【1-1】人は神の

 天井灯の強く照らす長い廊下を一本の影が闊歩かっぽしていた。その影の大きさは単純な体躯ではなく、伸び垂らされた長髪のせいだということが影の揺らめきから見てとれる。長髪の主は、淀みの無い足取りで無機質な大地を踏み下し真っ直ぐに突き進む。しかしその強い足取りに似合わず視線は数メートル先の地面へと沈んでいるために、堂々たる歩みの男というよりは、何か不貞腐れた童子の様にも見えた。

 表情は、無というよりは少しの険しさを含んでいるようだった。

「No.1-半月」

 一瞬、そう呼ばれた男は足を止めかける。彼を呼んだその人はいつからそこに居たのか、廊下の突き当たりに立ちながら、片目を髪に隠されながら妖しく笑っていた。黒くしなやかな高結いの髪がひらりとうねる。吊り橋の上で人を揺するような、子どもの悪戯っぽさを含む微笑みだった。

 止まりかけた足をまた進め始めた静かは、先程より速度を緩めた歩みでその距離を縮めていく。軌跡の真っ直に伸びる先は、迷い無く目の前の男だった。

「やめろよ、新月」

距離にしてあと数メートル。静かは肩を竦めて見せた。新月とナンバリングされたかい既知きしは表情を変えない。ただ静かの言葉にウィンク1つで応えた。

「ちゃんと見てたよ。お疲れ様」

「あぁ…なら良かったぜ。お前以外が見てたらどうしようかと思った」

ついに正面に立った静かは、彼のその白い仕事着の胸に軽く拳を当てておどける。廊下も天井も2人分の仕事着も、この場所は潔癖症のように白く、微かに青みを感じさせる天井灯すらアヒルの子に見える。だから、黒と青黒の髪の流れは幾ら離れた場所からでも浮いて見えた。

 2人は並んで角を曲がる。重なろうとする靴音をわざと不規則にズラしながら歩く。既知の手が静かの腰へ、長い髪を掻き分けながら緩やかに抱き寄せるように触れると、パチリと青白いものが散った。



「いい加減にしなさい。メンテナンスは貴方にとってもメリットになるのよ」

 腹立たしさを滲ませたような女の声が研究所の一室を貫いた。怒声という程の感情は無いものの、酷くよく通る凛とした声だった。見るからに気の強そうなぱっちりとした吊り目の瞳と眉に、睨むようなシワが寄っていた。上品な金色の髪を波打たせ、熟した木の実かはたまた鮮血の粒を連想させる大振りのピアスを飾ったその女からは、香る程度に煙草の残香が糸を引く。自分の研究室に臭いがつかないよう常に注意を払っている彼女にしてみれば珍しいその辛口の香りから推し量るに、彼女は先程休憩を終えたばかりらしい。猛獣も組み敷かんとしそうな気迫を放つ彼女の名は臼亥うすい興子きょうこ。その名を聞けば、この研究所で働く多くの職員が身をすくませた。

「はぁ」

しかしそんな臼亥の眼光の下で平然と、男は溜息なのか欠伸なのか分からない息を漏らした。力を抜いて椅子の背もたれに身を沈め、眠たげな目をうっとりと白昼夢の中で泳がせるように伏せる華奢な男。彼の服は、両肘のあたりをベルトで胴とまとめられた独特の仕立てをしている。拘束具にも見えるその装いは明らかに不自然なシルエットを見せており、彼を見た誰もが、束ねられた肘下の行方はどこなのかと疑う。彼の明らかに膨らみの足りないその影は、者でなければあり得ない形をしていた。

 答えない男を暫くは口を閉ざし見つめていた臼亥だったが、今にも深い眠りに落ちていきそうな彼の表情に痺れを切らしたのか、先程より冷たく尖る声を放った。

「聞いているの?」

「聞いていますよ」

答える声色は臼亥のそれより、更に幾分か冷めていた。唐突に上向いた、脱力していた瞳。濁る眼光の色をただ白と表すのはあまりに愚かだった。その凍てつく苛立ちの色は白などより遥かに色が無い。彼女の問い掛けに拒絶より強く嫌悪を示すそのわけは、単に彼女との押し問答に進展が見られない故、と言うには些か敵意が強過ぎるようだ。

 しかしながら彼のその答えが気に入らないとばかりに、睨み合う視線の冷たさに怯む様子を見せないまま臼亥は彼を見下ろす。周囲で実験器具の手入れに勤しむ白衣の職員らが、この大き過ぎる時限爆弾を抱えた居室からのエスケープを必死に企てていたその時、扉は唐突に開かれる。


「お待たせしました〜!ごめんね〜」


部屋を満たした緊迫の糸を無神経に切り裂く陽気な声。場違いな笑顔は、座した氷点下の男を捉えると更に無邪気に色付いた。

湿しめり早かったなぁ。寝ないで待ってるなんて凄ぇじゃん!」

「お前たちは遅かったね」

湿り、という不自然な響きがどうやらその男の名前らしかった。先刻までの苛立ちはどこに失せたのか、湿りは傍らに駆け寄る静かと穏やかな足取りでその後に続く既知に微笑み掛ける。子を愛でる親のような眼と悠々と椅子に身を沈める姿は、然程歳の離れていないであろう2人より幾許いくばくも年季を重ねた老猫のような印象を持たせた。

 爆弾の導火線が切られた空気に、誰かが安堵の息を漏らした。

「半月、下弦、新月……やっと揃ったわね」

いつの間にやらタブレットパネルを手に、臼亥は相変わらず薄灰色の尖った眼に冷炎を灯していた。怒り冷めやらぬ目元の気配とそぐわず、声色には何の感情も伺えないことが酷く不気味だ。

「実験かメンテでしょ?臼亥さんは俺達をそれ以外で呼び出さないよね」

黒いまなこに吸い込んだ全てを解っているような顔色で、既知は言う。日々カメラレンズを通してあまねく見張ることが仕事である彼はいつも、知らぬことも解らぬことも無いようにものを語った。かつて臼亥は彼を「有知ゆうちね」と罵った。

 しかし、この時の彼の指摘は至極正しかった。

「えぇ。物分かりが良いのは結構。下弦も同じように大人しく指示を飲んで欲しいわね」

答えながら、再び臼亥の視線は湿りへと向けられる。湿りは先程よりもただ単に面倒くさそうな欠伸を一つ溢し、何も答えない。いつまた臼亥の悪態が湿りの短気を刺激しないかと、ひたすら健気に口を結ぶ職員達は無言の共感の中で怯えていた。しかしその不安は杞憂でしかない。静かが傍らにいる間は、彼が、湿りの不機嫌を爆発させるようなことは許さなかった。それが彼に与えられた「シリーズ内の規律調整」という仕事であるのだ。

「臼亥さんてばさぁ、湿りはもう機械取ったんだし、メンテ受けろったってやってくれねぇよ〜。もっと違うアプローチにしたら?」

静かは湿りの座す椅子の肘掛けに乗り上げると、その華奢なシルエットを片腕に抱く。湿りは長い髪に視界の半分を奪われながらも抵抗無く抱かれるままに微睡んだ。奇妙な名で寄り添った二人の影は歪だが、まるでそうあるべきかのように自然だった。彼の肘から先のかつてあった場所を愛おしむように撫でるしなやかな手付きに、臼亥は顔色一つ変えないまま嫌悪感を催した。臼亥が想うのは彼等個人ではなく、の貴重なパーツの行方だ。

「そもそも機械入れてないのにメンテって、意味無くね?」

「馬鹿ね。機械パーツ以外の部分も診てるのよアタシ達は。それにパーツを取り除いたからといって電気を通しやすい体質は変わらないわ。定期調整をした方が効率的よ」

「え〜……それはそっちが効率厨過ぎるんでしょ」

臼亥の言葉は淡々と、しかし耳を突き刺すような鋭利な響きで常に他人を圧した。三人の海は臼亥の冷気を放つ視線にも鋭槍のような言葉にも驚きや畏怖、萎縮を見せることは無かったが、それは慣れの結果であるとともに、その気になれば彼女の息の根を止めてこの戯言を終わらせられるという其々の自負から成る余裕でもあった。一連の研究者と被験体のやり取りはあくまで澱みない水流のように進んだが、その温度感は、外から見ればどこか不気味に食い違い続ける。

 三人と一人は少しの間口論なのか話し合いなのか曖昧なやり取りを続けたが、最終的な決着は、結局二人のみのメンテナンスということで方が付いた。


「にしても定期メンテには少し早いよね」

「最近半月と新月は調子が悪いでしょう。近々面倒な仕事があるのにそれでは困るのよ」

臼亥の色の無い回答の中で、既知は面倒な仕事と表されたそれに心当たりが無いことに首を傾げたが、静かの耳に留まったのはむしろ不調の話であった。先刻、既知に触れられた際一際激しい静電気が走ったことを思い出す。機械を有し、特別多くの電気を体内に保ち続ける海同士では静電気の発生は珍しくない現象だったが、ここ数日は特に頻繁かつ顕著にそれが現れていた。静かは自分を制するそれが埋め込まれた左腿にそっと手を這わせる。隣の既知も同様に、頸に手を当て目は遠くを見ていた。その横顔を捉える静かにはこの時の既知が何を感じているかなど判り得ないが、それでも確固たる確信を持って、自分と同じ痺れをその手から感じているだろうと考えていた。

 静かの空想を他所に臼亥はメンテナンススケジュールを端的に伝え終えると、手元の端末を閉じて隣の部屋を示す。陰っていた「実験中」の赤いランプは、二人が立ち入った途端にあからさまな光で文字を照らし出した。見せしめのように光って見せるその姿を、一人見つめる湿りの目はどこまでも温度を失っていくようだった。

 臼亥が最後に口にしていたことを湿りは数度反芻する。メンテナンス後に伝えられるという仕事のことが、彼には喉に詰まる小骨のように思えていた。

「いざとなれば……」

その呟きは誰の耳にも受け入れられない。ただ彼の口元を隠すマフラーだけが、彼の言葉を受け止めた。

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