第16話

【五年前Ⅰ】

 海に行きたいとゆずらなかったのは、わたしだった。まったく子どもじみたわがままだ。いま考えると顔から火が出るほど恥ずかしい。でもあのときはどうしても必要なことに思えたのだ。海でなければいけない理由などなかった。本当のことをいうと、どこでもよかったのだ。学校や、アパートのあの部屋でなければ。


□□□

 父さんが亡くなってから一年半が経ち、わたしたちは、二度目の夏を迎えていた。

 日々は慌ただしく過ぎていった。より正確に言うと、暮らしていくことだけでいっぱいいっぱいだった、と言うべきかもしれない。

 母さんは、お葬式のあと一週間ほど休み、それから引き続き印刷会社に勤めていた。その方が、気がまぎれるからと言って。とはいえ、パートタイムの事務員のお給料だけでは、やはり生活は苦しく、なんやかんやで雀の涙ほどの保険金もなくなると、夜の仕事を始めるようになった。

 必然的に、わたしの家事分担は増えていった。もちろん、家の手伝いをすることが当り前なことは分かっていたけども、慣れない作業と、のしかかってきた責任感は、ストレスとなって積もっていた。

 学校も、微妙な場所に変わってしまっていた。四月になり学年がひとつ上がると、一番仲の良かった友だちは転校してしまい、なにかと世話をやいてくれた女の先生とも、疎遠になった。

 わたしの手元に残ったのは、「お父さんを亡くしたかわいそうな子」という、曖昧でいて、なかなか容易には消すことの難しいレッテルだった。そしてそれは、一年が過ぎてさらに学年が上がってもなお、相変わらずわたしに貼りついていたのだった。

 わたしに良くないところがあったのは、事実だ。

 事故以来、元々の引っ込み思案に加え、世の中の不幸を全部背負ったような劣等感(あるいは歪んだ優越感)と、妙に冷めた達観したような勘違いがブレンドされて、いっそうおひとり様好きになっていたのだ。

 周りもわたしも、お互いに距離感がつかめず、けん制しあっているうちに、新学期は過ぎていった。気がつけば、わたしの周囲に、空気のような見えない壁が出来てしまっていた。

 ちなみに、秋の新学期になって、唯一その壁を飛び越えて(というか、突き破って)きたのは、栄子だった。当時から、怖いもの知らずというより、空気を読まないキャラだった栄子は、あっという間に、わたしとの距離を詰めてしまった。いま思えば、あれは彼女なりの優しさで、ひとり浮いているクラスメイトに対する、精一杯の気遣いだったと思う。もちろんただのお節介かもしれないけど、感謝していることに変わりはない。

 ともかく、まだ栄子と親しくなっていなかった夏休み中のわたしは、遊びに行く友だちもおらず、お金など当然持っておらず、毎日ゴロゴロしたり、家事をしたり、たまに宿題をしたりして、やり場のないモヤモヤしたものを、もてあましていたのだ。


どこかに行きたい。

  ↓

夏休みだ。

  ↓

海にしよう。


 と、いうような単純な連想ゲームの結果、わたしは母さんに直訴した。

 印刷会社は、お盆は連休になる。町のお父さまがたをあてにしている夜のお店も閑古鳥が鳴く。その意味では不可能な話ではなかった。

 ただ、もともと「田舎」というものがない我が家は、父さんが元気なころでも帰省したりはしていなかった。それに両親とも人ごみ嫌いなため、お盆休みは家でじっとしていたり、近所のプールで遊んだりするのがせいぜいだった。

 特にこの夏、働きづめの母さんは、たまの連休くらいはゆっくり、のんびり、していたい気持ちがあるはずだ。それが想像つくくらいの分別は、小学生のわたしにもあった。

 でも、そのときは、どうしても出かけたくてしかたがなかった。

 わたしは、酸欠になった金魚みたいだったのだ。口をパクパクさせて、あえいでいた。

 どこか日常とは違う空気を吸って息をつかなければ、おかしくなってしまいそうだった。

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