第23話

【23:57】

 あと数分足らずで、今日という日が終わろうとしていた。長い一日だった。わけもわからず走り、逃げ続けた。わたしたちが如月メイを取り戻すことができるのか、遁走に終止符を打ち自由を手に入れることが出来るのか、それは神のみぞ知る、だ。

 わたしとドクターは、病院の通用口をのぞく住宅の軒先に潜伏していた。自動車は、無人の住宅のガレージに隠してあった。病院の敷地と住宅街は、サザンカの低い生け垣で仕切られている。生け垣の切れ目から見える明かりのない病院は、嵐のただ中にもかかわらず、廃墟のように不気味に静まり返っているようだった。

 侵入経路をドクターが繰り返した。

「びょ、病院の出入口は、よ、よっつだ。正面玄関と厨房につながっている搬入口、それに通用口、あ、あとは非常階段だ」

 目の前に駐車場のある正面玄関は、見通しが利きすぎて論外だった。近づくだけですぐに発見されてしまうだろう。遠巻きに観察した結果、正面玄関とその中のロビーでは、ライトの明かりが頻繁に行き来していた。それだけ人の目があるということだ。

 搬入口は裏手の目立たない場所にあるが、運び込まれる食糧や備品のないときは施錠されている。わたしと如月メイが飛び出した非常階段は、外側からは開かないようになっている。残るは建物側面の通用口だけだった。

 通用口から入る際、通常は専用のIDカードとパスワードが求められ、指紋認証のセキュリティ・チェックを潜り抜けなくてはならない。もちろんスタッフの一員であったドクターは、条件をすべて満たしているわけだが、システムが生きていれば同時に、自分の居場所を知らせてしまうことになるだろう。

 だがドクターは、予備設備ともども、この町の電力供給施設を破壊した。それによりシステムが死んでいれば、ドアは手動に切り替わっているはずだ。そしてそれは、推測通りだったようだ。

 通用口の張り出した屋根の下に、〈警備部〉の兵士が二人、歩哨として立っているのが確認できた。これはセキュリティ・システムが稼働していないことを表しているとドクターは言う。兵士たちは長い銃を水平に構えており、銃に取り付けられたライトが右に左にと油断なく辺りを警戒している。ライトが横切るたびに雨が、銀の引っかき傷のように浮かび上がる。だがどうして〈警備部〉が、こんなに厳重に、病院に人員を配置しているのだろう。ドクターの答えは、意外なものだった。

「ヘリコプター?」

「い、院内に、そ、操縦士の部屋があって、びょ、病院の、お、屋上に緊急用のヘリが一台ある。そ、組織の高官が、い、いざというときに使うため、だ。兵士たちは、それに万が一のことがないよう、け、警戒しているのだと思う」

 映画などでは、物語の最後の最後、危機一髪で、空を飛んで脅威から逃れるシーンはよくお目にかかる。けど現実は、そんな手段があるからといって、町からの脱出に役立つとも思えなかった。わたしたちがーーわたしもドクターも如月メイもーーヘリコプターを操縦できるわけじゃないのだから。ただいずれにしてもわたしたちは、通用口を突破しなければならない。如月メイのもとに行くために。

 ドクターはしばらく考えてから、陽動作戦しかないだろう、と提案した。

「さ、さっき、車を隠したときに、み、見ただろう? あちこちの家のガレージに、スタッフのく、車がまだ何台も、止まっている。あ、あれを使ってみよう……」

 わたしたちは、病院の正面側にある家を目指して、こそこそと回り込んだ。ドクターの言う通り、ガレージに自動車の置いてある住宅は幾つもあった。車を見つけるとドクターは、住宅にひと気がないのを確認して、懐中電灯を当てて車のドアガラスの中を覗いていった。

 どうやら目的にかなった車が見つかったようだった。猫町には泥棒がいないため、鍵をかけずに、そのままにしている車も少なからずあるという。もとより自動車はみな、私物ではなく支給された備品であり、職員にとってさしたる思い入れもないらしい。〈警備部〉その他の職員の中には、あえてオートロックがかからないようにしているケースもあるようだ。急な召集に応じるためである。ドクターは、その状態の車を探し当てたのだ。

 フロントドアを開け、ボタンを見つける。ドクターは意外と自動車に詳しい。この車種は、給油口のボタンが運転席の足元にあると知っていた。

 がこん、という音がして、給油口のカバーが開いた。わたしは、ガレージの屋根が雨がしのげてありがたいな、と思いながらドクターの作業を遠巻きに眺める。周囲に視線を走らせた。人が近づいてくる様子はない。

 ドクターは給油口のキャップを外すと、白衣を脱いで袖をひも状にして、給油口に差し込んでいく。白衣にガソリンを染み込ませているようだった。

 ひと通り終わると、反対側も同じようにする。そしてガソリンを含んだ白衣を後部座席に置いて、ちょうど導火線になるように、片方の袖を外に垂らした。

 やむを得ないとしても、あるいは人がいないと確認したとしても、放火という行為には抵抗があった。だが、他に有効そうな手段がわたしに思い浮かばないのも事実だ。

 ドクターが、如月メイの荷物から取り出したライターで、白衣に火をつけた。たちまち炎が、白衣をチロチロとなめて走る。白衣から発生した可燃性の蒸気が燃えているのだ。自動車のガソリンタンクに火を放り込んでも、映画などとは違い、めったに爆発はしないとドクターが教えてくれた。どのみち今は、派手な爆破シーンが欲しいわけではなかった。〈警備部〉の注意を引きつけるような火の手が欲しいだけだ。

 ドクターは同じ手順で、ショルダーバッグの中身で火種になりそうなタオルや服を使い、車や、たまたま見つけたごみ袋などを、あちこちで燃やした。

 わたしたちは、急いでその場を離れた。

 病院の敷地に達したころ、数人が声をかけあう気配がそこそこでわき上がった。

 さっきの軒先に戻って、一分ほど待つ。それから嵐にまぎれて、通用口に向かった。兵士の姿がなくなっていた。うまく正面のボヤ騒ぎに誘導されてくれたようだった。上手く行きすぎてちょっと怖い。こうしてわたしたちは、病院に侵入したのだった。

 

□□□

 ドクターの持つ懐中電灯の光の輪に、通用口を入ってすぐの小部屋のようなスペースが照らし出される。左手に受付の窓口があり、正面のガラス扉の奥に、内部に向かって廊下が伸びているのが見てとれた。右手に階段があった。ドクターは躊躇なく階段を使った。勝手知ったる古巣なので、迷うことがない。わたしはそれに従った。

 時おり上方に注意を向けながらも、一定のペースを刻んで、階段を七階まで上った。ドクターの手には、拳銃が握られている。銃を前方にかざして、神経をとがらせているようだった。もっともこちらはライトを使っているので、相手には近づくのが丸わかりの可能性がある。待ち伏せされたら手も足も出ないだろう。

 三階から七階はすべて、入院患者用のフロアになっていた。ドクターは病棟に入る前に懐中電灯を消して、階段の出口からフロアのぞき見る。どこかから漏れるぼんやりとした明かりで、わたしが如月メイと初めて出会った、患者用の共有スペースが浮かび上がって見えた。ドクターは光源が、スタッフ・ステーションに装備されている非常用LEDランタンだと教えてくれた。

 目的の七一三号室は建物の東端の部屋で、階段は西にある。部屋に行くには、スタッフ・ステーションの前を通らねばならない。

 スタッフが病棟を見回るタイミングとルートを、ドクターは熟知していた。今晩のような非常事態の最中にルーティンを行うか心配だったが、幸い杞憂だったようだ。ドクターの言うとおりの時間に、スタッフ・ステーションで物音がして、人の動く気配がした。

 ドクターが先行し、様子をうかがう。わたしを無言で手まねきした。ステーション内に残っているスタッフは二人だったが、それぞれモニタを見ながらキーボードで書類作成をしていた。

 ドクターの誘導は完璧だった。スタッフの目をかわしてわたしたちは、急ぎ足に廊下の角を曲がり、ステーションから見えない位置に駆け込んだ。顔を見合わせ、ホッとひと息を入れる。

 ふと思った。如月メイは、彼女が看護師さんと逢い引きしている現場を見てしまったと言っていた。あるいはドクターは、こうした状況を想定していて、看護師さんと親しくなって情報を得ていたのかもしれない。それはそれで不実であるけど。

 病棟は、静まり返っていた。深夜で、患者はみな眠っているのだろう。誰の姿もないし、部屋に明かりが見えていることもなかった。しん、とした病棟の中には、外界の音は届いて来ていない。嵐の夜が、まったく感じられない。気温や湿度は安定しているのにむしろ、息苦しく感じられる。どれほど居心地が良くてもここは、自由を奪われた檻なんじゃないかという思いが、一歩ごとに強まっていく。そろそろと進むわたしたちの衣ずれの音だけが、生きている存在のしるしだった。

 次の角を曲がれば、指定された部屋が見えるというところで、それは起こった。

「誰も動くな」

 壁の端で、暗い廊下を左見右見とみこうみしていたわたしたちに、背後から鋭い警告が投げつけられた。わたしとドクターは、凍りついたようにその場で固まった。

「こんな夜更けに何をしている?」

 背後で、男の野太い声がした。

「ぼ、ぼくは……」

 ドクターの全身が、緊張で力んだのがわかった。拳銃を使おうとしているのだ、とわたしは直感した。心拍数が跳ね上がる。だがそれは、相手にとっても同じだったようだ。

「待て、こっちを向くんじゃない。あんた、銃を持っているな。そこでしゃがんで、床に膝を着け。二人とも。ゆっくりとだ。こっちはすぐに撃てるんだぞ」

 ドクターが脱力した。抵抗は無駄だと悟ったのだ。わたしも膝を折って、ゆっくりとしゃがみ込んだ。

「銃を下に置け。妙な動きをするな」

 ごとり、とドクターが銃を置く音が、うつろに響いた。すると男が素早く寄って来て、拳銃を蹴った。拳銃がリノリウムの床を滑っていった。わたしたちの希望もまた、手の届かない場所まで遠ざかったように思えた。男はすぐに、わたしたちと距離をとった。

「よし。膝を着いたまま、こっちを向け」

 わたしたちはひどく不様な体勢で、振り向いた。

 二メートルほど間隔を空けて男は、拳銃を構えていた。銃口はぴたり、とわたしたちに据えられている。

 男は、ドクターと同じくらいの年齢に見えた。髪は短く、首は太く、わたしは何となく、クロサイを連想した。作業服のようなつなぎを着ていて、険しい表情でわたしたちを睨みつけている。

 ドクターが果敢にも口を開いた。けっこう度胸がある。

「あ、あなたは、パイロットか? ヘリコプターの?」

 男は質問を無視した。

「一時間くらい前に停電があって、どうも病院全体がバタバタしている。あれはあんたらのせいか」

 ゆっくりとした落ち着いた声だった。ドクターがわたしをちらりと、一瞥した。わたしは急激にポケットが重くなった。さっき渡された拳銃が入っているのだ。

 男は、わたしにはそれほど警戒をはらっていない様子だった。たぶん、わたしなんてどうとでもなる、と思っているのだろう。実際その通りだと思う。この状態から何ができるかと言うと、かなり怪しい。

「ぼ、ぼくたちは、その……」

 ドクターが口を開きかけたが、言葉が続かなかった。それは、いくつかのことが同時に起こったからだった。

 

 聞き慣れた音が耳朶を打った。(今日一日でわたしはそれを、銃声と認識できるようになっていた。)

 

 ほとんど同時に、悲鳴がわき上がった。(女性のものと思われるそれは、ステーションにいたスタッフのものだろう。)

 

 銃口を突きつけていた男の意識が、悲鳴によって明らかにわたしたちから逸れた。(完全に油断。ひょっとしたら戦闘は専門じゃないのかも。)

 

 反射的にわたしはポケットに手を突っ込んだ。焦らずに拳銃を取り出せたことが、奇跡みたいだった。安全装置がかかったままだったけど。

 だがわたしが男に狙いを定めるより早く、再度、発砲音がした。男がのけぞる。

 呆然となったわたしとドクターの前に、暗がりから全身黒ずくめの人影が現れた。

 硝煙の臭いが、つん、と鼻をついた。

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