第22話

【23:31】

 今でこそ友だちも多くて明るい人気者だけど、幼稚園に通っていたころはひどく人見知りだった、と栄子がいつか、こっそりと教えてくれたことがある。自分で「明るい人気者」って言っちゃう栄子、大好き。

 それはともかく、そのころの栄子は引っ込み思案で、幼稚園のお友だちに囲まれただけで不安になってしまい、朝、送ってきてくれたお母さんの手をどうしても離せなかったそうだ。

 それでよく園内で泣いていたのだけど、ある日、不安とストレスが重なって、過換気になったことがあったらしい。過換気の症状は、呼吸が速くなって息苦しくなるというだけじゃないようだ。栄子が説明してくれた理屈は理解しきれなかったけど、急激に二酸化炭素が減ることで最終的に、指先や口のまわりがしびれてしまうこともあるらしい。

 わたしにはもちろん、医学の知識なんてない。けど今まさに目の前にしているドクターの状態は、教えてもらった症状にかなり近しく思えた。

 ドクターは、自動車のドアに手をついて、膝を落としてしゃがみこんでいた。呼吸が浅く、空気がうまく身体に入っていないように見える。夜目にも、顔をゆがめている表情がわかる。

 ひとまずわたしは、彼女がこれ以上身体を濡らさないようにしなければと思った。自動車のリアドアを開けると、彼女の肩を抱えて無理やり起こし、後部座席に押し込んだ。如月メイが持ち出したショルダーバッグが、座席の足元に転げ落ちた。

 ドクターには、さっきまで如月メイがしていたように横向きに、ごろん、となってもらう。窮屈だろうけど、わたしも一緒に後部座席に乗り込んだ。

 手を伸ばして、運転席側面のレバーを探り当てる。引っ張ると背もたれが前に折り畳まれ、ついでにシート全体も前にスライドした。少しスペースに余裕ができた。ドアを閉め、躊躇したけどドクターの背中に手を当てた。小柄な背を、ゆっくりとさすり始めた。

「大丈夫……大丈夫……」

 言いながら、栄子が聞かせてくれた対処法がどんなだったのか、必死で思いだそうとする。

 たぶん、ドクターがこういう状態になったのは、初めてではないだろう。ひょっとしたら自分なりの取り戻し方があるのかもしれない。わたしならば、誰かに「手当て」してもらうのはありがたく感じるだろうけど、ドクターにとっても同じかどうかは、わからなかった。

 ーーせめて、他人に身体に触れられるのが苦手な人でなければいいけど。

「ゆっくりと息を吐いてください……焦らないで……吐いて……吐いて……」

 吐き切ると自然に吸うように、人体はなっているんじゃなかったっけ? わたしは動転しながらも声をかけ続ける。

「ゆっくりと吸ってーーそう。もう一度、吐いて……吐いて……」

 頭は不安で破裂しそうだったけど、わたしはドクターの背中をなで続けた。神サマ栄子サマ、どうか助けて。

 自動車のルーフに雨垂れが落ちる、ぼとぼとという音が聞こえる。ドラムが刻む単調なリズムのように。赤ちゃんを落ち着かせる心音のように。わたしの手は、ドクターの痩せた身体を上下する。大丈夫、大丈夫という声はだんだんと小さくなり、ほとんど囁きのようになる。わたしの意識も、囁きに溶け込んでいき……。

 ……。

 ……。

 ……。

 ……。

 ……どれくらい経ったのだろう、手のひらの下でドクターが、もぞもぞと身動ぎした。

 わたしは、いまここに呼び戻された。ドクターの背中に手をおいているうちに、知らず覚醒度が落ちていたようだった。ぼんやりと視線をあげると、ダッシュボードの時計が午後十一時三十一分を指していた。

 ドクターの弱々しい、かすれ声がした。

「あ、あ、ありがとうーーも、もう、落ち着いた……」

 のろのろと上半身を起こしたドクター・ナカタニは、これまで以上に若く、頼りなげに見えた。ショートボブのサイドが、青ざめた頬に貼りついている。彼女が「メイーー」と、うわ言のように呟いた。

 

□□□

 びしょ濡れになっていないだろうか、とまず考えた。外は相変わらずの雨模様で、やって来た道を引き返したにしても、森に分けいったにしても、どうしたって濡れてしまう気がする。この暗い森のどこかに、可憐な如月メイがたたずむ姿を想像すると、グリム童話の世界ーー「ヘンゼルとグレーテル」とか「赤ずきん」ーーを連想せずにはいられなかった。

「だ、誰かに連れて、い、いかれたんだ」

 如月メイの行方についてドクターは、そう言い張った。その根拠をドクターが、ボソボソと説明する。彼女の言い分は、確かに納得のいくものだった。

 超自然的に消失したのでもない限り、選択肢は二つにしぼられる。

 一、自分で車から消えた。

 二、他の誰かに連れ去られた。

 ドクターの言うとおり、如月メイが自分で歩いて自動車を出ていった可能性は、あまり高くないように思える。

 第一に彼女は、あれだけキッパリと、町から出ていくと言っていた。林道を引き返す姿は想像できない。となると、自分で出て行った場合は、森に消えたことになってしまう。だけど、仮にドクターやわたしと別行動を取りたかったとしても、今このタイミングで出奔するだろうか。協力して町を脱出した〈後〉で充分なのではないか。

「あ、あの子は、か、かしこい子だ。進んで危険に身をさらすとは、お、思えない」

 同感だった。では、何者かに連れ去られたとしてそれは、どんな相手だろうか。

 〈警備部〉の可能性は薄い、とするドクターに、わたしも賛成だ。如月メイだけをこっそり連れ去る意味があるようには、とても思えない。〈警備部〉相手ならば、わたしたちも一緒に捕まっていなくてはならないだろう。だとするといったい?

 それに気づいたのは、わたしだった。

 後部座席の足下に落ちていたショルダーバッグを拾い上げたとき、発見した物があった。つまんで持ち上げるとそれは、メモ用紙の切れ端だった。おそらくわたしがドクターを担ぎいれたときに、ショルダーバッグと共にシートの上からこぼれ落ちたのだろう。

 メモには、四つの数字が殴り書きされていた。

 

 《七一三》

 

「それは?」

 ドクターは、わたしの手からメモ書きを引ったくった。じっとそれを眺め、考え込む。口を開いて、断言する。

「は、犯人の、メ、メッセージだ、と、思う」

「メッセージ?」

「《七一三》は、如月メイが、しゅ、収容されていた部屋の、ル、ルームナンバーだ」

「ということはーー」

「こ、ここに、来いと言っているのだ、と、お、思う」

「いったい誰がそんなーー」

 言いかけてわたしは、ハッと思い当たる。

 アイツだ。

 わたしをつけ狙う謎の襲撃者、アイツが如月メイをかどわかして、わたしを誘き寄せようとしているのだ。

 何でわたしを直接狙わなかったのか、遅まきながら見当がついた。わたしは拳銃を握りしめて、ドクターと一緒に行動していた。百発百中でわたしをしとめないかぎり、反撃されるおそれがあると踏んだのだろう。わたしの拳銃が発射できない状態だなんて、外見ではわからなかったろうから。

 わたしのせいで、如月メイがさらわれてしまった。

 今さらだけど、にわかに事件の当事者になったみたくわたしは狼狽した。

 

□□□

 運転席のドアが開いて、風に巻かれた雨粒が吹き込んできた。

「い、行けそうだと、お、思う」

 顔に降りかかった雨を手で拭いながら、ドクターがドアを閉める。

 電力供給施設の近くの、森の端だった。下草で覆われたそこには、一見するとわからないが古い林道の入り口があった。ここに猫町ができるよりも前に作られた砂利敷きの道で、うねうねと木々のあいだを縫っている。あちこちに大きな水たまりが出来てはいたが、思ったよりぬかるんではいなかった。

「ず、ずっと昔に、ど、土砂崩れで塞がれた、み、道だ」

 ドクターは以前、散策をしていてその場所に行き当たったらしい。直に見た様子では、道の片側が崖になっている林道で、問題の箇所は押し寄せた土砂や倒木が、道を完全に消し去っていたという。当然、自動車は通れない。だが人間の足ならば、通り抜けられるのではないか。

 これがドクターの考えていた逃亡ルートだった。

 運転席に沈み込んでたっぷり一分くらいしてから、ドクターが口を開いた。

「ほ、本当に、いい、のかい?」

 わたしは無言で、うなずいた。口を開いてしまえば、決心が鈍るような気がしていた。

 ドクターはわたしに、ここから一人で歩いて脱出するように言った。自分は如月メイを取り戻すために病院に帰るつもりだけど、君がつき合う必要はない、と。いまだ正体不明だけども〈敵〉は、わたしを標的にしている。わたしが病院に戻れば、確実に命を脅かされるだろう。

 もちろん、この山奥の林道を歩いていって、命が助かるかどうかは断言できない。道が今でも人里までつながっているのかもわからない。でも、少なくとも拳銃で狙われることはないだろう。

 だけどわたしは、ドクターと一緒に病院に戻るつもりだった。

 如月メイは、わたしを誘き寄せる囮として〈敵〉に誘拐された。彼女と過ごしたのは、ほんのわずかな時間だけど、その間彼女は何度もわたしを助けてくれた。どんな結果であれ、ここで彼女を見捨てて逃げたら、わたしはこの先きっと、自分を許すことができないだろう。あの監獄のような場所に戻るのはおそろしく気が進まなかったけどーー。

 ドクターがシャツの袖で眼鏡を拭った。

「て、停電から、さ、三十分近く経っている。来た道を戻るとして、もう十分。そ、組織が一時間弱でどれだけ、体制をたてなおしているかーー」

 わたしは武装した兵士たちを思い浮かべた。さっきはドクターの不意打ちで切り抜けたが、彼らが万全の備えをしていたら、今度は太刀打ちできないだろう。

 しかしいずれにしても、わたしたちに選択肢はないのだった。

 ドクターがハンドルを握る。

 こうしてわたしたちは、町へと戻ることになった。

 猫町へ。

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