消失、

5


 朝起きて、ぼんやりと周囲を見渡す。

 アイスクリームをスプーンで丸く切り取ったみたいな部屋の一角からはまっさらな青空が覗いている。朝日はまだ部屋に差し込んでおらず、清冽な大気が僕の呼吸音と混ざってふわふわと辺りを漂っている。

 柔らかな夏風が入り込んで、四角かったカーテンの残骸が揺れる。長方形の布は、ところどころが丸くぽっかりと穴が空いており、まるで今の人類みたいだ。形だけはギリギリ残っているけれど、あっち側が透けてみる。全然機能していない。

 一切の法則性なく穴の空いた世界になってしまった。


 今日はまだやっているだろうかと、テレビのスイッチを入れて確かめてみる。

 辛うじて残った人の営み。テレビ局は頑張ってホモサピエンスの健在を主張しようと欠かさず放送しているが、明らかに喋り慣れていない新人アナウンサーや一体何を伝えたいのか判然としないニュースが放物線を描くように惰性で流れてきた。


 やっぱりラジオのほうが信頼できるな、とスイッチオン。テレビもそのまま。

 インターネットは何日か前に寸断してしまったから、電波のラジオのほうだ。

 がりがりとノイズだけが走る局が続く。それでもいくつかはまだ生きている。

 意味のある言語を発している局を探すのにだいたい二分。時計は真ん中が丸く消失してしまったから、正確には判らない。


「2022年8月31日、朝8時のニュースです」

 驚いた。ちゃんと動く時計が残っているなんて。

「消失現象の発生から2週間が経過しました」

 14日間も人類は生き延びたんだ、とちょっとびっくりする。


 ニュースそのものはそんなに大事じゃない。生きていることも重要だけど、一番は音があることそのものだ。


 そういえばまだ顔も洗ってない。朝食もとらないといけない。食事は残ってるか、少し不安になる。この前みたいにカップ麺の中身だけ半分ほど丸く消えてたりするとかなり悲しい。「この前」が正確にいつを指しているのかは思い出せないけれど。


 環境音としてラジオとテレビをそのままに、真っ白いベッドを降りて絨毯に着地。真ん中が丸く消滅して斜めに倒れた冷蔵庫を素足でぺたぺた横切って、戸棚を開く。


 栄養剤とカップ麺の残り、あとは趣味で集めていたレーションがちょこっとある。

 ケトルは数日前から机の半分ごと行方不明になっていたので、引っ張り出してきたやかんに水を入れて火にかけよう。


 かちん、とツマミを回しても、何も反応が無い。あぁこりゃ消えたな。

 溜息をついていると、どこか遠くでぎゅぼっといつもの音が聞こえた。


 仕方ないので洗面台に先に向かう。蛇口をひねっても水がでない。こっちもか。

 どうしようもなくなったからキッチンで顔を洗っていると、水音に紛れてラジオの声が聞こえてくる。

「隣国の半島の一部で超大規模な消失現象が発生したとの報告がありました。沿岸にお住まいの方々は津波に備えてできるだけ命を守る行動を──」

 そりゃ酷い。まぁ日本も以前、富士山が地面ごとえぐり取られたりしたから、どこの国でもあることなんだろう。

 地殻の中とか、地面の奥深い場所で大規模な消失現象が起きたらどうなるんだろ。そんなどうでもいい疑問を抱いていると、ノックが聞こえた。人の出す音だ。


「はーい」

 元々茶色だったが色が消えて真っ白になってしまった扉から音が聞こえる。下半分が消失したドアの向こうに誰かが立っている。靴は男性モノのスニーカー。

 多分ご近所さんだろうな。

「おはようございます。あの、水ありますか」

 二十代くらいの男性が無意味になった扉を開けてこちらを覗いている。この人は、右腕の肘から先が消失している。人間はだいたい9割くらいの確率で右利きだから、さぞ大変だろう。9割の確率で。

「ありますよー。代わりと言ってはなんですけど、コンロってまだ動きます?」

「ガスコンロだけあります」

「じゃあ水持って来ますね」

 そう言って僕は、ペットボトルに入れてある水を1本キッチンから引っ張り出す。ついでにカップ麺も2人で分けよう。


 腕を失くしたお隣さんは唐突に、すいません、と謝ってきた。

「ありがとうございます。えぇと」

 呼び方に困るお隣さん。そりゃそうだ。

「あ、僕は名前失くしちゃったので。呼び方は好きにしていいですよ」

「名前、失くす方が多いらしいですね」

 へぇ、と相槌を打ちながらお隣さんと一緒に彼の家へと向かう。玄関が豪快に消失していて、虫が入りたい放題ではなかろうかと一瞬警戒する。我が家も同じか。

 表札には山田とあったが、下の名前は文字だけ消失している。

 再びどこかでぎゅぼっという音がする。山田さんはびくりと動きが止まる。そりゃそうだろう。彼の右腕が消えた時も同じ音がしたはずだ。

 僕は気付かないふりをしたまま山田さんの隣を歩く。


「いやぁ、助かりました。うちの水が出ないってことは我が家の配管がどっか消えたのかなぁ」

 山田さんの部屋も僕の部屋同様に穴だらけだ。無事だった鍋にペットボトルから水を注ぎ、コンロの火で温める。

「カップ麺持ってきましたから、2人で食べましょうよ」

 鞄から水と食料を一緒にがさごそと取り出して見せる。

「えっ、良いんですか? 食料、貴重じゃないんですか」

 そりゃ貴重だけど。

「まぁほら、僕らだっていつ完全に消えるかわかったもんじゃありませんし」

 それに、完全に消えたらどうなるのかすらよく解っていない。残しておいても無駄になるだけの可能性が高いのだから、食べられる時に食べてしまっていいと思う。

「それもそうですね。でも、ありがとうございます」

 2人で顔を突き合わせて、ふふと笑い合う。


4


 しゅんしゅんと音を出すやかんからとぽとぽと自分のカップ麺にお湯を注ぐ。

「避難所って行ってみました?」

 山田さんがカップ麺をフォークで不器用にすすりながら、再び唐突に切り出す。

「いえ、幸い昨日まで──多分昨日までガスも水道も残ってたので」

「オレもです。行ってみようかなぁ」

「残ってると良いですね」

 そうですねぇ、と山田さんはぼんやり顔で答える。

 物流が途絶えて久しいから、マスクの貯蔵なんて無い。人混みの中に素顔で行っても良いものか少し迷うがこの際だ。病気で死ぬより消えて失くなる人のほうが多い。


 趣味にしていたと思しきバイクが我が家のガレージから見つかったが、エンジンが文字通り丸ごと消えていたので徒歩で行くことにした。僕は道も覚えていない。山田さんの記憶だけが頼りだ。標識はだいたい一番大事な部分だけ消えて棒になっている傾向が強く、町の地図にいたっては地面ごと抉ったように消えている。

 街には人っ子一人いない。2人きりだ。誰も居ないのを良いことに、道の真ん中をのんびりと歩く。

 道路にはところどころに半球の空白があったり、そこに嵌った車が捨てられたりと壊れた日常が横たわっていた。


 携帯ラジオは持ってきた。何かと便利だし、日付も時間もだいたい判る。遠い国が消えたりしても何もできないが、とりあえず人が存在しているという安心感は最低限得られる代物だ。

「それやっぱ便利ですよね」

 手回し充電の携帯ラジオを指して山田さんは言う。

 僕は嗚呼と曖昧模糊な音を口から発生させてから、

「音楽にはアンビエントってジャンルがありまして。意味は環境音。木々の葉擦れや川のせせらぎとか、聴く音楽でなく流れる音楽です。まぁ大体、なんとなく聞き心地のいい感じの音楽全体を指す、そんな言葉です」

 ラジオは文字通り人間のアンビエントであり、すっかり人気も車も失くなった道行に足音以外の音色が響く。

「人の残した残響みたいなものが欲しくて。情報だけあってももうどうしようもないけど、なんとなく声が聞きたいな、と」

「そんなもんですか」

「そんなもんですよ」

 いまいち要領を得ていない感じがあるが、理解は大事じゃないから別に良い。


 いつ山田さんが消えるかもしれないし、何より僕自身が消えたあと山田さん独りが残される可能性だって充分ある。

 音は、残っていたほうがいい。


3


 避難所はえらいことになっていた。

 真下の地面でそこそこの規模の消失が起きたらしく、地面が陥没して体育館が崩れ落ちている。夏ということもあって虫が湧いており、中にいた人たちはきちんとした埋葬もなくその内なんらかの工程で消えるだろう。即ち、消失か腐敗だ。後者のほうはなんとなく嫌だな、と思う。すっと消えてしまったほうが綺麗になる。腐敗は反応で、人ではなく物体そのものへの作用だ。


「わぁ」

 山田さんはといえば呆然自失といったていで、呆けた声を上げている。

 まぁそうなるよね。僕と違って知り合いだった人が死んでるかもしれないんだし。

「ま、まことさん!」

 そういって走り出す山田さん。

 まことさん。誰だろう。知り合いか友達か、もしかしたら恋人かも。


 陥没は最近起きたようで、死体は新鮮だった。羽虫こそたかっているが蛆虫はまだといった程度だ。

 かなりグロい。赤と白が人体からはみ出ている。そこに虫がたかっている。なんて酷い。見ていてキツい。

 だけど、

「山田さん!」

 追いかけなきゃ。

 独りになってはいけない。


「山田さん、大丈夫、じゃないよね。まことさんって人の特徴は?」

 真っ青な顔で瓦礫を掘ろうとしている山田さんを捕まえて、一旦落ち着かせようと試みる。素手で掘り出すのは無理だし、片腕なら尚更だ。そんなことすらわからない状態の山田さんを頭ごなしに抑えつけても意味がない。一度手を止めさせて、思考と気持ちを整理させないと。

「まことさんは──」

 まことさんは?

 ハッとした顔をこちらに向ける彼。

 続きが、無い。

 言葉も、無い。

 山田さんは口を開いたまま、わなわなと震えだす。

 あぁ、うん。そういうこともある。僕だってそうだ。自分の名前も思い出せない。多分、その逆なんだ。


 理由も思い出せないままここに来て、場所というものに思い出が喚起されて、でも結局、思い出せないことを思い出して。

 もうどれが「まことさん」なのか判らない。

 しばらくしてから、山田さんは堰を切ったように泣き始めて。

 太陽が空の天頂を通り過ぎる頃に、僕らは避難所だった場所を後にした。

 どこか遠くでぎゅぼっという音がまた耳を打つ。また何か消えたのだろう。


2


 家に帰って来た僕らの間に会話は無かった。山田さんの家は消失して、表札だけが残っている。当の山田さんは部屋のすみっこで体育座りをしたままに、涙を流しては堪えてを繰り返している。

 僕は今の僕になってから──それはつまり今朝起きてから、という意味だけど──大切な人を失った記憶がない。山田さんにかけられる言葉なんてありっこない。

 記憶は空白だらけで曖昧。連続性が無い。昨日の僕がわからない。だから、連続性を保っている山田さんが少しだけ羨ましい。


 手持ち無沙汰になったから、音が欲しくてラジオをつける。

 がりがりとノイズが走る。この局ももうだめか。

 ツマミを回して片っ端から周波数を拾う。ところどころ細かな傷のあるラジオは、もしかしたら昔の僕にとって大事な品だったのかもしれない。証拠はどこにもない。ただの憶測だ。

 そんなことを考えながらゆっくりと人類の残滓を探していたら、小さなラジオから声が聞こえた。驚いてツマミを回しすぎてしまい、再び調整する。

 声がした。

 誰かの。

 誰の?


1


「もしもし、聞こえて、いますか?」

 声。

 誰かの音。

 ラジオから聞こえるそれは間違いなく人の言葉を発していて。

 ──語りかけてる?

「もしもし、ラジオの向こうの誰か」

 語りかけてる。間違いなく。この人は、

「間もなく、世界が終わります。それをお伝えに来ました」

 何を言っているんだろう。

「えぇと、すいません、間もなくというのは流石に語弊があります。カウントがゼロになりました、というわけではなくですね」

 いまいち要領を得ないけど、とりあえずこの世界は終わりのようだ。

 ぎゅぼっという聞き慣れた音が、部屋の隅から耳に飛び込んできた。

 山田さんが壁ごと丸く切り取られている。左手と両足は残っている。

「そろそろゼロになります。その事前告知といいますかですね」

 ラジオは相変わらず曖昧な終末を予告している。でも理解はできた。


 何かに吸い込まれるような音が部屋の世界の色んなところから聞こえてくる。

 きっと世界中で同じことが起きているんだろう。

「まぁその、そういうわけでおしまいなんです。説明義務を果たしますとですね」

 音が消えていく。部屋の中だけじゃない。世界中から消えていく。

「こちらの宇宙はビッグフリーズ案を採用した結果、1400億年も待つ意味がないと算出されました。ですので、えーっと。早々に観測停止作業に入らせていただくことになりました」


 世界がぎゅぼぎゅぼと音を鳴らす。窓から部屋の外を見ると、ビル群が穴だらけになって消えていく。

「既に54788856975235745658件のサンプルが採れているパターンなので、特例処置となりますがお住まいの方々につきましては、なんというかその、ご愁傷さまです」

 

 耳元でぼん、と大きな音がした。

 部屋が消失した。ほとんど残ってなかった山田さんも消えてしまった。食べかけのカップ麺も、リビングのテレビも存在しない。


 そのままポスンとコンクリートに着地する。大地はまだあった。けれど、街が次第に失くなり始めている。ビルはとうに失くなっている。残された街並が、人の住処がどんどんと削り取られていく。まるで消しゴムをかけたみたいだ。高速道路の支柱が消えて、落下する最中に車とコンクリートの塊が消えていく。


 再びの大きな音。

 世界が真っ白になる。国なんてとっくに存在しない。海と空とがあって、辛うじて残った地球の核へと向かって僕は落下していく。遠くに見える星々がどんどん消えていく。そっか、光も飲み込むんだ。

 海は大瀑布となって僕と一緒に落ちていく。でも僕らはどこかに到達すること無く消えてしまうだろう。


 ぎゅぼん、と頭の後ろで音がした。

 足元がふらつく。どこかに浮いているみたいだ。海にも穴が増えて行く。やがて海は穴だらけになり、いつの間にかその比率は空白のほうが大きくなっている。そんな海も最後には音を残して消えた。


 大気も無い。息が苦しい。酸素もなければ窒素もない。

 宇宙にラジオと僕だけが残された。

 何もない空間を宇宙と言っていいのかどうか迷う。

 ラジオはずっと、ノイズをがりがりと奏でている。

 空気が無いのに聞こえるわけがない。だからきっと、これは僕の心そのものだ。

 僕が消えても人の残滓は残る。だから安心して瞳を閉じた。

 世界は無限の空白に染まって、最後にノイズだけが響いた。


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