【2-2】不幸は独

 無機質な扉が何故か懐かしく感じた。既知きしが籠る監視室、その赤いドアロックのランプを呆然と眺めながら、廊下に立つ影は静かと虹の二つだけだ。深夜に漬け込んだような重い沈黙が彼らの足元を浸していた。虹はもうずっと何も言わない。あの帰り道以来、時折苦しそうに唇を噛んだり拳を握りしめては疲れたように息を吐き、押し黙って何かを睨み続けている。

 静かは密かに彼の心中を推し量って悟った風であった。海虹はがむしゃらに正義感の強い少年だ。自分の行いを正義と信じ、この研究所を正義と信じ、そして仲間を置いて帰ってきた判断をずっと迷っている。自責と不安の念が彼の瞳に膿む極彩色ごくさいしきに影を成す。並び立ちながら何も言えない静かは掛ける言葉を探し出せない自分に対し、同じ自責を抱えて視線を下げていた。

「……」

「……」

無為に過ぎる待機時間と沈黙の重苦しさは比例する。海静かはシリーズの立場上、危難にとっても虹にとっても〝兄〟であると自負している。——最も、そういう扱いを〝弟〟である彼等が望んだことは殆ど無かったが——兄弟を守ってやれない、その現状に走る緊張は、他人が想像するより幾許いくばくも重かった。だがいくら焦ったとて波立つ脳裏には妙案は浮かばない。自分の呼吸が冷静でないことは壁に跳ね返る響きが嫌という程教えてくれた。こんな時、危難きなんならば——と、白昼夢すら過ぎろうかとした静かの耳に突然、解錠の電子音。


「……待たせて悪いんだけど」


目の前の扉から顔を出したのは既知。一〇分ほど一人部屋に立て籠もっていた男の顔色は良くない。彼の黒髪の背に見える無数と呼べるようなモニターが映すのは、どれもがこの街の景色だ。ホワイトの電子ライトが部屋を焼く、その光が足元に漏れていた。

「見付かったのかよ!」

真っ先に食いかかった虹の言葉が、廊下のカーブをなぞって遠くまで伝線していくようだった。それに静かは顔を顰める。虹の気持ちはよく分かる彼だったが、同時に、既知の顔色でその問い掛けへの返答も分かったようなものだった。だから表情の理由は、不安に同情。むしろここで虹の言葉に相対する既知自身の顔色の方が務めて大人でいようとする感じに少しの謝罪を滲ませた、冷静なもののように見えた。

「ううん。見付からない。街中くまなく探したけど、どこにも見当たらないんだよ」

「……ハァ⁉何だよ見付からないって!」

「虹、」

予想通りの展開になった、と思った。敢えて察せる雰囲気を醸して顔を出した既知の、想定出来得る答え。にも拘わらず、虹の怒気は強かった。命に価値の無い海シリーズという立場を背負うには彼は幼過ぎるのだと、少し昔に湿りが言っていた言葉を静かは思い出していた。胸倉を掴まれた既知は一瞬の苦し気な息と共に頭を下げる。既知より幾らも小柄な虹の、しかし見合わず強すぎる力。下手に逆らえば本当に首を締め上げられてしまいそうな腕力と気迫に、大人しく項垂れたその姿勢は確かに模範的対応だったろう。止めようとした静かの声にもやはりと言うべきか反応を示さず、名前通りの眼色に苛立ちを灯した怒声は止まない。

「こういう時見付けんのがオマエの仕事だろ‼」

「そうだね……だから真剣に探したよ。でも見付からないんだ」

「だからッ……」

「俺を締め上げたって危難は見付からないよ。俺より上手くカメラを見られる奴は居ない。虹は臼亥さんに指示を仰ぎに行った方が良いんじゃないの?」

既知が微笑んだ。ビリビリと電気回路が走るような空気の中で、彼の首に噛み付きそうな程の少年の面貌に。静かはこの時瞬間的な虹の迷いを感じ取って不味いと息を飲む。彼が、眼前の優男の顔に拳を打ち付けるか、否かというその迷い。既知の作って見せた表情も決して冷静ではないと悟った静かは、虹がその思案に決断を下すより更に早く判断した。二者の相中に差し込まれた長い袖の広がり。静かの手は既知の身体を押し退けると共に、虹の前に立ちはだかった。左右の違う少年の眼が彼を見上げる。まるで夕立の前だった。その幼さに痛んだ胸に鼻の奥がツンと引き攣っても、今すべきことは泣くことではないのだ。


「っ……う、」


抱き締められた虹の肺が縮む。余った息が漏れた後、語尾に滲んだのは困惑の気色。静かの身体は決して大きくはないはずが、人を抱き締める時だけはそうではなかった。包み込む腕には怒りも同情も無い純たる大きな愛だけ。人の心などに疎い虹の幼稚さにすらそれは響くほどだった。だから、彼の胸を押し退けるのには迷ってしまう。

「虹」

静かが呼ぶ。この男との付き合いももう数か月などではないはずなのに、名前通りだと感じたのはこの時が初めてだった。釣られてか息を飲む。ちらと背後に立つ既知の顔が視界に入れば、その表情には小馬鹿にする作り笑いは姿を消し、少しの羞恥と罪悪感の気配が慎ましやかな感じに映し出されていた。廊下の音が急激に無くなった、その沈黙がむしろ虹の耳には五月蠅かった。呆けたのも数秒。我に返った両目のは少し逸らされて、彼の身体を押し返す。七つも歳の離れた兄は黙ってその手に従った。

「気持ち悪ィ……オレは行くからな!」

相変わらず声量は必要以上に大きく廊下にこだまする。当人は気付いてか知らずか。しかし怒りの覇気は幾らも懐に収めた足取りで、彼は二人へ背を向けて行った。

 静かは更に一つ年上の兄に目を向ける。少しだけ責めた色。肩を竦めて兄は謝った。

「ごめん。俺も冷静じゃ居られないみたい」

それは、卑怯な言い訳だった。少なくとも静かにはそう思えた。彼らの仕事はいつでも彼ら自身の命より重く天秤に乗っている。それでも本当に危篤に陥ったことなどは全く無くて、仲間を喪ったような不安に心を蝕まれるのは今回が初めてだった。だから、虹が怒るのも人間としては正しい拒絶反応。

(……俺たちがちゃんと人間だったら、一緒に怒ってやれたのに)

怒りはきっと全員にある、静かはそう思う。しかしそれを言葉に出すことが出来るか否かは別問題。そして問題の解決も彼等自身が行わなくてはならないのだから、冷静でいなければいけないということが何よりのリアルだった。そう考えた時にふと思い出したのは、危難が居なくなってからの湿りの表情。最も彼等海シリーズを愛すべき〝父〟の横顔に、感情の色はあっただろうか……?

「……ちょっと一服しようよ。それから、提案があるから」

思考を遮った既知の声にハッと静かが顔を上げると、彼の背中は既に休憩室へと向かうようだった。別にそう離れてもいない仲間の背に、静かはやけに慌てた心で後を追っていた。切れた髪の細いやつが一本、地に落ちた。しかしああも心を乱した戦いの名残に、静かは最早気付くこともなく歩を急いだ。



「……ふぅ。ちょっと落ち着いたかな」

「そうだな。……ヤバい時でも水分補給くらいは大事かもね」

 溜息にも似た休息の一呼吸。広い休憩室では反響することもなく壁へと吸い込まれていくようなものだった。使い捨てのコップをゴミ箱へ投げ込んだ二人の間には先程までの緊張は随分薄れている。やはり情緒が芽吹くのにも水で潤った土が良いらしい。

「……それで、これは提案だけどね」

「……おう」

既知が顔を上げた。黒い細髪の隙間に見える瞳も同様に黒いので、コントラストの弱い彼の顔に真意を見抜くのは至難の業だった。しかし息遣いや言葉運びにチラつく幼さと少し子供じみた優しさ。それこそ彼の内面だと、静かは信じて疑わない。

#sナンバーズに、頼ってみるのはどう?」

「……え、」

「ダメ元だけどね。物は試しでさ」

微笑む既知とは対極に、静かの顔は少々の不快と不安を露骨に呈す。

「ダメ?」

「駄目っつーか……俺あいつらあんましなぁ……」


 ——#sシリーズとは、よく言えば彼等海シリーズの上位互換と呼べる、超人的能力を持つ被検シリーズの総称。現実を言えば、彼等より過酷に収容される研究所の奴隷達だった。よりハードな人体実験の結果引き出されたその力は海シリーズのような日常能力の延長とは訳が違う、より崇高で異常的なものだった。故に、世間への露出も人間としての自由も彼等には認められない。#sの一生は実験室の中で。それが、悲劇の能力者達に定められた運命だ。

「……あいつらは、苦手?」

既知が、静かの濁した言葉の先を言い当てる。ブン、と機械音で稼働する休憩室の空調は酷く快適で、現状には何一つ不自由など無いかのように彼等に錯覚させた。

「そう……そうね。苦手。あいつら、俺らのこと嫌うじゃん」

決して責められたわけでもないのに静かは何か言い辛そうな空気を口に含んで、謝罪の言い訳のように言葉を付け足した。既知は勘付いて笑う。きっとその気まずさは、本来彼等と彼等が同類であるから。同じモルモットの同情意識がそうさせるのだろうと悟った。

「分かるよ。でも、アパシィなら欲しい情報をくれるかも。でしょ?」

「……アパシィ……」

既知が持ち出した名前は少年のもの。被験体としてのナンバリングは七〇七番。#sの一人として連なる彼が実験の結果得た力は静かたちが知る中でも最も成功作としての名が高い、「未来視」の能力だった。

 少々考えて、静かも漸く既知の提案の合理性を呑む。あまり頻繁に接触すべきではないと言い付けられている彼等への面会は、様々な意味で気が引けたが、背に腹は代えられない。いつまでもこの部屋のちっぽけな安寧に腰を落ち着けているわけにはいかないのだ。

「……行こうか」

先に既知が部屋を出た。後に続く足取りは決して軽くはなかったが、それでもその背を追う。


 見慣れた長い廊下の白壁を抜けていく、更に先。薄緑の人口灯が天井から照らす道が、彼等へ続く通路だった。両側から挟み込むように、等間隔で壁に取り付けられたカメラは二人がこの研究所の職員であるのかどうかを見極めるためにその姿を追う。何度通っても嫌な緊張を覚えさせるレッドカーペットだ。もし何かの手違いで自身が「侵入者」と判定されてしまったら……鉛玉のあられはいくら彼の神足といえど躱し得ないだろう。そんな想像が静かの背筋を青い手で撫で上げるのだった。

「静か」

夢想に飛びかけた彼を既知が呼んだ。一歩先を歩く黒い髪。今は緑の光で少し汚れた色に見えた。

「この先俺たちが危難を見付けるなら、アパシィはその場所を知ってるはず。でももし未来が見えるアパシィが、危難の居場所について何も知らないと言ったら……」

語る声の反響は増す。反して通路は少しずつ狭くなる。並び立つことは出来ない路幅、見えるのはもう彼の背中だけだった。不謹慎な言葉を丁寧に紡ぐその顔色は、窺えない。

「……そういうことだから。覚悟だけはしておいて」

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