第11話

「誰も居ないよ?」

「コラ、見ちゃダメだよ」


 その途端、瑞貴は茜に制服の裾を引っ張られる。

 あれ、ひょっとして見たら呪われるとか、そういうのだったのかな……と瑞貴は慌てて目を逸らす。


「連中、とにかく恥ずかしがり屋だから。あんまり見ちゃダメ」

「じゃ、じゃあ。なんで教えるのさ?」


 瑞貴がそれなら最初から知らなければ見なかったのに、という思いを込めて抗議すると茜は意外だ、という顔をする。


「災難を避ける方法は、それ自体を知る事だよ、ミズキ。それがどういうものか知ってれば、避ける事は難しくないんだから」


 裏道には近づくな、とかそういう類のものだろうか。

 登校中に気を抜くなっていうのは、不意にそういう場所に近づくな……っていう茜の気づかいだったのかもしれない、と瑞貴は納得する。


「茜って、優しいよね」


 僕がそう言うと、茜はまたニヤニヤとした笑みを浮かべる。


「まぁね。私ほど優しい奴はそうはいないよ。ラッキーだね、ミズキ」

「そうだね。出会ったのが、茜でよかったよ」

「だが、俺と出会ったのが運の尽きだな」


 野太い声と共に、背後から瑞貴の肩に手が置かれる。


「茜、妖怪ロンゲ野郎に出会った時にはどうしたらいいかな」

「さぁね。カツカレーでも奢ってみたら?」


 ニヤニヤと笑う茜と、瑞貴の首を太い腕で絞めにかかる耕太。


「朝から女子と会話とか、どこのセレブだよ。独身貴族の誓いを忘れたのかよ」

「いや、普通に会話に混ざってくればいいじゃない!」


 というよりも、独身貴族の誓いなどという不気味な誓いを交わした記憶は、当然ながら瑞貴には無い。


「朝から濃厚ジャムみたいなスイートトークしやがって。何処に混ざれってんだよてめぇ」


 グイグイと瑞貴を絞める耕太に、後ろから綾香がチョップを入れる。


「アンタだってアタシと会話してたでしょうが」

「お前はなぁ……」

「何よ」


 瑞貴の首から手を離した耕太は、大袈裟な手振りで溜息をついてみせる。


「ガキの頃からずっとだしなあ。むしろ男友達っつーか」


 そんな耕太をジト目で見ると、綾香は瑞貴の手を取る。


「行こうか、瑞貴。遅刻するよ。あのアホは置いてこ」


 瑞貴の手を掴んだまま、走り出す綾香。


「わ……ちょっ、転ぶよ綾香、転ぶ!」

「ミズキ、私も」


 慌てて瑞貴も走りだすと、追いついてきた茜が反対の手を掴んで併走する。

 1人置いていかれた耕太は、般若の形相で追いかけていく。


「待ちやがれ瑞貴! てめぇにはまだ話があんぞコラ!」


 そのまま学校に着くまで瑞貴達は爆走を続け……教室に入る頃には、茜以外は全員疲れきってしまっていた。


「体力あんなぁ、茜……」

「まぁね」

 

机に突っ伏している耕太と瑞貴を、茜がニヤニヤと見下ろしている。

 その手にはいつ手に入れたのか、クリームパンがある。

 とはいえ茜の手にある以上、それは普通のクリームパンではなく「瞬間の殺意」から生まれたものだ。

 それを嬉しそうに齧る茜を見上げ、瑞貴は溜息混じりに呟く。


「……殺意って、簡単に出るんだなぁ」

「まぁね」


 ニヤニヤとした笑みを浮かべながら、最後の一口を茜は幸せそうに呑み込む。


「何の話だ?」

「さぁね。それより、そろそろ授業だよ」


 そう言うと、茜も自分の席へと戻っていく。

 茜の席は、教室の左隅。

 そういえばあの席は、前は空席だったんだっけ……と瑞貴は思う。

 そして、鳴りだすチャイム。

 瑞貴にとって退屈な時間がまた、始まってしまう。


 でも、昨日は違っていた。

 茜が瑞貴の前に現れて。

 取り巻く世界は全部が変わった……と瑞貴は思っていた。

 けれど、こうしてみればどうだろう。

 瑞貴自身は何か、変わったのだろうか?


 茜が、瑞貴の立ち位置は通行人だと言っていた事を思い出す。

 その他よりは、少しマシで。

 でも、主役には届かず脇役にもなりきれない。


 結局。

 瑞貴はまだ、何にもなれてはいないのだ。

 せめて耕太と茜の席が交換とかになればいいのに、と考えて瑞貴が隣の席を見ると、耕太はすでに爆睡中だった。

 そう、結局は。

 いつも通りの日常が今日もやってきている。

 だから瑞貴は、想像する。何度も何度も想像した、あの光景を。


 想像する。

 例えば、今授業を受けているこの教室に、瑞貴以外誰も居なくなったなら。

 例えば、世界に誰一人として居なくなったなら。

 何度も味わった、この感覚。


 視界が、滲む。

 世界が、歪む。

 誰かが慌てたように立ち上がった音がするけれど、それも遠くなって。

 そして瑞貴はまた、あの無音の教室に居た。


 前は、隣の耕太の席に茜が座っていた。

 赤に染まった、あの姿を思い出す。

 でも今は、誰も教室には居ない。

 瑞貴以外は、誰も。


 瑞貴は椅子から立ち上がって、教室を歩き回ってみる。


 コツン、コツン、コツン。


 歩く音が、やけに大きく響く。

 やってみると楽しかったけれど、すぐに飽きてしまう。


 誰も居ない、無音で無人の世界

 ダストワールド、と茜がこの世界を呼んでいた事を思い出す。

 ここは、とても寂しくて。

 茜が自分を呼んだ理由が、瑞貴には分かった気がした。


「……あれ?」


 おかしい、と瑞貴は気付く。

 茜は、向こうにいる。

 ここは、無人の世界のはずだ。

 つまり……瑞貴以外は、誰も居ないはずだ。

 なら、瑞貴を此処に呼んだのは誰なのか?


「それは、貴方自身ですよ」


 心臓が、飛び出しそうになるのを瑞貴は感じた。

 此処に、瑞貴以外の誰かがいるというのだろうか?


 今の声は、教室のドアの外から聞こえてきた。

 閉じられたドア。

 教室の前と後ろにドアはあるけれど、今の声は前のドアの方から聞こえてきた。


「面白いですね、貴方は。こちらと向こうに同時に存在してるなんて。でも、こっちの貴方は随分薄く感じる……誰かに引っ張られてきたのですか?」

「だ、誰?」


 この世界に……瑞貴でも、茜でもない誰かがいる。

 その事実に、瑞貴は強い興味を感じていた。

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