【2-1】不幸

 傾いてきた時間の光に、人影がアスファルトに焼き付く。今日というこの日を誰も忘れられないようにと遺っていく昼の残り香。緊張のうずは、闇のようなそれに飲み込まれていきながら尚も濃くなっていく。静かが固まった肺から慎重に息を抜くことの漫然まんぜんと延びる音の感じは、たかが一秒を永遠のように感じさせた。

(しかし……どうしたもんかな……)

低い姿勢のまま留まってはいても静かの思考は休まない。次に打つ一手を、というより、現状から脱するために取るべき行動を懸命にシミュレートしている。

(こんなよく分かんねぇ奴を相手にタイマンじゃ分が悪過ぎる……そもそも、こっちに犯罪者がいるなら既知きしと虹の方はどうなってんだ?)

(……まずは合流するしかない。こんなとこでやむを得ず自害、なんて御免だぜ。)


 体勢をそのままに整え待っていたのは、確実に敵の動きを捉えて回避するためだ。しかし、うずまきの面はふらふらと、時折不規則に身体を揺らす不気味な挙動を見せるのみで次の一手には出ない。敵の狙いが何なのか、それをじっくりと思考して測り取るだけの余裕は静かに無かった。


(脅威は……腕だ)


計り知れない力を持つ敵対的な動物に迂闊うかつに近付くことが吉か凶か。静かの見立てでは間違いなく凶だった。物体を飲み込む強力なその力は、ある程度の距離があった故にかわせたものである。回避動作の取れない近距離で不気味な引力に襲われた時どうなるか。それはあまり思い描きたくはない愉快な空想だろう。だからこそ、狙うべき場所が分かってはいても静かから動くことは出来なかった。

 せめて眼前の敵が次の行動を起こしてくれれば、隙も生まれる。静かの読みによる願いは空虚かと思われたが、ふいに腕をもたげる動きでそれは叶えられた。

「来た……っ!」

願った通りに犯罪者の手はうずまきを描き出す。先程と同じ、絶体絶命の攻撃。静かはを待っていた。コピー&ペーストが出来る程ハイテクではないらしい奴は毎度ご丁寧に、その憎らしい図形を新しく描き出している。そしてその動作の最中こそが、確実に静かが自由な行動を起こせる〝隙〟だった。

 静かは腕に取り付けたナイフを作動させた時とまるで同じように、再びその腕を地面へ叩き付ける。少々迷って定めた方向で振り降ろされた影がコンクリートの具合の悪い凹凸と重なると、ギン、と金属が爆ぜる音の心地良さ。特別に頑丈なはずの切っ先は腕に取り付けたハンドルと解離して真っ二つだ。自身で起こした小気味良い行動に静かは内心で感嘆する。実のところ、彼自身この試みは初めてのことだったので、成功するのかどうかという賭けが含まれていた。それでもこの危機一髪の状況に試みたのは、現状に至る道中危難が彼に耳打ったことが記憶に新しく残っていたから。


——このナイフは基本どうやっても壊れはしないが、決まった角度でまばらな衝撃を与えれば無理矢理折ることが出来る。

——何それ、そんなのあんの?

——あぁ。お前がいつも採血される時の腕の角度、あれくらいだ。


(……採血の時の角度なんて……とは思ったけど、案外感覚で覚えてるもんだな。)

道を違え今弟はかたわらに居ないが、その先で自分を救ってくれたのが彼の言葉だというのは案外、気持ちが良かった。静かは折れて飛び上がった刃先を逃さないように右手で掴み取る。改造人間の彼でも皮膚は人間なもので血が出たが、痛みは脳まで届かなかった。

 ひゅっ。と、風を切る音の後押しを受けて、一層鋭く飛び出した抜き身の刃。静かの血を纏った得物が矢の如く迫る先は犯罪者の心臓ではなく、今静かを狙って蠢く渦の中心だ。生まれてすぐのブラックホールは刃の輝く鈍色と鮮血を吸い取ると一瞬、委縮するように脈打ったかのように見え、そして瞬く間にその体積を失っていく。静かは既に飛び出していた。得体の知れないうずまきを相手には出来ないが、実体ある人型なら、多少化け物であろうが自身と大差無いのだからこの手でどうにか出来ると、彼は読んだ。

 既に差し迫った眼前。近距離の網膜で形作る奇形の面はますます吐き気を催すような不快、そのものだった。しかし静かの手がまだ届かない内に、犯罪者の身は一歩後へ退く。静かに向いていたのは〝背〟だった。面を隠したその角度ならば、少しばかり細すぎるような四肢ではあるが敵はただの人間のように映った。その姿に何らかの違和感を覚える。

(……背中?)

相対する敵に迫られて背を向け逃げるのはまず愚行だろう。静かの僅かばかりの反撃に冷静さを欠いたようならば、そんな化け物の成り損ないが今日まで偉大な研究者達の手から逃げおおせて来れた道理が無い。そもそも対面の姿勢から飛び込んだ静かを受け流すのには、わざわざ背を向ける方が不自然だった。違和感。その正体が即座に理解できなかったのはひとえに、敵を理解していなかった故の落ち度だ。一瞬静かの眼に、黒い染みが映り込む。それは眼下。たった今犯罪者が立っていた、地面にだ。

「……下⁉そんなのもアリかよ‼」

駆けこんだ速度。気付いてから罠までの距離。強靭に再構築された静かの脚と身体能力。勘。壊れた住宅地の風景に満ちたあらゆる状況をかんがみて、この時静かが片足で推進力の方向を変えることが出来たのは、偶然に程近い運命だったのだろう。

「…ッあぁ!」

転がり込むように身体を小さく、出来るだけそのうずまきの真上に引き込む力に触れないようにと無理矢理に身体を縮めながら静かは斜め前方、犯罪者と遠くすれ違うようにして道の先に身体を押し込んだ。受け身を取るほどの余裕は無かった。強かに打ち付けた上半身の骨が少々嫌な感じに軋んだが、ヒビには届いていないと静かは瞬時に確信する。性能の良い仕事着の温情で痛みはさして無く、もう一度トップスピードで駆け込むのに十分なバイタルだった。

 まんまと敵の罠に嵌められかけた静かの口元は、重畳ちょうじょうだ、と笑った。姿勢は整えないまま、転がり込んだ地面から静かはそのままに走り出す。それは彼の脚の強引な力によって叶う行動。爪先の向く方は、ここに至るために走ってきた方向の先。つまり、犯罪者に背を向ける方だ。

 状況と速さ、そのどちらもが皮肉にもまさに脱兎の如く。続けて奴が攻撃を向けて来ようともその射程を速度で振り切る自信が静かにはあった。それでも振り返って見たのは恐怖が故なのかもしれない。景色の速度と共に遠退く犯罪者の姿は意外にも、何のアクションを起こす素振りも無い棒立ちだった。静かの速度に諦めた、というには往生際が良すぎて、やはり違和感がこびり付く。


「オイル切れか?メンテはこまめにやっとけって」


静かは冗談に嗤ったが、滲み出る虚勢はいくら速く駆けようとも振り落とせなかった。



 殆どの直線と幾回いくかいかの曲がり角。静かの脚は生きている人間ならば誰も並ぶことの出来ない速度でただただ目的地まで回転を続けた。意外にも、何の妨害も無く道は進む。本来の目的でもあった仲間との合流はもう目と鼻の先だった。そのままの脚では仲間の姿も見つけられないので、静かは器用にギアを落としていく。流れるビルや家々の輪郭が多少見えてきた辺りで、眼前に漸く見付けたかった人影と出会った。

 かい既知が片手を上げる。

「静か、止まって」

号令は見事で、静かが足を止めたところで丁度既知と、そして隣で不機嫌そうに腕を組む虹の目の前に立った。

「何してんの?何してた?」

「静かを待ってたんだよ。……そっちは何を相手してたわけ?」

「は?何って、犯罪者だよ!噂に聞くさぁ。マジでおっかなかったぜ」

強堅きょうけんな脚にも疲れは見えて、そしてそれより更に肺への負担が蓄積してか、静かはやっと乱れてきた呼吸と心拍数をながら既知に答える。

「そう……じゃあ危難の言う通り、犯罪者は複数人いるってことだね」

「ふ、げほっ!は……複数人?」

口元に手を当て、咳込む仲間にもお構いなしと言った風体で既知は思案の言葉を漏らす。それに一層深く息を吸ったのは静かの失敗だ。話の意味を考えるにも、今は酸素が足りない。犯罪者は複数人。それは研究員達からも聞かされたことの無い可能性で、しかし確かに今回の状況を考えれば否定出来ないのもまた事実。

「俺たちのところにも出たんだよ。出たと言っても殆ど対面はしてないけど。あの変なうずまきは俺たちにも扱いようが無くってさ。静かもそうだろうけど、逃げられちゃった」

既知が伝える説明の間に漸く落ち着いた呼吸で、辺りは途端に静寂に落ちたように思えた。

「……逃げられたっていうか、俺が逃げて来たって感じではあるけどね。悔しいが。……もいっこ気になるんだけど、危難はどこにいんの」

「追っていったよ」

この質問の時、既知の隣で黙り込んでいた虹が初めて肩を跳ねさせた。静かの視力ではそこまでは捉えられず、それよりも既知の答えだけが脳に響いていた。

「追ったって?一人でか?無茶だろ!何でお前らも行かなかったんだよ!」

仲間の行く身を案じた静かの声は自然と荒れ立っていたが、そんな反応も想定内だと言わんばかりに既知は穏やかさを保った声で返す。

「足手纏いだったんだよ。危難が一番犯罪者の行動に対応出来てた。それに危難が、静かの方がヤバいから待っててやれって言ったんだ。確かに、俺らがここに居なかったら、静かは相当焦っただろ?」

一つ一つ丁寧に、子供に言い聞かせるかのように優しい声色のニュアンスで、静かは既知の呆れを察した。それが逆に混乱するままの頭を冷静にさせる。ふっと、静かはここで漸く息を吐くことが出来た。

「……そうか。……分かったよ。……じゃあ、これから危難追いかけんの?」

「いいや。研究所に戻るんだ」

それは少し離れて、三人が立つ道の脇の方から聞こえた。

 静かの心臓は、会話に突然差し込まれた言葉に瞬間的に硬くなったが、脳の始末がそこに追いつくと、再び息を吐く。

「湿り?」

緊張感に掻き消されて聞こえなかったブーツの音が漸く耳に入ってくる。冬でもないのに揺れるマフラーの水色が、今日は何故かやたらに冷たい。

「何で帰るんだよ!危難はどうすんだ!」

湿りの無表情に噛み付いたのは虹。押し黙っていた先程までの表情と、今の純粋な怒りの色は違っていた。

「研究所からの命令だ。お前たちは逆らえないよ。……危難がどこに居るかも分からないし、まずは既知が危難の居場所を見つけ出すのが先だ」

先程まで三人の中で漂っていた、行き場の無い不安定な感じと焦燥。湿りの言葉にその気配は全く無く、音はどこまでもだった。虹が何か言い掛けるのを既知が制す。その動きで、静かも反論の言葉は出せなかった。

「分かったよ。帰ろう」

返答に対し湿りは、満足げでもなく、威圧でもなく。ただ冷淡に頷いた。


 いびつな彼らは一つ頭を欠き、更に歪になって帰路を急いだ。道中湿りは、見回りルートがこの場所と真反対だった故に加勢には間に合わなかったと、短く語った。それが静かの心には小骨のように刺さる。犯罪者を相手にした時、何度かに感じたのと同じ違和感。隣を走る肩を信じられないことが、今不安定な彼にはあまりにも酷だった。

 今日は四日月が白く輝いている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る