【3-2】軋む車輪

 犯罪者。それは幾人もの失踪や物品の消失という不可解な事件を起こしてきた、人道より逸脱した力を持つ不気味な存在。それと実際に対峙した人間のうち生きている者は殆ど居ないが、海静かは先日、ついにその者と邂逅かいこうを果たしたのだ。それは棒切れのような細身の四肢に少々派手な装飾の……けれど至って普通の材質に見える衣服を纏った、意外にも小柄な人型。頭部には特筆すべき矢鱈と目を引く歪な仮面。うずまきの模様。今でも思い出すだけで胸元に不快さが這い寄るような、あの空気の臭いと苦戦の記憶は忌まわしいものだった。

「……あんなモン、捕まえられんの?銃とかで何とかなる相手には思えなかったんだけどなぁ……」

そう訴える静かの口元にありありと見えるは疑念の色。納得出来ない、と彼の眼に浮く月の瞳孔が瞬いていた。それも至極当然。静かを含む、海シリーズと呼ばれる彼等もまた人智を外れた力を振るう存在であり、まさに此度の犯罪者のようなイレギュラーを相手取るためにこの研究所に存在した。初めての対峙ではそれをあしらう事が出来なかったとしても、真っ当な人間よりは海静かの方が犯罪者への勝率が高くあって然るべきだ。もし、多少武装した人間を幾らか集めるだけであの異能力を制圧出来ると言うなら、海シリーズなどというコストの掛かる機械はお役御免。つまりは、立つ瀬が無い。静かはそう言いたいのだ。

「犯罪者は全く無抵抗だったんですよ。あっさりと捕まってくれて、今は収容室の中です。不思議ですよね?」

「はぁ……?無抵抗ってそんなの……怪しすぎるだろ」

「そうでしょう。だから貴方方に任せたいんですよ、半月」

むくろの揺らす白衣の裾は色以上に白々しく波を打って静かの気を引いた。廊下の乾燥と開けっ放しの室温が徐々に混じる此処は、妙な感じで寒い。静かは、数秒思案のために目を逸らした。弟の顔とうずまきの面を心中に並び立てて。結局、弾除けの役割を甘受するほかないとしても、彼はのだった。

「……分かったよ。俺がやる」

そう言って静かの目が再び研究員の姿を捉えた時、声色に灯る覇気は此処数日のうちで最も凛々しく在っただろう。

 彼の普段の仕事はどちらかと言えば、脳より筋力に頼るものばかり。脚力に特化した身体を持つ以上それは必然。加えて、単に性格的な部分だけを見てもやはり間違いなく、尋問という作業に向いているのは本来既知や湿りの方だと思えた。だというのに静かに声がかかったことにはきっと意味がある。それも、静か自身にとって大切な意味が……。深海色の垂れ髪の重さを頷かせたのは、そんな直感だった。

「良かった。それじゃあB2棟の収容フロアへ行ってください。指紋認証ですから、手袋は外しておいて」

先程聞いた無機質さとは違う気配の微笑み。軽々しく手を振る影を残して、研究員は静かの前から去った。

 

 始業前の研究所を往く道のりは日常的に感じるそれより、余程長い。人がいない分膨らんで思える白い廊下壁が時間の感覚を狂わせるようだ。

(静かすぎるなぁ)

自身の靴音を聴くのにも飽きると、冗談めかしてそんなことを思ってみた。収容フロアはもう直だ。

 凹凸の無い扉の前に立てば生体反応を感知したモニターが仕組まれたプログラム通りに浮かび上がって、グリーンのライトを点滅させる。かざした手の平を読み取る電子音。なぞるレーザー線。扉が開くのには二秒とかからない。

(……アレが居るのか……)

入場者の危険性を吟味する幾つものシステム稼働音の中を歩きながら、静かは記憶の残暑に夢想する。何度も反芻してしまうのは勿論、不穏なうずまきの化け物は二度三度と会いたいような相手ではないからだ。収容室への通過判定をクリアしたことを示すランプの地味な色が最奥の電子版に灯って、標的の待つ自動扉の先に導く。間も無く、相見あいまみえるのだ。呼吸の音も一層うるさく感じた。

 分厚い透明の壁によって隙間無く二つ区切られた収容室の中。漠然と伸びる床面の輪郭。広い檻に在るのはたった一つの影だけだ。ぴくりとも動かないそれを静かは一瞬置物かとも見紛いかけるが、茶色のカーブを描くそれが髪だと、細く床に触れるそれが手だと、動かないのは丸まった背だと気付けば、漸くそこにある物体が人型であることを認識する。記憶から思い起こせる不気味な姿とは全く重ならない印象に静かの内心にはやや動揺が走るが、なるほど確かに、仮面の下には頭部があって然るべきだ。考えてみると、元々静かが見たものの姿も大部分は普通の人間。人ならざる雰囲気を醸していた最大の要素を取り除いた時、それが思いもよらぬ程に凡庸な姿だとしても奇妙なことはないのだ。

(にしても、ちっさ……、……まさか子ども?)

そんなことを考えるのとほぼ同時。項垂れていた頭部がふいと上を向き、幼い顔色が此方を見た。焼け爛れたような赤濁り色の眼球が二つ在る。視線が今静かを突き刺した。化け物との面会に覚悟を据えていたはずの静かは半歩後退り、たじろぎを見せてしまう。

——ゴンッ、と鈍い音と誰かの息遣いが静かの意識を突然殴り付けた。

ハッとした時には犯罪者は静かの眼前に居り、人の生身では絶対に破れない強固な障壁を隔てて差し迫っていた。音の正体は犯罪者──が、頭部を強かにその壁面へ打ち付けたせいだと知る。彼の眼に焦げる何かの激情。その理由を静かは全く知り得ないのに、何故だか、そこに見覚えがある気がしてならない。

「な……」

「参角を返せ!!あいつをどうするつもりだ!!」

牙を剥く気迫で吠える声は罵声の温度を持っていて、突き立てられる視線を静かはどうすることも出来ずにいた。かち合った眼に眼が焦げる、焦げる。少し下の方でまたゴンと硬質な音がした。よく見れば彼の両手には奇妙な形の枷がその指に至るまで取り付けられており、どうやら酷く痛むものなのか、そいつは表情にも動きにも不自由そうなもがきを覗かせる。目の前に居るものを、最早化け物などと罵って自身と隔てることは静かには出来ないだろう。彼の放つ全てが紛うことなく人間だ。

「ミスミ?……ちょっと落ち着けよ。話も出来ねぇな」

静かが制した言葉になお犯罪者は喚く気配。だがしかし、その動きは何か言葉を探しあぐねるように淀んでいて、結局何度か嗚咽を漏らしただけで次の声は生まれなかった。すかさず問いを重ねたこの時の判断は、審問員としては正しいのだろう。

「お前の名前は?現状さぁ、俺はお前を犯罪者としか呼べないんだけど」

「……」

「どうせすぐ研究者どもが身元なんかは割っちまう。調べられたら分かることぐらい、今教えてくれても良いだろ」

「……」

……静かには、この場で聞き出さなければならない事項がいくつもある。勿論仕事と私情の両面で。黄色い焦りと少しの緊張の最中、定石のような文句を言い挙げる静かの声によって広く熱されていた室温は徐々に平静を取り戻しつつあるようだった。未だ「犯罪者」と呼ぶほかない彼の顔色も同じく。目元にはやっと理性の気配を見せ、数分前の様子とは打って変わって固く口を閉ざしている少年然とした顔立ちは、辺りの大通りを闊歩する気ままな制服姿の学生たちとさして変わらぬ年頃に思えた。けれど半端に見開かれて動かない瞳の、不可解な歪みを秘めた感じが、何ともただの子どもには見えぬ。

「捕まる時、抵抗しなかったんだって?本当かよ?」

「……」

「あの変な力使えば捕まらなかったんじゃねぇの?何でこんなとこで大人しくしてんの」

「……」

「何歳?」

問いかける声だけが独り響いては、また沈黙が貫く。やはり尋問など向いていないと内心でぼやいた。犯罪者はただ、後ろ髪を掻く動きで静かの虚像が壁越しに揺れるのを見つめている。溜息の一つも見せない静寂だった。そこで静かは何の気無しに、あたかもたった今ふと思い出したかのような具合に、此処へ至るまでに木枯屍という研究員から教えられた事を口にしてみる。

「もう一人の犯罪者は……お前が殺したの?」

「……!」

途端にギョロリと回る赤色の目。彼の心に今何の気持ちがあるのかまだ静かは推し量れずにいる。けれどもやっと再び唇を動かした彼の様子を見れば、分からずとも重畳だ。

「参角をどうする気だ」

「ミスミ……っていうのか、お前の仲間は」

彼が二度告げたその音が、どうやらもう一人の犯罪者の名前であると捉えて間違いないらしい。静かの脳裏に想起される屍の言葉。


──今更意外なことでも無いかもしれませんが、犯罪者は二人いました。片方は今収容室に。もう片方は、死んでいます。

──半月が小競りあった犯罪者と、三日月が追ったという犯罪者は、貴方方の言う通り、別人だったんですね。


軽薄に光るメッセージトレイにいけしゃあしゃあと笑う男の姿が揺らいで見えるようだった。瞬きの隙間に回想の火を消す。

「……参角の体に手を出すな」

対して壁の向こうでは、収まりかけていた感情の狼煙がまた赤い眼球の奥をのたうち始めたようだった。ただ怒りにしてはどろりと重く、憎しみというには理性的に。

「死んでるみたいだけど、遺体だけでも返してくれって?……共犯者はお友達?まさか恋人じゃねぇよな」

「……」

「黙ってちゃあ返してやれるかどうか相談も出来ねぇだろ」

「答えたって返さないだろ」

「じゃあ、お前はどうする?」

「……」

「……まただんまりかよ……」

無言の中で相手が奥歯を噛み締めるのが気配で分かる。

(よく喋る奴はバカだけど、黙ってたって得しないだろうに。このままじゃコイツも解剖ばらされて終わりだ)

彼の内心を探る手付きのまま静かは思案した。どう口を開かせたものか。バイト先の客と話すのは得意でも、無理矢理こじ開けるような野蛮な話術は静かの中には無い。悩みを顔には出さないようにと注意を払いながら──しかし、すぐに静かの苦悩は不要となる。

「……は?」

開かれた犯罪者の唇。漏れ出した言葉に、静かは声を失うことになる。

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神は歯のない者にクルミを授ける とひわ @Umekobo

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