コウリン

 天使が舞い降りた。今日はその時のことを話そう。


 場所はロシア。降臨場所はアムール川上だった。ユダヤ自治州が付近にあったことで後々物議を醸すのだが。当時はその大災害故に一旦見逃された。



 降臨当時の天気は冬のロシアらしく曇り空だった。午後の日差しは薄闇色の天蓋に閉ざされて大地に届くこと無く、天上世界だけが占有しているものと思われていた。だが突如、その雨雲に巨大な虚が開いた。

 雲海が裂けた、雲塊が避けた。当時はそう思われていたようだが、四年間にわたる研究と言うべきか観察というべきか、弛み無き努力の結果、そうではないと判明している。


 とにかく、だ。その時、光が地上を照らしたのだ。

 雨粒の塊、地上の遥か高みにある霧を文字通り消失させ、天使は現れた。


 何故それが天使と呼称されるのか。これは笑い話なのだが、正に天使であることが見ただけで直感的に解るからだ。否、理解させられると言って良い。教えを得るとは一種の洗脳だが、恐らくそれに近い。

 人類は有史以前から、頭部に光輪を纏ったり、後光を放ったりしたものを戯画的に描いてきた。その類型に翼ある人間というものが存在する。これは形こそ違えど、あらゆる文化圏に見られる傾向だ。しかして、降臨した天使は本当に翼ある人間の形をしていた。



 さて、天使が降臨した直後に起きた大災害についてだ。

 天使は降臨とほぼ同時に、少なくとも人間が測れるタイムラグは一切なしに、直径十七キロメートルの球状を塩化させた。

 世界は真っ白になったという。当時の衛星地図を見ると一目瞭然である。

 全ての建物は崩れ去り、地面も塩化ナトリウムになった部分は陥没した。

 曇天を晴らしたのもこの方法だと思われる。雲は塩になったと推測するのが現在の主流だ。


 しかし、これは未曾有の大災害、とは扱われなかった。

 毎年、世界中で竜巻や山火事などは起きていたし、活火山地帯に住まう我々日本人は幾度となく大地震を経験済みである。

 当時は謎の現象としてあらゆる部門の人間が観測データを欲しがり、そしてそれを集める手段も人類には存在していた。


 原因は未だ不明ではあるが、恐らく直径十七キロの塩化現象地帯中央に降り立った存在が関与していると思われている。

 天使は、全てを塩に変えてしまうのだ。少なくとも私達の世代はその認識だ。

 先程も言った通り明確な因果関係は不明だ。塩化の予測方法も確立せず、その範囲もまちまち。ある時は天使を中心に正十二角型に塩化現象が起きたかと思えば、彼女から見て九時の方向に直方体型の塩化範囲が発生したこともある。

 予備動作無し。予測不可能。神のみぞ知る御業である。



 この『天使』という呼称も降臨してしばらく後に付けられたものだ。

 第一発見者は天使と目を合わせた時と思しきタイミングで塩化してしった。結果、名付けが行われたのは降臨から実に七ヶ月後のことだった。それ以前に彼女──驚くべき事に、彼女──を視認した存在は全て塩の柱になってしまった。

 何故、天使がこの受動的塩化を止めたのかも、今となっては不明である。そもそも見た側の塩化がどういう原理で起きていたのかすら解らないままだ。



 さて、天使の形状が確認されたあとに起きたのは混乱である。何故なら、宗教的な問題を全て捨ておいて、その姿を見たものは天使を天使と認識してしまう。故に一神教的な一切は議論の余地無しに存在を確信された。

 降臨場所がユダヤ自治州の直近であったことも議論の俎上にされた。ユダヤ教こそ神に選ばれし真の宗教であり、それ以外は紛い物であるとか、いやキリスト教自体の肯定であるだとか、ロシア正教会こそ正しいものであるだとか。宗教学者は様々な議論を行ったが、現在も決着がつかないままである。当の天使は言葉を発する事無く、ただそこにいるだけなのだから。


 更に、天使の見た目も問題になった。

 肌の色と髪の色、服の色すら白なのだ。服と髪はさておき、肌の色は大きな議論の的になった。白人至上主義者達は我々こそ神に選ばれし人類だと言い出したが、当時の米国大統領は黒人女性だったし、黄色人種国家と言って良い中国は世界最大級の国民数を誇っていた。ありとあらゆる過激な発言が飛び交い、思想が壇上で殺し合いを始めたが、そのうちさらなる話題が紛糾し、思想如何は些事と追いやられた。



 何が起きたのか。

 天使が移動を始めたのだ。

 降臨から十一ヶ月。それは南下を始めた。

 全長およそ百五十センチ程度の天使は、自分で作った塩のクレーターを徒歩で歩き始めたのだ。

 当時のアムール川は、塩で出来た壁こそあったもののほとんど水浸しで、沼に近い様相を呈していた。政府は簡易の堤防と河川を作り流れを変えていたため、天使は水に飲まれることなくそこにいた。

 それが、ただ佇んでいたそれが、歩き出したのだ。

 望遠レンズで捉えられたその姿は世界中で注目された。

 だが、天使は当時、それ以上何もしなかった。

 一日丁度千歩歩き、その後ぺたんと座り込む。進行速度は遅々たるものだった。また、降臨の際に見られた塩化現象も見られなかった。



 さて、こうなると始まるのは所有権争いである。

 ロシアは自国内の問題だと主張、それに反するように米国が天使は地球に降りた宇宙人として扱う、つまり世界中を上げての歓待を執り行うよう鍔迫り合いを始めた。中国は自国へ向かっていると喧伝し、天使との交渉権をもぎ取ろうとした。ヴァチカンは今までのスタンスを投げ捨てEUに加盟、ローマ教皇の名のもとに天使との第一接触を図った。

 誰しも思っていたのだ。天使を手中に収めれば、宗教的にも軍事的にも文字通り世界の覇者になれる、と。



 各国間のいざこざが始まってすぐのことだ。全ての国を差し置いて封鎖された区域に侵入を試みた男性がいた。彼らは熱心な清教徒であったが、遵法精神は持ち合わせ無かったのだろう。もしかしたら、天使の前に人の法など文字通り塩の柱となってしまったのかもしれない。

 奇跡的に、本当に奇跡的に、一人が交渉役として。もう一人が記録役という分担をしていたため、天使と会話した動画が残っている。世界中に拡散されたその映像は、ネットの海にアクセスできるなら今でも見られるだろう。


 ドローンによる上空から撮影は、内容的には出来の悪いコメディのようだった。


 十字架を持った男性が少女のような存在に近づく。男性は冬の始まったロシアでも活動できるようかなりの厚着をしていたが、天使はまるで真夏のバケーションを楽しんでいるかのような姿をしている。

 窪んだ地面を時折転びそうになりながら歩く少女型の存在。斜面を滑り落ちながら近づいていく男性。

 男性は聖書を片手に彼女の前に跪き、自分がいかに神を愛しているのかを熱っぽく滔々と語った。対して天使は無表情に、目の前に来た存在を一瞥し──つまり目の機能がある可能性が存在するわけで──小首を傾げる。

 直後、天使は彼を避けて歩き、彼は塩の塊になって崩れ落ちた。


 撮影兼ドローン操縦者は慌てて踵を返して一命を取り留めたが、その後ロシア当局に捕縛されて以来行方不明扱いとなっている。


 また、撮影者と天使との距離は確実に八.五キロよりも近かったが、彼は塩化していない。



 各国首脳や宗教団体のトップ達は頭を抱えた。天使が意識的に人に害を与えたように見える動画が、停止不能な形でネットに流出したのだ。それもライブ配信である。もしこれを神の思し召しと主張し続けるようなら人道的観点から問題視されることは目に見えていた。しかし、この存在が天使であることは映像を見た人類全てが直感的に理解させられてしまった。

 かくして膠着状態に陥った上層の人間と裏腹に、在野では天使ウォッチングが流行した。

 天使の見目はあらゆる人間よりも美しく、その白磁の如き無表情を見ているだけで満たされる人種を生み出した。

 天使自身の振る舞いもその流れに一役買った。球状に地面を塩化させた結果、それの道行は上り坂だったのだが、彼女はよく転んだ。まるで歩き慣れていない子供だ。つんのめる姿勢で顔から塩の地面に激突し、しばらくしてからむくりと起き上がる。その後、顔を拭って溜め息をついてから、歩き出そうか迷う素振りを行う。その後、規定の歩数に達していなければ小さく頷いて歩を進める。一日千歩のノルマに届いているのなら、その場でぺたんと座り込み、ぼうっと上空を飛び回るドローン群を目で追うのだ。


 こんな言葉が当時ネット上に拡散された。

『彼女はまるで天使のようだ。本当に天使なのだけれども、まるで天使のようだ』



 ロシアも馬鹿ではない。直ぐ様ドローンは撃ち落とされたが、それ以上の頻度で多くの撮影用機が飛行していった。まるで果物に群がる羽虫の如き様相だったという。


 私は当時、何がそこまで人を天使に駆り立てるのか不明だった。しかし映像を見て考えを変えた人間がいるのも事実だ。既存の映像芸術全てよりも天使が端にちらりと映っただけの写真のほうが価値がある。かくいう私もそう思わされた一人だ。

 これは恐らく、天使を知覚した人間が全て、それが天使であると直感する仕組みに近いのだろうと推測できるが、原因は未だ不明である。


 その洗脳効果の賜物なのか、それとも単にドローンを撃ち落としたロシア兵の家族がモスクワのど真ん中で前触れ無く塩化したからなのか、程なくしてドローンの飛行は天使の撮影に限り許可された。天使の撮影に反対していた人物やその家族、友人が軒並み塩化していったことと繋がりがあるのだろうとは思う。



 撮影に反対する者やその近縁者の塩化だけを列挙すると、天使に自己顕示欲があるかのように思われる。しかし、そうとは言い切れない事態が起きていたのも事実だ。



 同時期、都市部を中心に人が塩の柱になる事件が多発した。

 もちろん最初はドローンを狙撃したロシア兵の親近だったが、次々と被害が拡大、否、判明していった。そこに法則性は見られず、世界各国全ての都市で人体塩化現象は発生した。

 過疎地域には被害者こそ少なかったが、統計的事実として地球上全ての生命が一律に同じパーセンテージで減少していった。動物園で保護されている希少生物の数は一向に減らず、しかし穀倉地帯での塩化した虫が多数発見された。

 結果、人類は飢餓状態に至るのだが、この話はまた今度にしよう。


 出産率よりも僅かに死が上回るその現象は、人々に様々な解釈の機会を与えた。


 曰く、増えすぎた生命を間引いているだけである。

 ならば、一定の値で止まるはずだ。


 曰く、罪ある者のみ塩になる。

 ならば、死した者に原因があるはずだ。


 曰く、それらは天使の手によって天国に送られている。

 ならば、天国とは天使によって誘われる証明だ。


 ほとんどが憶測に過ぎない。

 現実問題として、出生率よりも高い数値で塩の柱は増産され続けているし、死者に原因を求めるなら判定基準が必要になる。天国の証明など以ての外である。

 我々人類に理解できたのは唯一、天使が地球を滅ぼそうとしている可能性がある、という点だ。



 当時は既に国連主導で天使とのコミュニケーションを試みる部隊が発足していた。会話はあらゆる方法が試されたが、全てに彼女は小首を傾げるだけの反応を返した。自走カメラを使って画像越しに、思いつく限りあらゆる言語で対話を試みた。手話や絵での説明などを交えたり、人類は色々と手を尽くした。結局、それらの行いが全て徒労に終わったと感じている者は多い。

 彼女は無感情に、首を小さく傾けるだけなのだ。



 そんな中、暴挙の決定打を天使自身が下した。そう、『飛翔』だ。

 天使は自身の作った塩の窪地から這い出たあと、大きく伸びをした。筋肉の概念が存在すると思われるが、捕獲すらできないため不明だ。

 そして、彼女はそのその翼を大きく広げた。

 『飛翔』と検索をかければ真っ先に出てくるあの映像だ。

 何故今まで飛行を行わなかったのか、どうして塩の沼をその足で踏破したのか、今もって不明だが、とにかくそれは飛行を開始した。


 当時は議論が煮詰まっていた。塩化現象で人類は徐々に、しかし確実に磨り減っていたし、それはそれとして美しく凶悪な天使の所有権を巡って争いは絶えなかった。

 それが飛んだところで地球上の塩化現象に何か影響があるかどうか不明だったが、不安を爆発させるには十分だったというわけだ。


 飛翔した天使は上空約二メートル、ほぼホバリングの状態で静止。翼は揚力を得るための運動など一切せず、光りを発したわけでも、光輪が頭上に輝いてもいない。

 ただちょっとばかり浮いただけである。

 それでもあるものは賛美し、あるものは恐怖した。

 もしくは、その両方の感情を抱くものもいたろう。


 その浮遊状態のまま四十時間ほど過ぎた頃、天使に核ミサイルが直撃した。


 御存知の通り市街部の近隣である。正気の沙汰ではない。


 発射元は北朝鮮。彼らの言う偉大なる指導者の家族が塩化したことに対する報復と主張したが、裏に中国の影がちらついていないと考えるのは難しい状態だった。防衛すべき領空内を易易と通したロシアも同様だ。


 首長が見解を述べている間に、実に興味深い現象が起きていた。

 爆発時の映像を偶然捉えていた複数のカメラから判明した内容だ。


 それは、爆発そのものが塩になっていく、という現象だ。


 熱によって膨張した空気がその発生源とともに飛散する、はずだった。しかし現実に起きたのは、空気が塩の欠片に置き換えられていくかのように、真っ白に染まっていく、不可思議な現象。

 議論の余地は多々あるが、分子そのものが置換されていくのではないかという見解が主流だ。なお、方法は不明だ。残念ながら。


 幸運にも核汚染は発生せずに済んだ。恐らく全て塩化したためだと思われる。これも原因不明だ。

 天使史における最も頻出する単語は不明だ。よく覚えておくと良い。必ずテストに出す。


 とにかく、天使はその暴挙を受けて、いつものように小首を傾げた。

 爆風が広がる前に衝撃波そのものが塩に置換されたためだろうか、周囲のドローンに一切影響は無かった。


 しかし、天使は何か感じるものがあったのだろう。

 初めて人類にアプローチした。

 そう、ドローンを手で呼んだのだ。これまた有名な映像だ。恐らく『招致の手』で検索をかけるのが最も早いだろうか。もしくは『最後の審判』。


 複数の撮影機がその様子をライブ配信していた。



 さて、人類最大にして恐らく最後の受難はここから始まる。

 まず、配信を見ていた全ての存在が塩化した。人に限らない。ペットの類いも同様で、大型モニターにその様子を映していた都市では周囲の虫すら塩化した。

 そしてこれは恐らくなのだが、直後から胎内の赤子や卵が塩になった。全人類ではない。全生命の、だ。それが問題として持ち上げられるのは二日後だが、恐らくこのタイミングだろうと私は思っている。


 出生率は完璧なゼロ。植物はその土壌全てに塩が撒かれ、水だけの栽培にもいつの間にか塩分が含まれるようになってしまった。

 血中塩分濃度が過剰に成り死亡する人間は塩の柱になる人よりも増えた。


 君たちが人類最後の世代だ。


 宇宙開発計画?

 もちろん、我々の世代は行ったとも。七度目の月面着陸も行われた。だが、そこにあったのは我々のよく知る月面ではなく、塩の塊だったのだ。崩壊が起こさずに形を保っていた理由もよく判っていない。恐らく、私達人間側の認識の問題なのだろうと思う。つまり、我々が月面に着陸できたから月は塩になったのだ。



 現在、天使は水面を割り、その下の地面を歩いている。

 どこに向かっているか? 

 いい質問だ。だが誰にも判らない。

 解るのは、我々が滅びに向かって歩いているということだけだ。

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