第19話
【五年前Ⅱ】
わたしのわがままに車を出してくれたのは、修平さんだった。
連休のなか日、八月十四日の午前九時ごろ、アパートの部屋の呼び鈴が鳴って、期待に胸ふくらませたわたしは勢いよくドアを開けた。ゴチッ、と鈍い音がした。
「あ、痛っ!」
コンクリート打ちっぱなしのアパートの廊下に、おでこを押さえた修平さんが立っていた。お葬式の時と同じ、どこか場違いな、居心地が悪そうな顔で。
「ス、スミマセン!」
わたしがあわてて頭を下げると、全然大丈夫だよ、と修平さんがカラッと笑った。謝りながらもーー失礼なことだがーーわたしは、そんな修平さんを無遠慮に品定めしていた。小学生女子の冷徹な目差しで。
修平さんはグリーンのポロシャツにチノパン、スニーカーという格好で、若々しいというか頼りないというか、そんな感じがした。わたしが普段接する大人たちーー学校の先生や、印刷会社の社員さんや、母さんのお店のフロアレディさんーーはみな、いかにも「大人」と言う印象だったので、母さんと同級生のはずなのに学生みたいな風貌の修平さんは、かなり珍しく映ったのだった。
「無理言って、ごめんなさい」
母さんが、紙袋を持って玄関に出てきた。母さんは、近ごろあまり着ていなかった薄紅色のシャツワンピースだった。マキシ丈だけど、リネンなので今の季節でも暑苦しくない印象だ。髪を自然におろしている母さんは、お店でドレスアップしているしているときよりも、ずっとキレイに思えた。
紙袋の中身はお弁当だった。今朝、早起きして二人で作ったのだ。おにぎりを詰めたタッパーと、唐揚げや卵焼きやミニトマトといったおかずを詰めたタッパーが、ひとつずつ入っている。ランチボックスなどという洒落たものは、我が家にはないのだ。
「いやいや、ぼくもちょうど、練習したいと思ってたところなんだ」
そういって修平さんが、胸の前でハンドルを握るマネをした。
「ええっ!」
母さんが、絶句した。
「ひょっとして……。修平くん、初心者? ペーパードライバー?」
「ばっちし、ゴールド免許ですよ」
やや誇らしげに、修平さんが答えた。母さんが無言で、じっと修平さんを見つめていたので、修平さんは慌てて両手を突き出して振った。
「大丈夫だって。取材で、年に一度は必ず運転するようにしているんだから」
はああー、と母さんがため息をついて、相変わらずね、修平くん、と言った。
母さんによると修平さんは、学生時代から万事こんなふうで、よくいえば鷹揚、悪くいうと、いい加減というか、大雑把な感じだったらしい。
作家になると決めた時も、誰にも何も相談せずに、あっさりと仕事を辞めてしまった。しかもそのとき修平さんは、小説どころか、文章を一行たりとも書いたことがなかったというんだから、なんともはや。
でも、どうしてだか達郎さんとウマがあったのよ、と母さんは、父さんのお葬式の日に懐かしげに教えてくれた。達郎さんというのは父さんのことで、昔っから生真面目で整理整頓と時間に厳しかった父さんと、この、ふわっとつかみどころのない修平さんが親友だったのは、ほんとに珍事だと思う。
修平さんが、何ごともなかったかのように、お弁当の紙袋を持って階段を降りはじめたので、わたしたちも気を取り直して出発することにした。わたしは、冷たい麦茶の入った水筒を手にしている。アパートの鉄製の外階段がカン、カン、カンと小気味良いリズムを奏でた。それは久しぶりに聞いた、心の浮き立つ音楽だった。
修平さんの車は、よく見かける国産車で、色はシルバー。買ってから三年経つということだったが、乗り込むと心なしか新車の臭いがして、わたしと母さんは、思わず顔を見合わせた。わたしが後部座席におさまり、母さんが助手席についた。
わたしたちのシートベルトを念入りに確認し、修平さんが、じりじりと、じれったいくらい慎重に車をスタートさせた。路地から大通りに合流するとき、ちょっとだけ息を呑んだのはナイショだ。
目的地は、町から一時間くらいのところにある、県営の海浜公園だった。
埋立地の広い敷地に、ピクニックにうってつけの芝生の緑地や、人口の砂浜や、展望タワーなんかがある。ちょうどその頃は、新しく出来たばかりの観覧車が大人気だということで、わたしは心ひそかに楽しみにしていた。クラスメイトにさっそく乗った子がいて、少しうらやましかったのだ。
修平さんは、海沿いの国道をコースに選んだようだった。普段、大型のトラックが行き交う道路は、今は帰省する人たちで混雑していたけど、それは対向車線の登りのことで、わたしたちの側はスムーズに流れていた。
帰り道はどうするの、と聞いたら、帰りは一本陸側の道に入ってそちらを通るから、渋滞には巻き込まれないはずだよ、と言われた。最初こそぎこちないハンドルさばきだったけど、修平さんの運転は次第に滑らかになった。ドライブは順調に進んだ。
夏らしい爽やかな天気だった。空はすばらしく晴れて青く、ぎらぎらした太陽の光を浴びて、いつもはくすんでいる家々やビルまでもが輝いて見えた。暑さも今日ばかりは気にならない。クーラーは入れずに、サイドウィンドウを細く開けた。
三十分ほど経ったころ、ガードレールごしに夏の海が開けた。黒っぽい水平線の上にムクムクと、上半身だけ起き上がった大男みたいな入道雲が居すわっていた。大男は腰から下がすぼまっていて、『アラジン』に出てくるランプの精によく似ていた。
潮っぽい空気が流れ込んできて、わたしのツインテールや、Tシャツから出ている二の腕や、ショートパンツから伸びているひざ頭をくすぐっていった。こっそりと、サイドウィンドウを下げる。手を車の外に出すと、掌が風をはらんで、はっきりとした感触があった。
ステレオに、むかし流行ったポップスが、邪魔にならないボリュームでかかっていた。ふんふん、とメロディーに合わせて鼻歌を口ずさんでいると、はたと、父さんがたまに聞いていた曲と同じだと気づいた。バックミラーに映る修平さんは、まぶしそうに目を細めて運転している。前を見ると、母さんが同じ表情でシートに沈んでいる。
そのときはじめてわたしの胸に、何かが、ちりり、とふれた。ふたりの大人たちが共有している世界から、わたしだけのけ者にされたような疎外感。わたしはその世界に、自分も入りたいと思った。
でも違った。わたしが入りたかったのは、ふたりの思い出の世界なんかじゃなかったのだ。
それに気づいたときには、もう手遅れだった。
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