【2-3】不幸は独っい
「…………」
沈黙の道のりは続く。足音は高く、心臓に響くほど明らかに通路を満たしていたが、それよりも最後に交わした言葉だけが静かの脳裏を埋めていた。今彼がしなければいけない覚悟。その意味は歴然。彼にも分かっていた。
「静か」
「準備は良い?」
視線も歩もただ前へ向けたままで既知は聞く。もうすぐそこに目的の場所が訪れることの予兆だった。自身の心の揺れがこの狭い道の中に反響しているように思えて、大丈夫だなんて嘘を吐くことははばかられた。だから、返事は淡い空気の気配だけで消える。その曖昧さを問いたださないのは薄情さか温情か。少々湿ったような空気感。と同時に、彼等に予言を与えるその場所がすでに視界の中に在ることにも気が付いた。
「……あ、」
「ね。相変わらず露骨な実験室だよね」
二人の爪先が向き直る。正面に姿を見せたのはただ大きなガラスが取り付けられた、面会窓というにも少々簡素過ぎるものだった。既知などはすらりと長い背丈をしていたがそれをも優に超える窓から見える光景は、この廊下とも飾り気の無い窓とも何ら変わらず退屈。嘘を覆い隠すためだけの白が塗りたくられた静かなその部屋こそ、
#sと
「……あー、とりあえずは……」
「下」
遠くを探そうと泳ぎ出した視線。それを捕まえるようにガラス壁と黄色い瞳孔の間に割り込んだのは既知の手だった。その色はやけに血色無く見えて、非現実的なライトの光量のせいだろうか。
「下?……って?」
「見な。待っててくれたみたいだよ」
言葉の意味に頭が追い付かないのは自覚していない程に緊張の糸を張り詰めていたからなのか。既知の言葉が、分かるほどに苛立っているのはどんな未来を想像してのことなのか。
「…………アパシィ」
雲を解いたような髪。覗いた眼の、まさに
静かと既知の、今は酷く狭い視野で捉えられた偽物の天使は口を動かした。何か言葉が生まれる気配。それに静かは息を呑む。ガラスに閉じ込められた奴隷がこうも恐ろしいとは想像出来なかった。耳の奥に吸い込まれていく重力が、爆弾のように膨らみ始めた。
——一方、その頃。
研究所中央層。広い業務空間の片隅で膝を抱える虹の存在に気が付く者も、その所在を気に掛けている者も既にいなかった。数日前とは目に見えて違う研究所のヒリついた空気が何度も小柄な少年の耳を切り裂いては血を流させ、用途の分からない大きな機械と壁の隙間にその縮こまった体躯を追いやっている。
(オレには……何も出来ねェのか……?)
(いや……違う!……でも……)
……でも、その続きが一つだって浮かばない。そんな一人相撲すら取れずにはや
海虹は実年齢相応にシリーズ最年少だった。海危難のような類い稀なる思考の才能など当然なく、さすれば彼はただの一五歳。捨て猫のように蹲る姿がよく似合っている今の姿こそ、大人に見せることの出来ない子どもの実態だ。
「おい」
「うわァッ⁉」
あまりに突然、視界を曇らせた人影に飛び出す悲鳴。慌ただしく何かを運ぶ研究員達の足音すら遠くに感じるこの部屋で、油断していた鼓膜は、思いがけず降ってきた誰かの低い声にぐらぐら揺さぶられた。その正体を確かめようと視線を上げた反射の動きは余計に悪手で、重心を崩した身体は後ろへと傾いた。
「うるさい」
そして、それを受け止めるように差し込まれた脚の硬さにくっと背は押され、半端に残っていた空気が噎せ返る。濁った音と共に出ていく不安感やこね繰り回された思考。数回咳込む虹を見下ろす湿りの目元は蜃気楼のように窺えないが、漂う空気は冷めているように思えて仕方なかった。機械装置が作る影の濃さと稼働のバイブレーション。それらも気取って、二人しか居ない空間の硬質さを演出している。
「し、湿り……何してんだよこんなトコで!」
「それはお前の方だろ」
「ぐっ……」
秒針の刻む歩の音はここには無い。今は何時なのだろうとふと虹は考えた。一体どれ程無為な時間を過ごしたのかは彼自身にも分かりはしなかったが、しかしつい今しがた見せていた自分の背中の如何に滑稽であるかについては、彼にでも説明出来ることだった。湿りは手近な椅子を蹴り付けて横へ出し、腰掛ける。腕の無い彼の挙動はいつも強引で効率的だ。
「感電するぞ。早く出て来い」
虹が背にする鉄塊を顎で指すその動きすら最低限。海シリーズというちっぽけな化け物達の頭を務めるためというには、むしろ手に余る風格が彼にはある。ただでさえ落ち込んでいた心を気圧された少年は不必要な抵抗を諦めると、ピリピリと黄色い電波を発する機械から距離を取るように進み出た。立ち上がったことで明るんだ視界と湿りの
「……湿り」
「……ん?」
こんな時だというのに相も変わらず眠たいのか伏せ髪が掛かる
「……何しに来たンだよ……」
「そろそろ退社時間だ。集合場所に」
「退社時間……?こんな時に帰れるワケねェだろ!」
「それを決めるのは俺達じゃない」
噛み付く虚勢と、それを足蹴に突き放すような言葉選び。まさに三文芝居の段取りだ。
「その前に、聞きたいことも一つある」
と、その言葉の後には、彼の纏う空気の匂いが和らいだ。しかし眼前の男が座す椅子の端がキシリと鳴る音に続き、白い影に隠れた両の眼が虹の姿を真っ直ぐに射抜いたので、ついに虹は口を結びその目元に弱気を見せた。何かを責められているような、言葉では他人に伝えられない不安が小さな胸を締め上げる。汗すら流れようとはしなかった。優しい声や言葉が人を安心させるとは限らないもので、ごく陳腐に例えるとするなら虹の今抱いている感覚は、母親におねしょを叱られる前のような、そんな怯え。
「聞きたいこと……」
「あぁ」
悪戯に突き放す素振りだった“父”の声は、今は虹の指先に溶け込むような触感になっていた。柔らかく流動的な相槌と繰り出される言葉。その差は何なのか。湿りが虹へと向ける気持ちは何なのか。
夜が始まろうとしているこの時、一五歳の微睡みかけた思考が正解に辿り着くことはきっと無いだろう。そして次の問いに対しての答えもまた、そうだった。
「お前は危難が仲間だと信じるか?」
……時は進む。
僅かに、二〇分後。再び一室に集められた海シリーズの間に巣食うのはやはりと言うべきか、見慣れた沈黙だった。静か、湿り、既知、そして虹の四人が立ち並ぶ。誰の顔にも安堵や笑みといったものは無い。何かの思案や憂鬱に似た感じだけが少々燻った灰色の床の隙間を埋めている。
「ホント、一日に何回も集まったり散らされたり、ボクらも忙しいよね」
既知が漸く放った冗談の一つも同じように、拾い上げられることなく落ちる。言葉が割れた音で、また部屋は静寂になった。
それに一歩間に合わずドアが開く。走り書きのメモだらけのファイルとタブレットを抱え入ってきた、よく知った研究員の顔を見るでもなく見た静かの眼は曇っている。
「遅れてどうもすみません。あぁ、良かった。全員揃ってますね」
場違いな穏やかさ。明るさを振りかざして嘘っぽい笑顔は形作られる。しかしその言葉を拒むように、全員が目を逸らし口を閉じていた。欠けた月を見回す職員の眼が今は酷く青年達の気持ちを波立たせる。
「さて、大事な話をしましょう。」
職員は言った。
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