【1-2】人は神の機

 微睡まどろみの終わりとは、甘白あまじろい光に満たされる感覚で人に幸せの錯覚を見せる。その夢の中に在ったのが雑念であっても記憶の反芻はんすうであっても、その後が退屈に命を消費するための時間だけだとしても、人は覚醒の瞬間を愛してやまない。海湿かいしめりは、目覚めの中にいつも幼い日の自分を垣間見た。両腕を捨てたことを責める、幼過ぎるあの頃の自分が──


「湿りパパ〜〜」


パチリと開く目。外敵を排そうとする本能に焚き付けられ僅かに跳ねた身体。突然微睡から身を起こした湿りの白濁の瞳に貫かれ、海静かいしずかは月色の瞳孔が揺らがせる。緩い弧線状に伸びていた口元を引き攣らせ、彼の顔を覗き込む姿勢のまま秒針に刺し留められたかのような短い悲鳴を絞り出した。

「目ぇ怖いよパパ……」

恐怖とおどけのどちらが本心か。静かは湿りの座す椅子の肘掛けから手を離し一歩距離をとった。

 振り掛けられる言葉は湿りの寝起きの耳に、たださざめきとして受け入れられた。数回の瞬き、その雲色の睫毛が立てる音と静かの声は、湿りの頭の中で雨水と土汚れのように混じり合う。

 「パパ」という呼び掛けは彼等の戸籍上の繋がりを表していた。海のナンバリングを持つ五人は、実際には一滴の血も交わらなかったが、被験体としての管理を容易にするための一つの工夫としてその戸籍を束ねられていた。誰一人、本当の家族との繋がりを保つことは許されていない。形式的に湿りは彼等の父という役割を担っていたが、その呼び方を好んで用いるのは静かだけであった。

「……おはよう」

ようやく夢の感触を手放して、湿りは答えた。腕が無いにも関わらず器用に椅子から足を下ろす姿に安堵したのか笑顔を戻した静かは、彼の髪を整えてやる。


 音も色も無い部屋。上質だが感動の無いデザインをしたソファを一瞥した湿りは、続いて静かの身体を上から下へ目で辿る。

「メンテナンスは終わった?」

問いに、息子は笑い掛けた調子のまま答える。しかし口を開いた先には微かに溜息を誤魔化した気配があった。

「おー、まぁね。いつも通り何されたのかはよくわかんないけど。痺れは無くなった」

「そう」

湿りが視界の端に捉えた実験室のランプはしおらしい顔に戻っていた。近くに臼亥うすい既知きしもいないことを認め、賢い寝坊常習犯はそれだけで状況を悟る。

「待ってたんだね」

「そうだよ〜。お前を置いて行くわけにも行かねぇしさ?多分皆はもう始めちゃってるぜー」

静かはぼやきながら、臼亥に渡されたファイルを差し出す。湿りが受け取ったそれをめくっていく間、ジリジリと、肌に染み付くような時間が部屋を支配していた。周囲で作業をする職員達は一見全くこちらに関心など無さそうな態度で、二人の挙動を一つ一つ監視している。


(全員殺してやりたい……)


静かが退屈に思い浮かべるその思考は取り立てて攻撃的な精神状態などではなくて、自分達を支配する人間へのただ惰性的な嫌悪感の形だった。試験管のぶつかる音。紙が擦れる音。冷たい人間の気配が立ち尽くしたままの静かを襲うので、目眩がした。湿りのマフラーの隙間、うなじに覗いたタトゥーはまさしく脱獄犯の手錠痕だ。

「つまりは……結局見回りか」

冷静な呟きが耳に触れて我に返る。

「あ……そうだね。まぁ俺らは大体いつも通りって感じ?」

「あれだけ大層な物言いをしていた割に…」

また眠たげに伏せられた眼の中で数秒、紙束を弄び、彼はそれを投げ出した。

「あっ」

受け止める手を伸ばす間もなく床に叩き付けられた音が、居室に蔓延はびこっていた静けさの中で弾ける。思わず何人かの研究員が二人を見た。静かは父の突拍子も無い八つ当たりに苦笑したが、当の本人は誰の視線も受け付けない様子である。一切の問いかけを許さない間合いで湿りは歩を外へと向けた。

その背中に、唐突に思い出した。いくらも前に聞いた「長生きしたい?」という彼の問い掛け。自分は何と答えたのか、思い出せないことが不思議だった。静かは打ち捨てられたファイルを一瞥したが、その光景はまるで鏡を見ているかのようだ。

結局、拾い上げることもせず二人は部屋を去った。



 ところ変わって、街に無数に這う脇道の一本。人工太陽の光が爛爛らんらんとコンクリートを照らす大通りとは違い涼しい影が満ちている場所だった。人々の喧騒と車が落としていく水と電気。跳ねっ返りの強い電光掲示板のライトは痛い。

そしてそのライトと同じくらいに目を刺す派手色の髪が路地の暗がりに浮いていた。

「そろそろ平気かよ?」

退屈そうに壁にもたれかかりながら、その少年は足元に声を掛ける。少年の金色の髪には、キャンディの飾りのようなギラギラしたピンク色が差していた。瞳は何色とも形容できない不規則な色彩。大きな瞳は路地の隅でさえ光を余さず吸い取っているようで、生気ある煌めきがチラチラと光って見えた。まだ年端もいかないような顔立ちに、背格好も相応だ。しかしその服の仕立てが海静かや既知、湿りと同様のものであるからには、彼も人権を剥奪された電気仕掛けの玩具の一つに違いなかった。

「あぁ……」

少年の足元で、声を掛けられた何かがうごめく。陰に潜むように身を丸め座り込んでいるそれは、目を凝らしているとようやく人の形に見えてくる。攻撃的なデザインのアクセサリーが髪や耳の隙間に光るその人影は、壁際に立つ少年と同じくまだ幼さの残る風貌をしていた。頬に彫り込まれた痩せた三日月のタトゥーはその眼つきの割に弱々しい細い線で、今は影の色に溶け込むようだった。

「落ち着いた」

三日月のタトゥーは答えて立ち上がる。彼は海危難かいきなん。派手髪の少年は海虹かいにじ。共に海シリーズにナンバリングされた実験体であった。二人の白い仕事着の肩口には、彼等の所有者であるダストΩ研究所の社印がわざとらしく刻まれている。

「あっそ。早くアイツらと合流しようぜ」

「足音が近い。もう来る」

危難は額に浮いた汗を指先で掬いながら告げる。虹は風で目にかかる金髪の隙間に危難の明るくはない表情を捉えながら、首を傾げた。耳を澄ましてみるが危難の言う足音は聞こえない。


(……まぁトーゼンか)


危難の耳が拾う音の数は普通の人間とは比べ物にならない。音だけでなく臭い、味、視覚の情報量も格段だ。頭部に埋め込まれた機械が彼の脳味噌を残酷なほど過敏にし、離れた足音も人々の囁き声も等しく拾い上げるので、特に屋外に出た時などは危難はこうして時折体調を崩した。

哀れな同胞にしか聴こえない足音を待ち、虹は再び壁に背を預ける。が、間もなく明るすぎる歓声が路地に飛び込んだ。


「…お〜い!お待たせ〜!」


極彩色の瞳を再びぱちりと開くその矢先を鋭い風が吹く。よく通る声の正体はやはりと言うべきか、見慣れた顔の同胞。急ブレーキを踏んだせいで長すぎる青黒の髪が粉塵を巻き込んではためき、姿勢を低くしていた危難はそのせいで浅く咳き込んだ。

二人分の視界を覆った髪が地に落ちていくのを眺めている間、ようやく二人は静かに抱かれたもう一人の影に気づく。髪を腕でける海静かの腕から地に降りて、海既知は相変わらずの表情をしていた。年下の男の腕に抱えられ運ばれてきたとは思えない堂々たる立ち姿は、危難の良好な視界には愛おしく映ったが、虹にはそうではなかったらしい。

「オマエら……何してンだよ」

「何って?遅れそうだったからダッシュで来たんだろー?」

「もう遅れてンだよ!」

揃って声の大きい静かと虹のやりとりは、誰がどう聞こうともよく耳に入る。服をはたき整えた既知は虹の訝しげな視線を通り過ぎ、ようやっと立ち上がろうとしている危難の前に立った。

「大丈夫そう?」

黒塗りの瞳で笑う背の高い男を下から見上げ、危難はもう一度だけ咳き込むと背を伸ばす。身長差は十いくらかあるようで、決して小柄ではない危難の首はくっと持ち上がり、それでもその姿を真っ直ぐに捉えようとしているのが見てとれた。彼の問い掛けは今の砂埃のことだけではなく、屋外の騒音に悩まされる自身の耳を気遣ってことだと危難は悟った。

「ヤバいな。大丈夫だ。ここは多少だからな」

短い割にチグハグな返答だが、既知にとってはいつものことだった。既知だから、というより、危難の言葉は常にあまねく凡人には理解し難い。賢すぎる頭脳がどうやらそうさせるようで、五感の過敏も知性の過敏もどちらも気の毒だと既知などは憐れんだ。

「そう?良かった」

ただ優しい口ぶりでそう答えた。既知はいつまでも大声で雑談を交わす二人に目を向ける。

「湿りはどーしたんだよ」

「あいつは一人で仕事だってさ」

「ハァ?オレらはペアでアイツは一人かよ?」

「力量差でしょ」

割り込んだ既知の言葉に、噛みつき足りないような顔の虹は口を閉じる。自分達と湿りの実力の違いは、精神的にも未熟な虹ですら理解せざるを得なかった。静かは助け舟を得たと言うように肩を竦め苦笑し、それ以上戯談ぎだんは続かなかった。



同時刻。ダストΩ研究所の一室に放り出されていた業務連絡ファイルは、一人の職員によって救われていた。その男は少しシワのついた資料に数ページ目を通したが、既に把握しているものだったのか、興味が無いのか、粗雑な手付きですぐにそれを閉じる。

紙に一つシワが増えた。


「木枯センパイ?そろそろ実験室閉めちゃいますよー」


背後から少し小柄な職員に声を掛けられると男は振り返り、酷く愛想の良い笑顔を向ける。

「早く行かないとでしたね。臼亥さんにまた怒られそうです」

「そうですよー。ボクらも巻き込まれるんですからね〜?ただでさえ最近機嫌悪いのに」

「彼氏にでもフラれたんでしょうかね」

後輩らしき職員は呆れたような溜息と共に、手元の小さなモニターに目を落とす。

「"犯罪者"のせいですよ。最近暴れてるから……早く海シリーズに捕まえさせきゃ」

「あぁ……それならきっとすぐ進展しますよ」

「え〜?」

意味を含んだ言葉と、相対する職員は冗談としてそれを受け流した。ファイルから少し飛び出した真っ白な紙に印字された文章は「犯罪者確保のための巡視強化」であった。廊下を進む二人分の足音の反響に、声は徐々に遠退いていく。


陽が沈むには、まだ数時間の猶予がある。

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