【3-1】軋む
それから数日間、海シリーズは失踪した海危難の捜索に奔走した。
しかし奮闘虚しく、時間が過ぎるのは早い。また誰の影も残さないまま一日は終わろうとしていた。走って研究所まで帰ってきた静かの呼吸の煩さだけが夕暮れの曖昧なオレンジの中で鮮明で、それがいつかの時を思い出させる。今はコンクリートで擦れた靴だけが一緒に居てくれる。
「っはぁ……ぅ……ッ、はぁ……」
弟との別れを突然突き付けられたその日と重なる人工太陽が、
「おかえり」
地面に長く作る青年の影を上塗りして、人の声。垂らした黒い髪は静かとよく似ているようでいて、陽の赤色を通せば実際全く違う色をしているのだと気付かされる。
「……うん。ただいま」
「お疲れ様……帰ろうか」
荒い呼吸がまだ残っているふりをして俯いたままの彼の背を、既知が細く長い指で伝った。こんな日をあと何度、と思うことすら何も生み出さない。無だ。
次の日も同じようにやって来た。また機械的に月は散っていく。捜索は結果を出せずに終わる。夕方になっても、もう空に昇るべき時間になっても、三日月の形に欠けた体が埋まらない。
「痛い……」
彼がこんなふうに路地裏の排気口の脇に蹲っているせいで、今夜の空には特別光が無い。ただいつもと変わらず厚顔無恥な暗雲が人々を深い眠りに誘うだけで、夜闇は満足げな色。体内の機械から微力な電気を放つ静かの傍には虫も這わず、どろりと重い髪を抱き込んだ姿はまるでその身が作る幻像に沈んでいくようだった。落ち込んで消えそうな身体を抱き留める人は誰も居なくて孤独。夜を象徴するには静かの心は、未だ熟れず、なのだろう。半月なんて名前は大袈裟すぎると、彼が思ってしまうのも必然だ。ジャリ、と時折靴裏が地面を擦る音。今静かにはそんな雑音すら、自身の存在を確かめるために必要なものと思えた。
(守られたいんだ、何かに。何でも良い)
弟を見付けられもしないくせに、そう言って彼の心は愚図った。またも俯く
(……カッコ悪いよな。分かってるから……)
しかし、開いては閉じる。その二つしかない瞼の向こうで描き出すのは結局のところいつもと変わらずに両親のことだ。退屈でしかない懐古の風景。寂しい時の彼の癖。帰りを待つ家は最早空っぽだと疾うの昔知ってしまったのに、思い出すことはやめられない。けれども……けれども彼だけが、理解している。
(……俺だけは、責めないで)
それは、逃げているわけではないこと。彼自身が彼自身を嫌う敵になってはいけないことを知っている。明日死なないために目を瞑るべき時間があることを、弱い青年は知っているのだ。
暗がりでは何も目に見えないから、立ち上がって帰路につく間少しの回想をするとしよう。響き出したブーツの靴音に合わせて一つ一つ鮮明に手に取れるそれらは過去の記憶。親に捨てられた静かが研究所に連れられて来てはや数年が経っていた。奇妙な薬品、メスの光。与えられた新たな人生の中ではいつも、無機質な視線に晒された。気付けば体の中には心臓の動く音ともう一つ、機械の痺れる振動を感じる。白衣の人々は、よもや第二の人生の産みの親とも言えてしまうのだろうか。なんて静かは思った。手術台から起き上がった彼に手向けられた言葉。
——君はもう人間ではないのだよ。
(それならこんなに苦しいもんかよ)
ようやく静かは、息を一つ吐いた。
頭上の黒塗りはまるで、自身のシルエットを掴んでくれる大きな太陽が消えた時の喪失感。この数日間絶えず彼の血液を巡っている感情も、同じ色をしているようだった。失せ人を求めて人一倍速く駆けようとも、見付からないから全てが無駄足だった。きっと弟はどこかにいると信じているから無意味だなんて思いはしない。かと言って打開策はこの夜の中見出せない。「俺はそんなに頭良くないし」と、ぼやく瞼の裏にもまた虚しく三日月の形。
静かはやがて家に帰り着く。何も得られなかった一日を早く終えようと急ぐ。ただそれは等しく、僅かに前を向いた心が、明日に何かを得られることを期待しているからだった。
——翌朝。鳥の声に薄霧の冷たいカーテンがかかり鼻先も冷える。町はありふれた朝の気候。静かの目覚めもいつも通り、少し嫌な寝汗と荒い呼気と共に訪れる。
無体な労働を強いられる海シリーズにも勤務時間の規定というものがあり、始まりの時間も終わりの時間も遵守が基本である。それより前と後は、冷徹な研究所と言えど拘束しない自由時間。しかし勤務開始の約一時間前、今日もまた静かは更衣室の只中で既知と鉢合わせた。
「早いね。体調大丈夫?」
彼が作って見せる笑顔の形はいつも同じで、その状態こそ最早無表情と呼ぶのが適切に思える程だった。新月の名を与えられるに似付かわしい黒い瞳も、彼の心を読み取れないところに一役買っている。お前もな、だとか茶化して返す朗らかさを持ち合わせていないこの日の静かは、まだ寝覚めの鬱屈を残した頭でただ「おう」と応えた。閉じるロッカー戸の鈍い色が視界に曇った光を放つ。そこに反射する自身のシルエットはぼやけて不細工だ。ぬかるんだ朝の湿気に霞んだ天井の光源が、不快さを加えてぐるぐると目の奥を回っている……。
「勤務時間外に外走り回るの、バレたらまた怒られるよ」
整えた制服の裾を引きながら部屋を出ようとした静かの背に、既知の声は白にも黒にも思えた。妙な沈黙。半端に開いたドア越しに漏れていく空調の温度。見えはしないが、背後に立つ彼の表情はやはりいつもの無表情だろうか。そう思いながら、無意識に奥歯を噛んでいた。静かは、はっきりやめておけと止めるわけでもないのに釘を刺す彼の言葉がいやに無責任に思えて、下腹部にふつふつと泡立つような浅い腹立たしさを覚える。ただし、連日のストレスと傷心が彼等に多くのささくれを生んでいることは言うまでもない。苛立ちは、殆ど八つ当たりだった。
しかし、そんな感情に水を掛けるような男の声。
「二人とも、時間外労働は歓迎されませんよ。新月も半月もです」
「……
呼べば、白衣の上の薄情な目は笑って見せた。足音は全く無かったように思うのに、いつの間にか静かの傍らにその人は居る。まだほとんどの職員が出社していないこの時間。言えた立場ではないが、随分早いものだ。静かは冷や汗を誤魔化すように内心で冗談めかす。
「新月は雑用が溜まっているかもしれませんが……半月は、始業まで何もすることは無いでしょう」
言葉と共に視線は静かの揺れる眼を捉えた。決して怒りも嘲りも無い声色と、世間話をするような柔らかな手振り。だけども妙な感じで人の想いを見透かした口元の気配。どうにも拭いきれないこの居心地の悪さは、何か。
「いやいや……まぁちょっと、仕事前にストレッチでもと思ってさ」
何とか笑顔を返すと、屍は彼の答えには何の驚きも感動も無い様子で頷く。
「そうですか。心中お察しします」
静かはここで、目の前の男に対して抱く気持ち悪さを明確なものにした。不可思議なほどに、その声一つ一つが形式的で無色。ただ物体の形を写し取った影のように虚無的で、聞き做しを唄う鳥のように輪郭だけの言葉。嫌悪感がつっかえて、咽喉が鳴った。同じように感じたのか既知も続いて口を開く。
「……行っても構いませんか?どうせ残業代も貰わないし、今日のところは見逃してくださいよ」
言えば返事を待たずに二人の横を抜けるように歩いていく。その様子をまた視線だけで見送り……屍は止めなかった。
(何だよ……お叱りに来たんじゃないのか?)
一足先に脱出を果たした既知の背中をぼおっと見送って静かはぼやく。そして同じように立ち去ろうと踏み出しかけたが、何故か遮るように研究者は身体ごと静かの方へと向き直った。
「貴方も仕事がしたいなら、特別なものをお渡ししましょうか」
「……え?」
視線を上げると目が合った。冷徹な研究所の信用ならぬ職員の眼は、黒にも、茶色にも、赤にも、白にも、ただ吹き抜けた穴にも見える。
「外を散策するより余程有意義な仕事です」
「えっと……それはどんな?」
「尋問です。これも本来は三日月の仕事ですけどもね」
ここ数日彼の中鳴り止まないその名前に、反射のように脳が痺れる。と同時に、酷く珍しいその仕事の誘いが何より気になった。
「尋問なんて、誰を?まさか犯罪者を見つけ出したわけじゃねぇだろ?」
彼の口振りからして、危難捜索に関わる仕事にはきっと違いない。しかし一体誰を問い質せばその所在を知れるというのか。静かの頭では、自身が取り逃した不気味な仮面の姿以外に思い当たる先は無かった。
そうだ、あの時、もしあれを仕留めていたらどうなっていただろうか——。
全く何の意味も為さない妄想がついに頭を過ぎり、空虚と悔恨は悪戯に胸を締め上げた。
「捕らえたんですよ。犯罪者を。昨夜遅くに……それこそ時間外労働でしたが、良い成果でしょう?」
「……え、はぁ?」
屍が笑う、先程より露骨に。口にしたのは、静かにとってとてもではないが受け入れがたい言葉。もし冗談ならばこれ以上無く悪趣味なカリカチュア。あの日不気味な人工のオレンジに焼かれて見たうずまきの仮面が、蜃気楼になって脳裏に霧散する。フラッシュバックに繰り返す屍の言葉が重なった。
——犯罪者を、捕らえた?
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