って、文を編む。たったそれだけの姿から、目が離せなかった。彼女は正しく、魔女だった。
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