煮凝り

刻壁(遊)

愛されること、自分を傷付けないもの。

 あなたが好きだと言われたその瞬間、陸の心の中でどろりと血を流していた鮮やかな果実が弾けた。

陸の人生は、些細な失敗の連続でできていた。

小学三年生の頃。上級生が合唱祭で指揮棒を振るうのに憧れて自身も指揮者を志望して、腕前を競うオーディションでその権利をもぎ取った。それはひとえに陸が指揮者になりたいと望んで練習をした、その努力がそのまま現れただけの結果だった。

 だがしかし大局はそれを認めなかった。陸と競合し、指揮を振るった少年のそれが陸と比べると遥かに滑稽に見え、指揮の練習を碌にしていないことが浮き彫りに見える酷く拙い演技だったのは確かなことだ。だがしかし彼はクラスの人気者で例え拙かろうと生真面目に事を運ぶことができなかろうと、確かに大衆に望まれていた。

 その為に陸は悪役に貶められた。

 指揮者になりたい、という憧れの為に陸の身に付けた圧倒的な努力で裏打ちされた指揮技術はいつしかクラスの人気者を惨めに貶めた凶器として扱われるようになり、それは誰からも肯定されることはなかった。同級生達は「空気が読めてない」とひそひそと陰口を叩き、貶し、練習の度に「早い」「リズムに合っていない」などと表向きは楽曲の精度向上の為と言って、お構いなしに陸の指揮と人格を否定する。そこには最早、事実の正誤などは関係がなかった。ただひたすらに、クラスメイト達には陸が悪役であることだけが重要事項だったのだ。

 それ故陸の心には両手を掲げたその瞬間、クラス全員からの視線が暴力性すら伴って荒波のように打ち付けたその瞬間の記憶が、抗い難いトラウマとして鮮烈に刻み付けられた。

 次の記憶は、小学五年生の頃。その時両親は、「あと一歩踏み出してしまえば離婚」というところまで来た険悪な関係性だった。顔を合わせれば喧嘩ばかり。陸が五年生になって以来、姉と合わせて家族四人で同じ机で食事をしたことなど無かった。だがしかし、陸は母と父が優しいことを知っていた。一人ずつ会えばまだ昔の優しいままで、強請れば頭も撫でてくれる。だから、きっと父のシャツから口紅の赤さえ取れてしまえば、また元通り母と仲良くなれる筈なのだと信じ切っていた。その為、陸は喧嘩する父と母の間で声を上げようとした。

 声は出なかった。

 父と母が、恐ろしい、この世の憎悪の全てを詰め込んだような瞳でこちらをぎろりと睨み付けたのだ。へたり込む陸を余所に、口論は続いた。それどころか陸が口を挟もうとしたことで、益々熱を上げたように見えた。

 父と母は、離婚した。恐らく自分は、失敗した。陸に分かったことは、それだけだった。

 そんな風に、陸が何かを失敗する度に「全ては陸の責任で、この失敗をしたのはこの男です」と言わんばかりに、まるでスポットライトの焦点を合わせるように、ぎょろりとした恐ろしい双眸がいつだって、陸を見ていた。陸にとってそれは拒絶の象徴だった。誰もがそんな真意の掴めぬぬるま湯のような恐ろしい目で、陸への嫌悪を声高に語っていた。

 だから彼女に好きだと言ってもらえたことはとても嬉しかった。高等学校の裏庭に誘われ、好きだとあの子に言われたその瞬間、あの子が慈愛に満ちた瞳でこちらを見たその瞬間、陸は少女の華奢な身体を抱き締めて、深い口付けをした。人肌の温もりを感じたのは、小学生の頃以来だった。

「僕を絶対に嫌わないでね」

 そう告白に答えたも同然に陸が言うと、彼女は微笑んで、こくりと嬉しそうに頷いた。帰り道、陸が自身の家に向かって彼女の手を引けば、おずおずと、しかし口元を仄かに弛ませて慎ましやかに後ろを着いてきた彼女の姿を、よく覚えている。

 そして彼女は、今でもその初恋の初々しさを失わず、約束を違えず、ずっと僕だけを愛し続けてくれている。

 なんともまぁ、健気なものだ。

 そう、陸は壁に凭れかかった彼女の空っぽの眼窩を愛おしげに眺めた。

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