第2話 闇色からオレンジ(2)

二月下旬、上の部屋に引っ越してきた住人が挨拶に来た。私と同じくらいの年齢の小柄なおばさんだった。


私もおばさんだけど、髪は伸ばしているし、化粧もネイルもしている。川瀬千鶴かわせちづると名乗ったその人は、化粧気のない顔にスポーツ刈りみたいな短い髪を緑色に染めていた。


世間じゃ女は髪が命だって言われているのに可哀想。


私は勝手に哀れんだ。


「あの、三葉みつばさん、アイスの工場で働いていますよね?」

川瀬千鶴は持参したお菓子を私に手渡しながら小さな目を見開いた。そう言われて私も相手の顔を凝視した。


思い出した。


最近入ってきた新人の派遣だ。仕事では帽子にマスク、全身白い作業着を着ているので気づかなかった。


「こんなところでお会いできるなんて! この前は運ぶのを伝って頂いてありがとうございました。あたし、足が悪いからお気遣い頂いたんですよね」

あの時は早く終わらせたくて運んでいたから手伝う気持ちはなかった。ただ、少し足を引きずっている感じが気になっていた。

「ずっと、お礼を言おうと思ってたの。三葉さん、いつも休憩時間に喫煙室へ行ってしまうから、なかなか声をかけられなくて」

それから千鶴は夫婦で住んでいること、時々、趣味の洋裁をするからミシンの音が聞こえるかもしれないことを明るい調子で話すと帰っていった。


夫婦で住んていると聞いて私は少しショックだった。


どうして私よりも見た目の劣るあの人が結婚できているの?


何だかむしゃくしゃして、もらったお菓子をゴミ箱に捨てた。


土曜日になると川瀬千鶴が夫婦で大きな袋を両手に、仲良く車へ乗り込む姿を見かけた。なるべく会わないようにしていても、同じアパートに住んでいるのだから仕方がない。仕事帰りに一緒になることもあった。


「作ったものをネットで売ってるの。郵便局の本局なら土曜日もやっているから車で持ち込んで発送してるのよ。この時期は幼稚園や小学校で使う手提げバッグや巾着のセットが売れるわね」

千鶴は続けて今の仕事について楽しそうに語った。

「アイスの工場っていいわね。今はちょっと寒いけど、仕事終わりのあったかい緑茶が美味しいの。寒いところにいるから温かさがいつもの倍、染みるのよね。三葉さんも今度、飲んでみて。あの工場、全身作業着だから髪色を気にしなくていいし、割引でアイスが買えるでしょ。時給も他と比べて高いし、夏は涼しくていいわ。穴場ね」


私は、これまでそんな風にこの仕事の良さを考えたことはなかった。人気がなくて採用されやすいから選んだ。それだけだった。寒いし重いし単調で、世間から見たら残念な仕事と捉えていた。親から、もっと綺麗なところで働いてほしかったと言われたこともある。


この頃はいつも、他人から自分がどう見られるのかを考えていた気がする。


私も仕事終わりに温かい緑茶を飲んでみた。人に勧められるとやってみたくなる。結果、私の場合は緑茶よりも甘いカフェオレの方がしっくりくるとわかった。いつもはストレスを抑え込むため、コンビニで喫煙後にブラックコーヒーを飲み干していた。自分を癒やすつもりで甘いカフェオレを味わって飲むと、冷えた体に染み込んでホッとひと息つけた。川瀬千鶴の言っていたことがわかったような気がした。


世間の目よりも、自分がどう思うのかの方が大切なのかも知れないと思い始めた出来事だった。



預かり屋の仕事は徐々にエスカレートしていった。雅也の腕時計やスーツ、車も高級になっていく。私にもブランドバッグを買ってきたり、羽振りが良かった。


雅也が次に私の家に持ち込んだのは人間だった。


上下グレーのスウェットに黒いマスクをして、厚手の毛糸の帽子を眉毛の下まで深く被っていた。目元の彫りの深さから外国人だと思った。


私は玄関から雅也だけを引っ張り上げるとリビングに押し込んだ。

「あの人を預かるの? 雅也も今夜は泊まるんでしょ? 二人だけなんて嫌よ」

雅也はいたずらっぽく笑うと「それが、これから仕事に戻らないといけないんだよ」と頭をかいた。現在時刻は二十時だ。

「システムに異常が見つかったんだよね。急いで直さないといけないから徹夜になるかも」

「それじゃ、私が別のところに泊まる。この前は死体だったから動かなかったけど、あの人、目つき悪いし、何をするかわからないもの」

上着を着て出かける準備を始めると、雅也は慌てて私の両腕を抑えた。

「ちょっと待ってよ。明日の朝、六時に出かけるまで見届けてやって。そういう仕事なんだよ。簡単だろ。今回は人助けでさ、彼も急な仕事で泊まるところがなかったんだって」

「……でも、怖いの」

「大丈夫だよ。顔を見られたくないらしいんだ。大人しくしてるよ。いつも僕に作ってくれる肉じゃがと焼き鮭を食べさせてやって。喜ぶから。寝袋も持ってきているから布団を貸すことはないし、そこの使ってない部屋に居てもらえばいいよ。お願い」

雅也は黙る私を抱きしめると、ダメ押しの説得を仕掛けてくる。

「この仕事が終わったら引っ越そう。そろそろ将来のことも考えなきゃね」

「本当に?」

私は半信半疑で雅也を見つめた。

「本当、本当。だから頼むよ」


将来。


この二文字は私の承認欲求を刺激した。雅也が私を評価しているから出た言葉だ。  

もっと認められて、確実にしたい。

もう断れなかった。


雅也が帰ると帽子の男を普段あまり使わない玄関脇の部屋へ通した。春先とはいえ、夜は冷える。エアコンがないので電気ヒーターを入れ、折りたたみ机を出して湯呑みを置いた。


帽子の男は突っ立ったまま何も話さず動かなかった。私はすぐに夕飯の支度をはじめ、雅也がリクエストした肉じゃがを作った。ノックしても反応がないので「開けますよ!」と大きな声を出してからドアを開けると、男はマスクに帽子姿のままイアホンを付けて寝そべっていた。音楽を聞いていたらしい。


随分、余裕がある。

この人、明日は何をするんだろう。


この仕事で重要なのは理由を聞かずに目の前の物を預かることだが、世話をした人間が何をするのか気になる。やはり犯罪に関係することなのだろうか。そう思うと少し胸が痛んだ。


机に夕飯のお盆をのせると、男はありがとうのつもりか両手を合わせた。


私がドアを閉める頃にはお盆の前で箸を動かす背中が見えた。マスクも帽子も取っていた。窓ガラスにご飯をかき込む顔が写る。額に星の入れ墨が入っていた。


入浴するわけにもいかず、ほとんど眠れずにリビングで朝を迎えた。四時半頃に部屋の前を見ると、空になった食器をのせたお盆が廊下に出ていた。私はそれを引き上げると洗って朝食を作り、ドアをノックした。

「朝ごはんです」

ドアがスッと開いた。男は起きていた。帽子にマスク姿だった。また両手を合わせるとお盆を受け取った。


バタンと玄関ドアが閉まる音がしてハッと目を覚ました。ウトウトしていた。時計を見ると六時だった。


廊下には空の食器をのせたお盆が置いてあった。玄関ドアを開けて外を見ると、車が一台走り去るところだった。帽子男は消えていた。


緊張の糸が一気に切れた。


急いで玄関ドアを施錠し、SNSで雅也に報告を入れ、続いて勤務先にも体調不良で休むと留守電を入れてベッドに潜り込み、泥のように眠った。


目覚めると正午近かった。

入浴後にテレビをつけると、どの番組も病院をバックにレポーターが緊迫した様子で何かを伝えている。


もう、なんのニュースよ。


久々にゆっくり情報番組を見ようとしていた私はイライラしながらチャンネルを変えた。


テレビ画面に一人の男の写真が大写しになった。


リモコンのボタンを押す手が止まった。


男の額の端に星の入れ墨があったからだ。






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