スイングバイ
8
窓越しに伝わる冬の冷気は僕の吐く息を真っ白に染め上げ、気持ちまでも沈ませていく。寒さに凍える指先。冷たさに怯える足先。ホットコーヒーの苦味と熱さに驚く舌先。喉仏に落ちる黒い液体の味はよく判らない。多分子供舌なのだと思う。大人になったら理解できるのだろうか。
僕の目の前の女性に答えるべき言葉を、口の中で転がして確かめている。
1
「連理って好きな人いるの?」
真冬になって久しい師走の曇天には雪がちらつき、肌を切る冷気が頬と額に当って痛みすら覚える。危ないとは解っていても、学校に遅れる訳にはいかない。だから僕は自転車を漕いで、朝雪かきされたばかりの道を疾駆する。転ばぬよう注意を払ったところで、ママチャリは二人分の体重を載せるようにはできていない。その上、珍妙な質問まで飛んでくれば、ハンドルを誤るのも已む無しだろう。
誰もいない大通りで、僕らは大いに転んだ。一回転はしないまでも、急なブレーキとでたらめなハンドリングで二輪車は壮大に横転。そのまましばらく滑落するように道を転げていく。
「痛いよ連理!」
「いきなり、何」
僕は眉を顰めて、突拍子もない言葉を発した人を見る。もう十年来の付き合いで、親の顔よりよく見た幼なじみがそこにいる。ギンガムチェックのマフラーに加えて、薄い茶色で染め上げたダッフルコート。毎朝整えているであろう黒く長いストレートの髪。所謂女子学生という生き物で、一日の大半は僕と同じ空間で黒板とノートに向き合っている。
「だから、好きな人、」
「今聞く必要、ある?」
急いでいるのだけれど。学校に遅れるかもしれない瀬戸際だ。
彼女は何かぶつくさ言いながら立ち上がり、自転車の姿勢を整えた僕の後ろに再び乗り込む。
「そういう話、また今度ね」
「はぁ~? 一回もそのまた今度が来た試しが無いんですけど~?」
それはそうだ。そういう話は避けているのだから。
「じゃあ今日のお昼。食べながら、ね!」
何が「ね」なのかは聞かずに漕ぎ出す。さっきまでちらついていたはずの雪は既に止み、少し明るくなってきた。
2
文字通りの滑り込みで自転車のブレーキが壊れ、帰りは歩きが確定した。駐輪場で頭を抱えていると、幼なじみがまた声をかけてくる。
「うわ、断線?」
「さっき無茶したから。修理、できるかな……」
「なんかごめんね。でも一応ほら、聞いておきたくて」
手を合わせて拝む幼なじみ。なにが一応でなのがほらなのかはよくわからない。
「まぁ良いよ、別に。物はいつか壊れる。ブレーキが寿命だっただけ」
「ありがと。じゃあ、行きましょっか!」
誰のせいだ誰の、とは言わない。切り替えが早いのは彼女の美点だし、それはそれとして責める気にもなれない。
彼女のそんな速度に、僕は常に振り回される。重力の強いものが自分より軽いものを振り回すのは万物の法則だ。だから、そのスピードを大切にしたい。
「……誰が重いって?」
「何の話?」
「とぼけたな!?」
「遅刻するよ」
「はーい」
こんなどうでもいいやり取りは万有引力の法則で説明できるのだろうか。
教室はいつもどおりだ。
誰もいない。
否、みんないる。そのはずだ。僕が、僕だけがそれを認識できていない。
しんと静まり返っている。朝降った雪がそのまま残り雪になったかのように、夜に積もった氷が名残を朝日に照らすように。
これが、今の僕の日常だ。
ある日突然、法則が壊れてしまった。当時は人間乖離現象と呼ばれていた。人類が他人を認識できなくなる病気。今はなんと呼ばれているのかなんて些事は、僕の興味から外れている。
僕が認識できるのは幼なじみ一人だけだ。
彼女は元気にクラスメイトに挨拶している。僕は挨拶もできない。誰がどこにいるのかすらよく判らない。
どうやら脳が認識を拒否しているらしく、網膜に人は写っているようなのだが、僕がそれを人と認める事はない。身体が衝突を避けるため不自然に、しかも勝手に動くようになった。無意識に行われるから、動作自体に困ることはない。
板書は読める。勉強には困らない。けれど恐らくそこにいるであろう教師と文字が被ると、その場所だけ綺麗に文字が消失する。
あらゆる意味で、僕は完璧に孤立した。
一ヶ月ほど入院していた時期もあった。しかし結局、日本を含めた全ての政府は、日常生活に問題がなければ通常通り行動するようにさせた。
病人があまりに多すぎたのだ。隔離施設を作った国は一瞬で制度が崩壊したらしいと幼なじみが言っていた。
現代は人との繋がりはリアルで無くとも良い。デジタルな人間関係なら僕にも継続可能だ。クラスのメッセージグループに僕の席はあるし、ソーシャルネットワーク上にもアイコンとして存在できた。少なくとも、今はまだ。
つまり、パソコンで何かしらを打ち込んだり、コピーを取ったり、書類を書いたりと言った作業なら問題なく行えるのだ。メールのチェックなんかもできるし、指示があるなら付箋でも貼っておけば良い。そこに実存としての他人は必要なかった。
だから、不治の病として地位を確立してしまった。
この病気は少し奇妙な問題がある。他人からも認識されなくなるのだ。通常の病気なら自分だけに症状が出る。感染の疑いもあったが、相関関係は見つかっていない。少なくとも、僕の知る範囲では。
最終的に因果関係の解る数字が出るかどうかも怪しい。何故って、僕らは他人から認識されず、病状の最終段階では記録からも消えてしまう。そんな曖昧な人間のことを『存在している』なんて言えるだろうか。
それが人間乖離現象。それが僕。
あらゆる意味で、僕は完璧に孤立していたが、それは現実と非現実の中途半端な間では意味を成さない程度の孤立だ。
実際に、この病気でなくとも顧みられない人間も居るだろう。そういう人間にいち早くなってしまい、そして治療の目処が立たない。ただそれだけのことだ。
僕は透明になってしまった。でも、ただ透明なだけで、そこにいる。
まるで遠くの雪のようだ。季節はもう十二月も後半で、いい子にしていればサンタさんがプレゼントを持ってくるだろう。
ただし、相手が見えていれば。
3
お昼休みのチャイムが鳴り、教室の扉が勝手に開く。
僕は体育の授業を受けることが不可能だから、幼なじみが帰ってくるまで一人で、ストーブの近くで読書に励むことにしていた。扉が開いたということは、恐らく人が来たのだろうと察し、ゆるりと不可解な足取りで席へ歩いて帰る。
もうみんないるみたいだ。
時計に目をやれば十二時半手前。だいたいあと数分もすれば、
「連理!」
今日は少し早かったようだ。
「ご飯一緒に食べよ!」
手前の席から勝手に椅子をひったくって、向い合せに座る幼なじみ。
「他の人と食べれば?」
僕がこういう妥当な提案をすると、決まって幼なじみはふくれっ面をする。
「そしたら連理、一人きりになっちゃうでしょ」
「いつかそうなるんだから、練習は早いうちにしておきたい」
「だめ」
珍しくもない怒り顔だ。
「独りは、絶対にだめ」
「判った。このやり取りも何度目だろうね」
「さぁ」
笑顔に戻った幼なじみは、僕の弁当から卵焼きを一つ奪って口に入れる。
「同じ弁当なのに、僕のから取る必要ある?」
「うーん……気分!」
僕はいつまでも振り回される。重力の足枷から解き放たれるその時まで。
4
事実、幼なじみの笑顔を見るのはとても嬉しい。けれどそれに甘えてはいけない。人間乖離現象に罹った以上、いつか誰も認識できなくなる……らしい。僕はまだその段階に至っていないだけで、いつかそうなる。そうなった時、幼なじみが僕のために浪費した時間が無駄になってしまう。それはいけない。それだけは避けたい。
悩む僕は、今日も独りでストーブの前にいる。
自転車は二日前に幼なじみが修理に出してくれた。カレンダーのチェックがひとつずつ進んでいく。ページがめくれなくなる日は来るのだろうか。僕のカウントダウンはいつ終わるのか。それとも、もしかしたら僕が錯覚しているだけで、世界にはもう二人しかいないのか。情報を規制されて隔離されているのかもしれない。まさか、と頭の中で芽吹いた馬鹿な推論を吹き消す。
馬鹿馬鹿しい。何を考えているんだ、僕は。
窓の外を見る。
寒々しい冬空は泣き出している。自転車で登校していなくてよかった。傘も二人分ある。今朝のニュースは大当たりだ。キャスターのせいで天気図は半分くらい見えなかったし、テロップ以上の情報は何も入ってこないけれど。
誰もいない風景。一人だけの時間。孤独にさせまいと振る舞う重力と最も遠のく、スイングバイ。
たぶんきっと、その瞬間は最も大きな放物線を描いたのだろう。
僕は信じられないものを見た。
人だ。
女の人。
幼なじみとは違うポニーテール。明らかに僕らより高い背。
大学生くらいだろうか。それは、校門の外を歩いている。
瞬間、僕は駆け出していた。自分でも驚くべき速度で教室を抜け出し、廊下を走り抜け、下駄箱で靴に履き替えることもなく、雨の中の宇宙を飛ぶ。
校門を出たところで、ぶらぶらと雨に歌うその人に叫ぶ。
「待って!!!」
その人の歩みはゆっくりで、まるで誰もいないかのようにのんびりで、世界を謳歌するように優雅で、そして、
「……君、見えるのかい?」
驚きに満ち溢れている。
雨に打たれて濡れた鼠みたいになっている僕とは大違いの、綺麗な女の人。
「あなたも、僕が、見えるんですね」
「見えるよ。こうして誰かと会話するのは久しぶり。びっくりだ」
その人は心底安堵するように、力を抜いて笑って。
「びっくりだよ……」
そして、泣いた。
5
「本当にそんな人、いるの……?」
「いる」
どうやらその人は幼なじみには見えないみたいで、彼女は諦め顔をした。けれど僕は断言する。
「いるよ。いるんだ。見えないだけ」
「連理が言うなら信じるけど……」
半信半疑の姿勢を崩さない幼なじみはしかし、至極まっとうなことを口走る。
「学校に、学校の外の人をいれちゃ不味いんじゃないの……?」
それはそうなのだけれど。
「でもねお嬢さん。悲しいことに私は連理君以外から認識されない。それはつまり、居ないと同義じゃない?」
「……って言ってる」
僕は一言一句そのまま伝言ゲームを行う。
「連理からお嬢さんなんて大仰な言葉が出てくるとは思えないし……でも……」
見るからに顔を曇らせる幼なじみ。
「でもさあ、やっぱり校則違反は良くないよ」
「朝っぱらから自転車で二人乗りしてる人の言葉とは思えないね……」
「うるさいなぁ!」
「君たち、そんなコトしてるの? 良いなぁ。私も昔は幼なじみに憧れたもんだよ」
「そういう細かいことはいいの!」
良くはないと思う。でも、少し黙っていよう。
「とにかく! 明日も明後日もその次も! お弁当作って一緒に登校するから!」
「うん」
そこに異論はないし、ありがたいとも思っている。けれど、
「帰りは羽衣さんと話したいから、歩きで良い?」
「なーんーでーそうなるの!!!」
叫ぶ幼なじみ。直後一瞬怯み、虚空に向かって慌てている。級友に何か言われたのだろう。ただでさえ乖離現象を起こしている人間と話して目立っているのだ。あまりクラスメイトをないがしろにしてほしくない。
6
「良いのかなぁ」
僕の困惑を他所に、羽衣さんはにやにやと笑いながら、僕の部屋に上がる。
「近くの大学なんだっけ」
「そうそう。監視カメラにすら映らないから、別に電車はいくらでもタダ乗りできるけどねー。まぁこうなる前から通ってたからさ」
レポートと論文だけ上げてりゃあ良いのよ、と言ってコンビニから盗んできたものをテーブルの上に広げる。
「ぶっちゃけ、困ってないしね。就職しなくても、実質二十四時間食べ放題飲み放題だし、映画は後ろの席で立って見てりゃ良いし。楽なもんよ」
からからと笑いながら、僕の部屋の一角に堂々と陣取る羽衣さん。そのクッションは幼なじみが部屋に来た時のためのものなのだけれど、とは言い出せなかった。
「お酒なんて飲むんだ」
「二十歳越えてますから。君は?」
プシュッと軽薄な発泡音が部屋に広がる。僕は仏頂面と呆れ顔を足して割った表情になっているだろう。
「十四」
「じゃ、あと六年待ってあげる。ジュンポーセーシンってやつを、一応持ち合わせてはいるんだよ」
はいはいはいと話半分に聞き流す。なんの気兼ねもなくコンビニで窃盗し、そして今日会ったばかりの未成年の部屋に上がって、昼間から酒を飲む。これの一体どこに遵法精神を見い出せというのか。
「あーでも、良いことあったな」
「良いこと?」
突然話題が飛躍した。なんだろうか。
「君と会って、良いこと。ほら、小説なら図書館行けばいいじゃん。でも漫画って中々置いて無くてさ」
そう言って、往年の名作漫画を手に取る彼女。そのまま寝転がって読み始める。
自由過ぎるなこの人。
「これ、まだ続いてたんだ」
「僕が生まれる前から連載してるんでしょ。そこは知ってる」
「私も生まれる前からだよ」
そういって寝返りを打つ羽衣さん。
「漫画ってのは良いよね。あったら良い、できたら良い、克服したらかっこいい」
何の話だろうか。
「そういう魔法がたくさん詰まってる。別に漫画じゃなくてもいいけど、私にとってそれは漫画だったり映画だったり小説だったりした。私にとっての魔法」
そう言って、今度はベッドに座る僕の横に陣取る。まるで猫だ。我が物顔で人の家に出入りするようになるだろう。もしかしたらそういう経験もあるのかもしれない。
「でもさぁ、やっぱりいちばん良いのは話し相手ができたことだよ。魔法じゃ解決のできないことは山ほどある」
そういって、彼女は羽のようにひらりと僕のすぐ真横に舞い降りる。
漫画は放って置かれていた。
息がかかるほど顔が近い。
「人の匂い、漫画の匂い、久しぶりだな」
「じ、自分の家は?」
「あるよ?」
小首を傾げる羽衣さん。
「でもね、他人との距離が近いっていうのは、とても尊いものなのさ」
彼女は僕の耳元で囁く。思わずベッドから立ち上がり、離れる僕。
「逃げるなよ。同類だろ?」
それは、そうだけど。
「それにしたって、距離感近すぎない?」
「人恋しいのさ。人の導はいつだって人。近ければ近いほど、無意識下で相手を意識するようにできてるんだよ」
変な人だな、と結論付けて、僕はベッドから少し離れたクッションに座り込む。
多分、ものすごく大きな猫を拾ったらこうなるのだろう。
7
羽衣さんと出会ってから、学校へ向かう時間が早くなった。三人で歩いて登校しているからだ。けれどどうやら、幼なじみは二人だと思って喋っている。
「でさぁ、──ちゃんが連ドラからアイドルにハマっちゃったみたいなの。DVDも押し付けられちゃった」
幼なじみが誰と仲良くしているのか、乖離現象の症状で聞き取れないが、幼なじみが楽しそうにしているだけで僕は満足だ。
「今度一緒に見る?」
「良いの!? やったー、一人だと解釈とかわかんないから、連理がいると助かる」
「良いねぇ、青春してるねぇ。羨ましいなぁ。お姉さんにも構ってくれよ」
「羽衣さんは毎日僕の部屋で喋ってるでしょ」
「……連理、そのういさん? 今も一緒にいるの?」
「いるよ。っていうか毎朝一緒に登校してるし、なんなら今もうるさく喋ってる」
「へぇ。で、部屋にも入ってるんだ」
「だからDVDは多分三人で見る羽目になるよ」
「アイドルは興味ないし、多分人間は認識できないから私たちはボケっとしてるだけになるけどね」
「ふぅん。いるんだ……」
「いるよ」「残念だけどね、君にとっては」
僕と羽衣さんが同時に口を開く。聞こえるのは僕ら、乖離してしまった側だけ。
「……あのさ、今日学校サボらない?」
「僕は良いけど、大丈夫? 僕と違って親が心配するよ?」
「一日くらいいいよ……話したいことがあるから」
「私は退散したほうが良いかもねぇ……待ち合わせ場所、どこにする?」
「じゃあ、僕の家に戻る? この時間なら父さんも母さんも仕事だし」
「私は別室待機ってことで」
「「それで」」
今度は僕と幼なじみが一緒に同じ声を出す。
あのね、と切り出す幼なじみは、酷く憔悴しているようにも見えた。否、実際憔悴しきっているのだろう。
なんとなく予想はついていた。
ただ、決定打が来ただけだ。カウントダウンは既にゼロを越えて、マイナスの値を叩き出している。
今はもう、残りの時間が存在していることそのものが奇跡なんだ。
「あのね、友達みんなが言うの。連理のこと、忘れた方がいいって。乖離現象の人は、行政とか病院とかがなんとかするから、無理しなくて良いって」
すとん、といつもの場所に座る彼女。だけど、そのクッションは今朝も羽衣さんが座っていたから、いつもより凹んでいることに気付くはず。テーブルの上には見慣れないヘアゴムもあるし、読みかけの漫画が開きっぱなしで裏返しにしてあるなんて、幼なじみからすれば異常事態のはずだ。
僕らの間に沈黙が舞った。
「奇跡が起きるかもしれない。いつか、連理が他の人にも見えるようになるかもしれない。ずっとそう願ってた。願ってる」
でも、と彼女は続ける。
「もうわからなくなっちゃった。だって、連理がその『ういさん』と喋ってることが全然わからなくて、周りから見たらきっと自分もそうなんだって思ったら、何もかもわからなくなって」
僕は黙ったままベッドに腰掛けて、カーテンの向こうでちらつく雪を見つめる。
「連理は、何が見えてるの? 何が見えてないの? 見えてないのは、誰なの?」
堰を切って言葉が溢れだす。涙を拭いてあげようと近づいて、でもそれはなんだかとても罪深い行為のように思ってしまう。
立ち上がって、中途半端な姿勢のまま、僕はなんとか自分の今を捻り出す。
「多分、誰もが全部見えてるわけじゃないよ。僕らは偶然に見えなくなってしまっただけで。それはきっと僕らじゃなくても起こりうることで。乖離現象なんて、ただのきっかけに過ぎない。僕はそう思う」
スイングバイはもう次の段階に入っている。
僕の直感は残念ながら、そう告げている。
君の名前が判らなくなった朝から、ずっと。
「僕のこと、見えなくなっても良いんだよ。本当は見えていてほしいけど、でもそれは、その願いで縛ってしまうから」
舫いは、解き放たれるためにある。枷は、外されるべきだ。人間を縛って良い人間なんて、どこにもいない。
「だから、君には、自由でいてほしい。僕がいたことなんて忘れて、自分で飛んで」
遠くまで。
「嫌だ! 嫌だよ……忘れるなんて絶対嫌……」
「DVDはきっと見られない」
「嫌なの!」
「僕に人間は認識できないんだ。風景が映っているだけの映像に、何十分も耐えられない」
「嫌なのに……」
「何が嫌なの?」
「見えなくなる、聞こえなくなるなんて、どうしてそんなひどいことするの?」
「本当に酷い話だ」
よりによって、今この瞬間に病状が悪化するなんて。
「れ──」
彼女が僕の、多分僕の名前を呼ぼうとして、言葉に詰まる。
「僕の名前が思い出せない?」
「名前が思い出せない……」
「いいんだ。それで」
「嫌……ごめんなさい……」
「謝らないで。でも一つだけ約束して」
「嫌ぁ……」
「自分の足で、飛んで」
彼女は頭を振って、僕を見上げようとして、そして失敗した。
9
「どうよ、大人の味ってやつは」
「苦くて不味い」
率直な感想だ。何が美味いのか全然解らないし、解りたくもない。
「君ねぇ……年上のお姉さんからのクリスマスプレゼントだよ? 少だけでも喜んで欲しいなぁ」
「小学校卒業と同時にサンタさんは来なくなったよ。そういう取り決めを四年生の時にしたから」
「そっかぁ。私とは大違いだ」
「そうなの?」
「サンタクロースの存在は疑ってなかったよ。1957年から世界には公認のサンタが存在してる」
「親からしたら可愛げのない子供だったろうね……」
「だから私にはサンタは最初から見えなかった。多分私は君のサンタクロースになれないだろうと思ってたけど、当たりだったね」
「どうかな。乖離現象のおかげで、人の家には入りたい放題だ。サンタになる気なら案外簡単かもよ?」
「欲しい物がなんなのか解るからこそサンタさんは成立するのさ。そういう魔法」
「羽衣さんは、魔法って言うんだね」
「君にとっては?」
羽衣さんがこの冷めきった部屋に入ってから、初めて目が会う。
「重力。辛かったし、辛いけど、もう離れてしまったから」
「立派な大人の仲間入り、かもしれないね」
私は魔法を信じなかったけど、と彼女は付け加える。
「幼なじみを泣かせるような人間を、立派とは言い切りたくない」
「そっか。優しいね。君みたいな人が乖離しちゃったのは勿体ないな」
でも、もう遅い。
「一度手が離れてしまったから、二度と繋ぐことはできない。奇跡は起きない」
「泣くなよ、少年。一つ、良いことを教えてあげよう」
「何?」
泣いてない、なんて否定する気にもなれない。
「軌跡は残るのさ。永遠に、君の中に」
「笑えない」
「いつか笑えるさ。それまで、君が飛び続けられることを祈るよ」
僕も、祈ろう。
もう名前も思い出せない幼なじみが、重力から解き放たれて飛翔できることを。
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