【2-4】不幸は単独でやって来ない

 研究員・木枯こがらしむくろの放つ声の、なだらかな濃淡の心地は実に不思議で、ただずっとこの声に騙されていたいなどとと思ってしまう。静かの気持ちは慌ただしい一日の中で今最も虚ろ。それもそのはず。手も足も出せないような現実にずっと追いまわされ続けていて、もう疲れてしまったのだ。

 木枯から語られた話を要約すれば、こうだ。まず本日の海危難捜索は断念する。これからは陽が落ち、暗くなる一方の時間。市民の移動も増える夜に、暗く、狭くなっていく視界で人一人を探し続けるのは効率が悪かった。海シリーズが改造人間であっても、視力は凡そ一般的。それでも最も夜の捜索に長けているのは誰かと言えば他でもなく、脳の調教により優れた目を持っていた危難だったのだから。彼を欠いた上では……と、敢えて効率主義者の研究員がそう語ったわけではない。これは静かの脳裏に描き出されていた、人間じみたつまらない懐古だった。

(危難……)

愛しい弟の名は、何だか暗黙の禁句になってしまった気がして口には出せなかった。空気と声が咽喉のどにつっかえて苦しい。次に話が明日以降の捜索の予定へと切り替わっても、静かの注意は、頭を埋める鬱屈とした疲労感に囚われてそぞろ。

「所長は既に最悪の状態も視野に入れています。それでも可能な限り、パーツだけでも回収したい」

と、その言葉に瞬間、居室内の空気の全てが硬くなる。静かの意識もまた、急激に目の前の男が語る話の中身に引き付けられた。

「回収」

確かめるように声を出したのは既知きしだ。他の連中は口を結んだまま次の返答を待っている。床を這う塵がさざめき出した。時間は遅い。

「はい。№-5三日月のパーツは頭部にありますので、回収の最優先は頸部から上です。しかしながら可能な限り全身の回収を目指してください。破損は最小限に抑えたいので、電気と外部ダメージから保護するための容器を貸与します。詳しい手順は」

「ちょッ……と、待てよ」

淡々と説明を続ける男の表情に人間的な情動の感じは一つも見付けられない。その穏やかに進む声の響きと、冷たい言葉を突き付ける人間性の乖離かいり。恐怖に悲鳴を上げたのはやはりと言うべきか、虹だった。彼が止めなければ、海シリーズという道具に慈悲を掛ける義理など無い研究員はまだ冷徹に言葉を紡いでいただろうか。遮った少年の困惑する表情へ無機質に向けられる眼が、答えだ。

「パーツの、回収って……危難が死んだみたいなコト言うなよ!まだ見付かってねェだろ⁉全然、無事だったら……」

「まだ見付かっていないからですよ。そもそも、不可解な力を持つ犯罪者と対峙した彼を安全に確保するためには、一五分以内の発見が必要だという見積もりでした。今は、既に三時間以上経過しています。生存している確率は非常に低い」

「ッ……でも!アイツは、スゲェ頭良いし、策があるって顔して行ったんだぞ!そんな簡単にッ」

「彼を過大評価していたのは貴方です。それより、自身の力不足を反省すべきではないですか?」

嘆願の悲痛さに返ってきたものは、明確な拒否のニュアンスだった。取り付く島は藁一本程も無いと解ってか、向けられた言葉のあまりに鋭利な冷たさが咽喉に突き刺さってか、それ以上虹の口には屁理屈の一つも浮かばない。絶句の吐息が痛々しすぎて、静かは彼の顔も見はしないままに唇に歯を立てる。

 しかし彼等の〝兄〟である静かに言わせてみれば木枯の言うように、虹の危難に対する評価が過大だということは全く無かった。危難は類い稀な頭脳と冷静さを持っており、その実力は仕事中、シリーズの誰もが肌で感じてきたのだ。先程虹が述べた彼への評価は、今までの経験から生まれる意見としても、一人の家族としても、至極正しいと静かは思う。だから、沸き立つ憤怒を鎮めることは尚更難しかった。

(キレんのは駄目だ……これは分かってたこと……。ダストΩこいつらは、こういう組織だから)

努めてそう思い、深い襟元に隠した肺へ何度も息を吸い込む。

 相手は、人体実験という道徳的禁忌にいとも容易く踏み込んだ研究者達。世間では天才と持て囃される彼等にして、執ったメスの先に生まれた副産物へ掛ける慈悲など、期待する方が馬鹿馬鹿しい。例えば静かは切っ先鋭いロマンスを妄信するタチの悪さはあれど、世間に対する見方はある程度に大人だ。そしてそれは既知も湿りも同様。少し距離あって同じ状況下に置かれる二人へ目を向ければ、湿りは何か心中に不快さ疼く気配はありつつも言葉は無く、木枯を見据えている。並ぶ既知の顔色は柔黒やわぐろい前髪が隠して静かの立つ場所からでは窺えない。ただやはり、今の応酬の後でも口を開かないところを見れば、思うことは大方一緒だ。虹だけが一人、現状を受け入れられないでいる。ちらりと向けた視界の中では少し青い顔色に極彩色の眼が映えて、皮肉。

(こうなってまで……お前はまだこいつらを信じるのか?虹……)

ここで今、静かが向ける虹への改心の願いもまた悲痛だった。

 静かは海シリーズの全員を、全く以って平等に、家族として愛している。彼等は皆ここで人権と身体的な人間性のいくらかを奪われた悲劇の同志。その罪の執刀者である研究員達を嫌う気持ちも、個人差あれど共通した感情だった。しかし、虹はこの研究所へ引き入れられた際にどう洗脳されたのか知らないが、ダストΩオームを大義ある組織であると強く信じ、そしてその正義を否定する静かはじめシリーズの面々へ、度々反抗的な意識を燃やした。これは彼の幼さと前向きな純粋さがもたらしている誤解だと、静かは思う。だからこそ研究者達が彼の気質を利用する魂胆が透けて見える度、腹が立つ。だが、いくら「気付け」と願っても、虹の顔色には未だ怒りの気配は見えず、在るのは自責と言われぬ不安の念。言葉を紡ぎ出せないことの焦燥感だけだった。

「……話が逸れましたが、明日以降の活動の詳細は各自へデータを送ります。確認しておくように」

自身が作り出した沈黙の後、木枯はそんな言葉で話を締めくくった。

 どうやら短いミーティングは終わったらしい。白衣の背中は忙しさを隠さず、足早に電子扉の先の廊下へと姿を消していく。残された者達の顔色が如何程にかんばしくなかろうと、退社の命に逆らうことは出来ないので、次に考えるべきは今日の帰路のことだった。と、そこで静かはハッとする。

 静かと湿りと既知、既に成人し「自身の生活は自己保護」と言い渡されている三人は、研究所の外にそれぞれ居住地があった。だが虹と危難、未成年の二人は研究所の有する敷地内の寮に暮らしを据えていた。今日こんにちに至るまで、解散の際には三人と二人に別れて其々の帰路に着いたものだった。しかし今日に限っては——限っては、という表現には多分な楽観的希望が持ち込まれているが——虹はたった一人で住まいへと帰らねばならない。隣を歩く人がいない現実を、一人その身に受けなければいけないのだ。既知と湿りは既に部屋を後にする足取りだった。

(……さっさと帰った方が良い。でも、虹は……)

目を向けた。虹の身体はその場に細い根を下ろしていた。細く細く。きっと手の差し伸べ方を間違えればすぐにでも千切れて倒れてしまうだろう。まだ小さい肩の揺れる動きの不規則さが、見ていられなかった。

「虹……送ってく。一緒に帰ろうぜ」

二人だけ残った部屋で、選び抜いて差し出したのはその言葉。弱いものと扱われればすぐさま歯を剥く虹は、この時ばかりは何も言わないでいる。ただ蜜蜂に飛び立たれた花のように頷いた。



 暮れていく地面に伸びる影はまるで、まだ帰るなと手を招く人の心の弱さが化けたようなものだ。だから二人並んで歩く凸凹の人達は、決して振り返りはせず前へ往く。静かの手が虹の一回り小柄な手を握り込んだ。一瞬睨み付けた視線も、しかし降り解くことはせず再び前へと向けられる。誰とも擦れ違わない退屈な道が今は優しさだった。

(既知も湿りも、ちょっと薄情っていうか……〝大人〟だな)

棚に上げた思考でも、口に出さなければ悪ではないだろう。静かはそう思う。しかし幼心の潔癖さはそれすら許せないと言う。ならば、その気持ちにだって理解を示してやりたかった。見失った三日月の行方など雲の鈍色は素知らぬ顔で、もう直に二人の歩く影すらも見えなくなりそうな具合。まだ帰りたくないという気持ちすら殺される奴隷に出来ることがあるとは、今は到底思えなかった。

 虹の住む寮が見える。彼と危難にあてがわれた部屋はこの寮の二階、隣同士。きっと今夜寝る時、明日の朝起きる時、これから危難が帰ってくるまでの幾日、欠かさず虹は兄弟のことを考えるだろう。それを思うと静かの中に立つ深い波の流動は大きくなった。

「……おやすみ、虹」

繋がっていた二人の手が離れる。影はもう地面に映らない。静かの青黒い深海の髪は夜闇の中によく溶けて、今、虹の絞り模様の明るさだけが宙に浮く。

「……おやすみ。……ありがとな……」

遠ざかっていく背中が、まるでこのまま足元の闇に滑り落ちて呑まれるのではないかと思うような頼りない体躯が、そう鳴いた。彼が今夜ベッドで抱く感情には、悲哀だとか恐怖だとか、下らなくて名前でなど呼べやしない。

(……お前が頼れる兄ちゃんじゃなくてごめんな、虹……)


 人影が去った後で空になった自身の右手を静かは見やる。思い返すと、沈黙した研究室を出てから此処に至るまで、虹は一度たりとも静かの顔を見なかった。

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