【1-4】人の難局は神の好機

 「半月」


その名前はほとんど、海静かいしずかという被検体を管理している研究所の人間が識別名称として用いるのみの呼び名だった。静か本人が誰かにそう自身を紹介したことなど無い。同じように月を背負う仲間たち——他海シリーズの面々が、戯れのようにそう呼んだ記憶すら、僅かばかりのものだった。明らかに初めて聞く声で呼ばれたそれ。緊張の熱で焼けただれたようなアスファルトの悪臭。静かは吐き気を催していた。

「犯罪者……か?お前、」

間抜けな質問だった。そうだ、と頷く悪人などいるだろうか。「バカか俺は」と静かが脳内でつまらない反省、或いは後悔をしたのはただ一秒の出来事だ。

 眼前。うずまき模様のへばりついたグロテスクな仮面は揺らめき立つ空気の気怠さが巻きついて不定形に見える。不規則な凹凸の模様が所々に動く、まるで生きているかのようなその感じは錯覚か?姿勢を低くしたまま目の前の異物を見上げる静かには、やけにその体躯が大きく見えて仕方ない。左胸がいくらも警鐘を鳴らす。気持ち悪い。この吐き気と拍動の理由は、本当に警戒の本能だけなのだろうか。

 「犯罪者」はおもむろに手を伸ばす。差し出された指一本。静かの視線は言わずもがなそこに釘づけになっていた。動くべきだ、という鍛えられた冷静な思考回路すら心臓の爆音が掻き消してしまう。海静かは動けない。ただ、仮面の下から伸ばされた不気味に細すぎる腕に捉えられたまま息を飲んでいる。


「おいで」


そう言った。声は少年のそれに聞こえた。華奢な指先は繊細なワルツを踊るような動きで何かを描き出そうとしていた。置かれた空の位置を中心に回りだす。左に、右に?

(あ……うずまきだ……)

残されていく軌跡を目で辿っていればじきに気付いたその図形の正体。否。はっきりと実際に、その腕が辿った道筋は。宙に吊り下げられた嘘のような赤黒いうずまき。優しい光を湛えていた三叉路さんさろはどこへってしまったのだろう。ただ今は、その不気味なオブジェだけが黒い影の色で光っていた。そして犯罪者は腕を下ろす。だらりと、酷くだらしない挙動は研ぎ澄まされた過敏な神経には永遠のように感じられる。だがその先、次の刹那。取り残されたうずまきの中心が一度あぶく立ったかのように見えたその、瞬刻しゅんこく

「……っあ⁉」

短な悲鳴を上げたのは静かだった。焼けた地面に張り付いていた脚はようやく時間を取り戻したかのように動き出す。蹴りつけるアスファルトの衝撃で、静かはうずまきと自身を結ぶ直線上から身を浮かした。すんでのところ、今しがた彼の残像があったその場所に襲い掛かったのは、だった。宙に残る静かの細髪の隙間へ掠めてすり抜けたのは植木鉢。人が持ち上げるにも容易ではない重量と飛び込んできた速度を風の音で悟った静かは、同時に、今避けられず脳天で受け止めていれば首など簡単に砕けたであろうことも理解した。目の前に立ちはだかった「犯罪者」は生き物一つを殺すことに躊躇ちゅうちょは無いのだとも。厄介だ。そして危険である。平常の静かだったならば、この程度の危機に対し抱く感想はそれだけだろう。研究者達の施した実に素敵な治療のおかげで既に人などではない彼にして、その心はよく響くさやかな声には意外な程に乾いている。

 だが今日は違った。心音は今もなお狭い左胸の中ピッチを上げている。たかが今の一瞬死の危険に触れたくらいで?彼の動揺は、金色の瞳孔の揺らぎにありありと表れていた。息の荒さは首を振って誤魔化して、視線を上げる。

「はっ……?」

思いがけず肺から漏れた酸素の残留物はぎりぎりのところで声にはならなかった。静かの視線が再び犯罪者の前に組み伏せられる。正しくはその顔のすぐ先、描かれた渦の中心。今しがた彼の頭部を撃ち抜こうとしていた巨大な弾丸がうずまきの中心にめり込み、少しずつ飲み込まれていく異様な光景を彼は視ていた。


——奴らが描いたうずまきは、物を吸い込む機能があるようです。

——物を吸い込む機能って。掃除機かよ。

——えぇ。ある程度大きな物を一つ吸い込むと壊れる掃除機ですよ。


耳骨の裏で、残響のように思い出された懐かしい声は感じの良い研究員、木枯こがらしむくろのものだった。実験室の片隅、もう随分前に聞かされた情報共有が今になってこんなにも重要になるとは。軽く聞き流した日の自分に溜息を吐きたい気分だった。実際には、緊張に委縮する肺からは最早無駄な酸素など一つも漏らせなかったが。

 間抜けに浮かんでいた植木鉢のシルエットが完全に呑まれて消えると、うずまきは自身もその中心点に吸い込まれるようにして消えた。宙には跡形も残さず。滞留する不気味な温度だけが今はそこに在った。


(ポンコツ掃除機がよ……‼)


内心に悪態を吐き捨てたが、次の瞬間には再び犯罪者の仮面の下から伸びる指がこちらを向いていることに気付く。またか、と次の逃げ道を探そうとした途端に奴の指は下を向いた。腕を下ろしたのだ。

——何故?

静かの意識は、今彼が思っているそれ以上に犯罪者の起こす一挙手一投足に支配されていた。即ち冷静な判断力というもの、彼の命綱一本を失ったことを意味する。一度の抜かりが命取りになるこの状況で、静かは既に敵の攻撃を見落としたのだ。

「⁉——‼」

思わず吐く怒号。それは、自身の長い髪が、頭が、服の裾が急激に何かに向かって引き摺られる感覚によって理解した事実だった。静かの反応は本来取るべきだった回避行動から数秒遅い。かわす動き、どうしても敵から距離を取らざるを得ない攻撃、どちらもが今奴に追撃の余地を与えてしまっているのだということは理解していた。しかしそれでも静かは避けざるを得ない。未知の力。人智を超えるあの闇に呑まれてどうなるかなど、試す度胸は無いのだから。

「クソっ……!」

再び静かは地面に伏せる。踏み留まろうとする脚の強靭な筋力と、危機に気付いてから行動を起こすまでの速さは流石のものだ。しかし手を縋らせる先も無いこの場所で、地を踏みしめて留まり続けるには無理がある。何よりここで静かが不利だったのは、重く長い、艶やかな彼のしだれ髪。ちょっとやそっとの風では巻き上がることなど無い彼自慢の長髪は、強烈な引力に煽られ、頭皮、首全体に耐え難い負荷を与えていた。苦痛と苦境の焦りに静かは犯罪者の方へ眼を向ける。グロい仮面の顔。細い肢体。見上げる角度のせいかは分からないが、そいつには全く少しも動きが無いように見えた。圧倒する状況への興奮も、此方への憎しみも敵意も。身体や姿勢にそれらは一つも表れない。ただ、静観しているというよりももっと、まるで死体がそこに立ち尽くしているようであった。

「っ……ああ!気持ち悪ぃなぁ‼」

吸い込まれる空気が歪む音の甲高くひずんだ感じが、耳の中を掻き混ぜられているようだった。それを破るように静かは声を張り上げ、そして続けて自身の右腕を力一杯地面へと叩きつけた。片腕を自傷的に圧し折るかのような動き。硬くささくれ立ったコンクリートと骨のぶつかる衝撃に、鳴り響いたのは人間の芯が砕ける軽やかで虚しい音——ではなかった。

 カシャンっ、と金属が迫り出すような高音が住宅地の壁に幾重にもぶつかって反響する。静かは叩き下ろした右腕を、今度は素早く振り上げる。その顔に痛みは無いようだった。腕の軌跡が静かの長い髪の影と交わる。よく見ればそのシルエットには手首の辺りに何か不自然なものが突き出していたが、飛び出ているのは骨ではない。刻々と傾く光が明るみにして、温度無く銀色に反射したそれはナイフだった。鋭く研がれたそれが斬りつけるのに音はしない。静かの髪の先、数十センチ程が綺麗に解離かいりして離れていく。分厚い髪の毛の束は彼の身体を引っ張るうずまきの中心に飛び込んで、先程の植木鉢よりも幾分早くその中に姿を消す。同時に引力は消える。うずまきは、姿を失っていた。静かの狙った通りだった。


(やっぱりある程度のものを吸わせれば消えるんだ。生き残る手段は、……結構ある。)


思考の何割かには徐々に冷静さが戻り始めていた。うずまきの顔と遭逢したその時程の恐怖も今は無い。代わりとばかりに彼の平静を乱すのは、今度は火が立つように煮える憤怒だった。

「……俺の髪は美味かったか?なぁ」

静かは明確に、犯罪者に向けて言葉を投げた。その語り口は笑い掛けるようなニュアンスではあったが、愉快さなどは含んでいない。私的かつ強烈な怒りを隠す気すら無いようだった。静かは常人ならば手入れの行き届かないような長い髪が、浅夜の色に波打つ艶を湛えて居る様を誇りに思っている。それは彼の努力の証拠。彼に言わせれば「いつか出逢う運命の人」のために大切に手を掛けた、一種のおまもりでありアイデンティティであるのだ。

 生き残るためにそれしかないと、生存本能に捲し立てられ咄嗟に切り捨てた髪の先。鋭利な刃で施した切り口は、とは言っても彼が手入れしていた元の状態と比べれば、酷く毛先が荒れ立っていた。許しておけない。これは静かにとって、自身の命を狙われることなどよりよっぽど頭に血を上らせる出来事だったようだ。相変わらず目の前に佇む化け物が彼の言葉に返した反応はと言えば、僅かにその頭部を傾ける素振りだけだった。それは首を傾げるようにも見えたし、静かの言葉を嗤っているようにも見ることが出来る。今の静かの眼に強く感じられたのは後者の意味。ピリリとした緊張感は、よもや怒りだけでないだろう。彼の心の波を宥めるのか煽るのか、ぬるい風が緩慢に地面を撫でていく。そこに千切れた髪が一本流されて消えた。静かの頬に目元から一つ伝った雫は、汗。


「……化け物が……」

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