【1-3】人難は神の機

 午後の陽光は、しずかの瞳には強すぎる。濁りの無い純粋な白目に浮かぶ欠けた月にような色の瞳孔。半月の名を冠する彼が生まれながらに持つその特別な造形は、神の皮肉でなければ運命なのか。骨の芯にロマンスという単語を刻み込んだような思想を持つ静か自身に言わせれば、答えは間違いなく後者だろう。黒みの深い青色の髪。月のような瞳。ビル群の押し寄せる風景の中歩く彼の姿は、まさしく昼を駆ける夜のその姿。そんな風に言い表そうとするには、彼らの立ち位置は少々陰りすぎているのだろうが。


 「異常なーし」

手元にある地図の一角に赤い印を付けて、静かの陽気な声が響く。彼の声は太陽に負けんばかり、のような強く光る色ではなく、もっと爽やかに、駆け抜ける春嵐のような陽気さをって光っていた。

「あと三区画回れば終わりだ」

 隣に立ち並ぶ赤い髪の少年は危難きなん。静かよりいくつも年下であろう彼の声は、しかし遥かに豊かな落ち着きと含みを感じさせる。それは彼の知性が生み出す代物でもあり、また高い知性から来る豊かな人間性の滲んだものでもあった。

 二人の男が闊歩かっぽするのは、彼らの出発点である研究所から既にやや離れた街の中。研究所が位置する栄えた地点を都心と言うのならば、今彼らのいる現在地点は郊外に近い場所だった。夜ならば人口は多いが、このような日中はその多くが働きに出ているせいで人気も少なく、建物の並ぶ景色に反して蔓延はびこる静けさが妙に心地悪い。普段、静かを筆頭とする彼ら「かいシリーズ」が見回り業務で立ち入るのはこのような場所ではなく、むしろ研究所近辺の都心部だった。当然トラブルというのは人の多いところで生み出されるのが定石であるし、それに対処するのが彼らの見回りの目的であるのだ。なればこそ普段の見回り業務は的を射ていると言えるのだが、何故今日に限っては、彼らがこのはずれまで足を運んでいるのか。無論、その裏には毅然とした理由があるのだが。


 ふと、軽快な足取りで前をく静かが狭い路地の前で足を止めたので、続いて危難もそれに倣う。

「どうした」

危難の問い掛けに静かは即答しない。暫し視線は、その路地の入口から続く地面の更に遠くの方へと向けられていた。沈黙は数秒続いたが、危難は急かすでもなく、ただ必要十分な程度の緊張感を守ったまま静かの横顔へ視線を注いだ。そのうち静かは諦めたように、または納得したように肩を落として危難へ笑った。

「……じゃないわ、やっぱ。悪ぃ、見間違え」

「そうか」

静かの言葉を聞いたうえで、危難はつい今まで静かが睨んでいた方角を見やる。昼間だというのに薄暗く影の落ちた狭い路地には何があるのか、何も無いのか。輪郭を曖昧にする光と影のコントラストが悪戯し、確かに凝視しなければそれは判断がつかなかった。

 静かが探していた。それこそが今日この場所に彼らが足を運ばなければならなかった理由。そして研究所が排除したいと強く願っている、大きな問題の根源だった。「犯罪者」と呼ばれるその者たちの得体の知れぬ痕跡。静かは今朝既知から見せられたカメラ越しの赤黒く泡立つその模様の印象を再び思い出していた。

「探したところで、もう殆ど消えている」

今日の相棒は根拠も無いはずなのに無責任に言う。しかし静かの中で彼の言葉は「おおよそ常に正しいもの」の一つとしてリストアップされていた。静かには計り知れないほどよく考える脳味噌を持つ彼。だから、午後の青空に放たれた断定は残酷にも信用に値した。


 海危難という人は人と同じくして幼く生まれ、それにして天才という罪を背負わされ、理解されない孤独と理解出来ない孤独の只中にいつも一人立っていた。天才に寄り添える者などいない。幾星霜の時代の中でも退屈すぎるほど、ありふれて当然の事実。危難の孤独の穴にはまるピースはこの世の中には無いということは、彼のたかだか十五年の短い生ですら確信に至れる程に事実なのだった。

 それでもこの賢いモルモットは巣の中での走り方を熟知している。鋭いのは見た目や言葉、だけではない。むしろ彼の聴覚に飛び込む風の音の方が幾分も鋭利だ。

「静か」

「ん?」


「……あったぞ。だ」


言うが早いか危難は路地に飛び込むように走り出す。彼の耳にしか聞こえない、空気の歪み。怪しい息遣い。何かと何かが擦れ、割れる音。遠くと近くの雑音を聞き分けながらもうじきに、賢いモルモットは自分の行き先を定めた。しかし、同胞の言葉に弾かれたように後を追って駆ける静かの表情は残念、未だ理解に及ばずといった具合だ。

「出たってこと⁉犯罪者が⁉」

「あぁ」

「何処にだよ⁉」

飛び出したのが数秒遅かったのは静かの方だが、彼は既に危難の横に並び、忙しない速度で脚を走らせながらもまだ余裕綽々の顔色で問い掛ける。路地の景色を流れていく二つの影はひずんでいる。長すぎる髪の余韻のせいで、二人は一人と見紛うように繋がっていた。ほんの僅かに一瞬だけ、危難の視線はその重なる兄と自分の影に落とされた。

「電波塔跡地の方だ。ここからなら、二手に別れた方が良い」

「えぇ⁉……何でわざわざ、」

飲み込みかけた提案の小骨が喉に引っ掛かり静かは痛みに声を上げるが、危難の目は答える気も無いとばかり既に前へ向いていた。言うまでもなく直に解ると、当然その確信を以ってのことだ。


キーーーーーーン。


と、二人の耳をつんざいた音。不快と不安を煽る人魚の悲鳴じみた高音に、駆ける動きには僅かにブレーキが掛かった。聞いたことのあるその音。海シリーズのみが放つ、救難信号だった。

「き、」

既知きしと虹だ。犯罪者と対峙している」

言い放って危難が足を止めた。妙に微睡む光で輪郭も溶けるような景色の三叉路。急ブレーキであったにも関わらず静かは器用に地面を踏み込みそれに応じたが、むしろ急ぐべきこの場で、何故彼が止まったのかその理由がわからず無意識に視線は責めていた。言葉で問われるのを制すように先に口を開くのは危難だ。

「ここで二手に別れる。犯罪者の力は特殊だ。不意打ちが良い」

そう言う端的な表現は、彼が彼自身よりいくらも愚鈍な他人を気遣って使う言葉だった。伝えたい想いより下らない自我より、一先ず必要なことを理解させてやる。不器用すぎる愛情だ。そして誰より愛に飢えて乾いた心を持つが故に他人よりいくらも過敏にその不器用を理解することが出来るのが、静かという男だった。

 だから、海危難は海静かという家族を愛している。


 「……分かった」

静かは頷く。今しがた彼に向けた眼を反省しながら、一つ頷く。危難はその動きだけ眼に捉えると満足したように背を向ける。既に決めた行き先に向けて足を向けた。静かはまだ走り出さない。


「気を付けろよ」


危難が言葉を残したのはそこまで。すぐさま速度を上げた彼の姿はもう違う分かれ道に消えた。弟の置いていった言葉の余韻まで耳に拾い上げてようやく静かも走り出す。しかしその加速は、見送った危難のそれより圧倒的だった。

 静かの視界の端々を景色は流れるが、どんな何が広がっているかなど彼には見えていなかった。視力や脳のキャパシティー。そういったものを超えて独走する彼の脚は、地面の石や落ちた葉、積もる塵などを踏むことは無い。速度の生み出す圧力にそんなものは容易く吹き飛ばされ、彼の下には何も残らないからだ。横目に映る溶けた不定形の景色は、緑、灰色。救難信号を打った仲間の身を案じる彼を安心させるような色はここには無いようだった。

(くそっ……急げ)

心も足もはやるが景色はまだ灰色。目的の場所へ、開けた場所を探すがそれもまだ。静かの往く道は、常人なら走りで駆け抜けようとは考えない遠回りだった。しかし道の遠いか近いかなどは彼の風を切る勢いの前には全く問題にならず、距離は無いも同然。だからこそ気が急いた。もっと速くと。

 また一つ石を蹴り飛ばす。大粒のそれがコンクリートに弾かれて割れる音は、しなかった。


とぷん。


そんな音がしたような気がした。風圧に聴力を奪われて疾る静かには、ちょっとやそっとの環境音など届くはずもない。だから、全速力にも届こうかというほど走っている最中にそんな音を聞いたのは生まれて初めてだった。静かは足を止める。一瞬の漠然とした疑問が今じわじわと、経験から来る反射的な違和感としてハッキリと形を成し始めていた。

 今度は足ではなく眼球を動かす。見渡して、辺りを探した。それは彼の勘だったのだろうか。あるはずもないが間違いなくあると、そう思ったのはただ都合のいい想像か。どれほど駆け抜けたろうか分らぬほどの速度を出していたにも関わらず息も上がっていなかった彼の呼吸。今、ある一点を捉えてそれが乱れた。上がる。息が上がる。鈍い赤黒の泡立つうずまきにゆっくりと沈んでいく大粒の石を捉えた彼の眼は、哀れなほどぐらぐら揺れていた。


「見いつけた」


 声は、ごく小さかった。しかし緊張に張り詰めた彼の意識には絶叫という程に激しくその一言が反響して、彼は咄嗟に体を捻って低く数メートルも地面を避ける。視界に入った正体は、姿が見えども変わらず、恐怖の姿をしていた。

 出鱈目に飛び出した、或いは落ち窪んだ大小いくつものうずまき。それがびっしりと集まって吐き気を催す不埒な模様を描いていた。一瞬顔かと思われたそれはよく見れば大きなお面のようで、下に続く真っ当な人間の体は少年少女のように華奢で力ない。そのアンバランスさは余計に気味が悪かった。

 静かがそれを怖れたのは、不気味な外見や生命の危機、今自分が目指していた場所で仲間と対峙しているはずの存在が何故か目の前に現れたという不可解さ故。それだけではなかった。何かがある。眼前の存在は、静かをもっと根本的に脅かす何かを持っていた。足が竦んで脳が痺れる。ふらふら揺れるうずまきは、何か笑っているように思えた。


「半月」


うずまきは呼んだ。彼の名だった。

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