第15話

【21:38】

 ぽつぽつと額にあたる雫を感じながら、勝手口の先のブロック塀を越えた。如月メイは軽々と。わたしはどうにかこうにか。

 ジャンプして塀の上辺に手をかける。両腕に力をこめて身体を引き上げる。スニーカーのソールが、ブロックをグリップする。片足をモタモタとずり上げて、塀のてっぺんに引っかける。最後は、不格好な走り高跳びのベリーロールみたくなった。

 何とか向こう側に下り立つと、そこは路地だった。わたしがやって来たのを一応確認してから、如月メイは走り出した。よろよろとそれに続いた。本日二度目のダッシュ。すぐに息が切れる。顎が上がる。

 方角は北。町の南の縁を回ってきたので、次は反対側に行こうというのか。

 頑張ってはみるものの、あっという間に小走り程度のスピードにスローダウンしてしまう。それでも両手を必死に前後にかいた。体育祭でもこんなに真剣になったことはない。低気圧がやって来たせいか、かき分ける空気が肌寒く思える。足がもつれる。身体が傾いだ。転びそうになる。それを何とかこらえた。

 必死で動いているのは、身体だけではなかった。脳裏では、今さっき目撃したシーンがリピートされている。

 夢じゃなかった。

 襲撃犯は実在した。

 いや、これもまだ夢の中なのか?

 一瞬だけ背後を振り返るがそこには、暗い路地と町が何事もなかったかのように、じっと息をひそめているだけだ。

 もう相手を振り切っただろうか?

 だがさっきも〈敵〉は、気配を殺して近づき急襲してきた。この密やかな家並みや電柱やガレージのどこかに、わたしを虎視眈々と狙う双眸が今も隠れているのではないか?

 ダメだ。わたしは走ることに集中する。

 まだ足を止めるわけにはいかない。もっと遠くに逃げなければ。ーーでもどこに?

 前方で、如月メイの背中が揺れる。相変わらず確信に満ちた足どりだが、対照的にわたしの心はちぢに乱れている。脳裏では答えの出ない問いがグルグルと廻っている。

 

 どうして、

 犯人は、

 わたしが、

 あそこにいることが、

 分かったんだろう。

 そんな、

 疑問が、

 グルグルと、

 グルグルとーー。

 

 少し歩調をゆるめた如月メイに、わたしは追いついた。如月メイが前方を指差して、囁いた。

「あそこ」

 片側二車線道路の手前側に、フロントを左に向けてランドクルーザー(?)が駐車してあった。ルームランプはついていなかったが、傍の街灯の光で中に人影が見えた。パトロール中の警備部だろう。

 どんな風に迂回するか逡巡していたわたしたちは、ほとんど棒立ちで路地にたたずんでしまっていた。それが油断だった。

 背後で乾いた破裂音がした。

 一瞬にして、車のサイドウィンドウが砕け散った。わたしは悲鳴を上げて、しゃがみ込む。呆然と車を見やる。立て続けに轟音。耳をふさぐ。左のサイドドアに、無数の穴が穿たれた。

 如月メイは、思いきった行動に出た。躊躇なく飛び出すと、自動車に駆け寄っていった。わたしも慌てて後を追う。フロントを回り込んで、運転席側に行く。如月メイが、右のフロントドアに手をかける。開いた。ロックされてない。

「おい、そこ! 何してる!」

 どこからか、怒声がした。

 振り向くと、路地から現れた男が近づいてきた。

 男が腰に手をまわしたとき、また轟音がした。男が身をかがめる。拳銃を抜き放つと、発砲してきた〈敵〉に向かって乱射した。応戦しながら、男は路地へと退却していく。

 それを見定めて如月メイが、フロントドアを開けた。助手席の男が、運転席側に頭を傾けてぐったりとしていた。左の肩が醜くはぜて、血塗れになっている。わたしの口から自然と悲鳴が溢れた。

 かまわず如月メイは、助手席の男を引っ張り始めた。男はシートベルトをしておらず、ぐんにゃりとした物体になっている。呻き声がしたので、生きてはいるみたいだった。

「てつだって」

 如月メイにうながされて、無我夢中で男を外へ引きずり出した。何をするのかと思ったら如月メイは、そのまま中に乗り込んだ。ずいっとわたしのほうに顔を向けて、キーがついている、と短く言った。エンジンはかけっ放しだった。

「のって」

 わたしは慌ててリアドアを開けて、後部座席にダイブした。ドアを閉めて叫ぶ。

「運転できるの!?」

「できない」

 如月メイがこともなげに答える。それでもアクセルを踏み込んだらしく、エンジンがうなりをあげた。ものすごい空ぶかしだった。わたしは必死に、母さんと修平さんと三人で、ドライブに行ったときを思い浮かべた。

「たぶん、ここ」

 わたしはシフトレバーをつかんで、「D」の表示に入れた。次いで、ハンドブレーキを下ろす。とたんに、車が急発進した。加速感。実際にはわずかな時間だったろうが、意識の上では引き伸ばされ、コマ送りのように感じられた。ぐんっと景色が後ろに流れた。世界が、右に左に揺れた。

 ワイパーを使っていないので、打ちつける雨がフロントガラスに広がり、視界が酷く悪い。直進道路を車が何十メートル進んだのか、百メートル単位で進んだのか、見当もつかない。やめて、と叫んでいた。ブレーキが踏まれたようだった。自動車が、ふいにたたらを踏んだ。がくがくと前後左右に身をゆする。咳き込むようにつんのめって、車は止まった。

「っつう!」

 急停止で、おでこをどこかにぶつけた。こわごわと目を開けた。車が壁にでもぶつかっていると思ったが、そんなことはなく、車道の真ん中で停車しているだけだった。なんとか死なないですんだようだ。しかし無茶をする。わたしは、頭をさすりながら、運転席をのぞきこんだ。

「大丈夫!?」

 如月メイが、ハンドルに顔をうずめていた。どうしよう、死んじゃったんだ。わたしは血の気が引いた。

 すると、ううん、とうなり声が漏れて、如月メイが身じろぎした。

「大丈夫なの?」

 顔をあげた。目の焦点があっていない。わたしは身を乗り出し、如月メイの肩をつかんだ。驚くほど華奢な肩だった。

「どこか痛いの?」

 ようやく、如月メイの目とわたしの目が合った。

「あなたは、だいじょうぶ」

 逆に訊かれた。わたしは、大丈夫、と答えた。如月メイが振り向いた拍子に身体が当たって、ワイパーが動き出した。今さらですか。なぜだかおかしくて、笑いが出た。如月メイの目が心なしかほころんだ。そこで車が、するするっと前進していることに気がついた。

「危ない!」

 警告したが遅かった。滑るように転がった自動車は、縁石にぶつかってタイヤを擦りつけた。如月メイが慌ててブレーキをふんだ。

「おりよう」

 すかさず、如月メイが言った。異論はなかった。

 このまま車を運転して逃げられるとは思えなかった。もうドライブはこりごりだ。

 わたしはうなずくと、ドアを開け、車を降りた。

 さっきより大粒になった雨滴が、降りかかってくる。

 ぐおん、とエンジン音が迫って来た。まずい。わたしたちは慌てて駈け出した。

 背後から強烈なライトが照射された。あと少しで横道に潜り込めるところだった。わたしたちを追い抜いたランドクルーザー(?)が、行く手に回り込み、止まった。方向転換しようとしたが遅かった。

 車内から男が二人、飛び出した。長い銃を構え、警告する。

「止まれ! 動くと撃つ」

 わたしはとっさに、両手を頭の上にあげた。映画のように。

 二人の男たちは、テレビで見たことのある兵士の服装をしていた。戦闘服というやつだろうか。自衛隊のお兄さんたちのような、モスグリーンというか汚い色の上下に、ごついブーツを履いている。頭は短く刈りそろえていた。

 兵士たちはぴたり、と銃口を向けたまま、静かに接近してきた。

 わたしは凍りついたように動けなかった。視界の隅で如月メイが、わずかに身動ぎするのが映った。だめ。抵抗しないで。かないっこない。

 男たちは、わたしたちを取り囲むように止まる。それ以上、近づいて来ようとしない。男のひとりが、口元に手をやり喋った。

「ディ・ブロックにて、エーイー二名を確保」

 ザッ、と無線が鳴った。

「了解」

 男が短く答えた。それはゲームの終了を告げる合図のようだった。

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