第31話

「夜の学校に入ったのなんて、初めてだよ」

「そっか。ミズキは悪い子だね」


 学校の屋上で、瑞貴と茜は空を見上げていた。

 給水塔の上では、影法師がコロコロと笑っている。

 まるで、これから戦いが始まるなんて信じられないような静寂。

 その静かな光景に、何だかソワソワと落ち着かなくなった瑞貴の手を、茜がギュッと握る。


「落ち着いて、ミズキ」

「う、うん」


 繋いだ手から感じる茜の体温の心地良さに、瑞貴の心臓の鼓動は早くなっていく。


「ミズキ。まだ、怖い?」


 茜が、心配そうに瑞貴を見上げる。

 確かに、怖い。

 だが、怖いのは赤マントなんかではない。

 瑞貴が一番怖いのは、茜と離れてしまう事。

 まだ四日。

 まだ、それだけしか茜と一緒に過ごしてないのだから。

 一日ごとに強くなっていく気持ち。

 もっともっと、この気持ちを強く感じていたいと瑞貴は思う。


「ねえ、茜」


 だから瑞貴は、茜の手を強く握り返す。


「この戦いが終わったら、遊びに行こう」

「え?」

「遊園地とか、映画とか。ショッピングだっていいし、茜が行きたい所があるなら、そこでもいい。僕、茜ともっと……もっと、色んな事をしたいんだ」


 そう、茜ともっと思い出を作りたいと瑞貴は思う。

 望む日々をくれた茜と、ずっとたくさんの思い出が欲しかった。

 だから、こんなところで負けてなんかいられない。

 瑞貴には、手に入れたい明日がある。

 だから、乗り越えなければいけない今日がある。


 茜は、瑞貴の言葉を静かに聞いていた。


「そっか」


 そう言って、茜は瑞貴の顔を見つめる。

 その顔に浮かぶのは、いつものニヤニヤ笑いではなくて。

 優しげな……柔らかい笑顔だ。

 茜自身、自分がこんな顔が出来るとは思ってもみなかった。

 六花が瑞貴の感情を形にした時にも思った事ではあるが……茜は、自分に余裕とも言えるものが生まれているのを自覚していた。

 それが恋から生まれたものかは茜にも分からないが……変わっていける自分が、茜は嬉しかった。

 瑞貴が好きだ、という気持ち。

 それだけで、茜はどこまでも強くなれる気がした。


「……そっか。ミズキは、しょうがないなあ」

「そうだね。僕は、しょうがない男だから。茜を、たくさん振り回すよ」


 その言葉に、茜は笑う。

 楽しい、と思った。

 こうして瑞貴と話すくだらない会話が、茜にはどうしようもなく楽しい。

 もっともっと、つまらなくてくだらない、どうでもいい話で盛り上がっていたかった。

 瑞貴に振り回される自分を考えると、茜はどうしようもないくらい心が躍るのが分かった。


「そっか。そりゃ大変だ。じゃあ、早めに終わらせて帰らないとね」


 茜が掲げた右手に、槍が現れる。

 茜の制服が、ドレスにも似た赤い服に変化していく。

 赤いマントが、翻る。

 茜がこっちに来てから瑞貴が初めて見る、茜の赤マントとしての姿。

 吊り目気味の青い目に宿る強い意思の光に、瑞貴はたまらなくドキドキする。


「……茜」

「何? ミズキ」

「やっぱり、茜は可愛い」


 茜は、それを聞いてキョトンとした顔をする。

 そりゃそうだ、と瑞貴は自分自身の台詞を後悔する。

 どう考えたって、今言うべき台詞ではない。

 けれど、つい口から出てしまったのだ。


「そうだね。だから、ミズキは幸せ者だ」


 ニヤニヤ笑いを浮かべて、茜は槍を構える。

 負ける気はしなかった。

 混ぜっ返しこそしたが、どうしようもなく嬉しくて飛び上がりそうだった。

 体中に、恋心が溢れているのを茜は感じていた。

 瑞貴が好き。

 ただそれだけの感情が、指先まで熱くするような充足感を茜に与えてくれる。


「さあ、来なよ同族。今夜の私は……誰より無敵なんだから」


 その言葉と、ほぼ同時に屋上の空気が変化する。

 給水塔の影法師が、慌ただしげにざわめく。

 濃厚で、不快な……鉄錆の匂いにも似た空気が溢れ出す。

 世界が、揺らいで。

 世界と、世界の境界を何かが突き破って現れる。


 赤い帽子、赤いマント、赤い服。

 瑞貴よりも、もっともっと身長の大きい男性といったところだろうか。

 血のように赤い髪をなびかせながら、それは瑞貴達の前に現れた。


「これはこれは。久々の逢瀬だね、同族。わざわざ迎えに?」

「そうだね。覗き魔の変態野郎には、棺桶の馬車を用意してあるから。大人しく受け取るといいんじゃないかな」

「おや。勝手に見せたのはそっちじゃないか。なあ、切符君」


 切符というのは、どう考えても瑞貴の事だろう。

 どうやら、本当に屋上での会話は全部聞かれていたらしい、と瑞貴は後悔する。


「なあ、切符君。取引をしようじゃないか」


 男が右手を掲げると茜の槍よりも、ずっと巨大な槍が現れる。

 それは槍というよりは……巨大な剣を無理矢理に槍にしてみた、といった印象すら受ける武器だ。

 それを瑞貴に向けると、男は人の良さそうな顔で笑う。

 それは茜のものとは比べ物にならないほどに強力な、一瞬の殺意の槍だ。

 向けられているだけで、瑞貴は死を確信して後ずさりしたくなる衝動を覚える。


 殺意を向ける。

 その恐ろしさを、今更ながらに感じて瑞貴は冷や汗を流す。


「君とそこの同族は、殺さないでおこうじゃないか。他に望む奴がいるなら、そいつも殺さないでおいてやるよ。だから君は、俺に望むものをくれないか?」

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