第13話

【21:24】

 女性の名前は、しのはられいさんといった。

 わたしは、布ガムテープを使って、しのはらさんの身体をさらに、イスに縛りつけていた。

「ごめんなさい。窮屈だけど」

 言葉とは裏腹に、わたしは手を止めなかった。しのはらさんは黙って、わたしの言うなりになっていた。まあ、口を布ガムテープでふさがれていたから、しゃべろうにもしゃべれなかったのだが。

 わたしたちは、しのはらさんが入ろうとした家の、リビング兼ダイニングキッチンにお邪魔していた。家の間取りは、夕方に忍びこんだ家とほぼ同じに見えた。キッチンの横に勝手口。庭に面した大きい窓には、カーテンが引かれている。しのはらさんは、カーテンを背に、背もたれのあるイスに座らされていた。

 どうやらこの家は、警備部の人間の詰め所というか、休憩所になっている場所らしかった。大きめのダイニングテーブルの上に、飲みかけのペットボトルや、手荷物らしきポーチ、小ぶりなワンショルダーバッグなどが置いてある。

「はい。終了」

 しのはらさんの両手と両足をぐるぐるに巻きつけて、わたしは立ち上がった。この間、如月メイは、相変わらずしのはらさんにナイフを突きつけたままである。

「こんなにしちゃって、これからどうするの?」

「みちがあるか、きく」

 如月メイの答えは、簡潔だった。ガムテープを取るが大声を出さないようにしのはらさんに言い含めると、わたしがそれを剥がした。

 テープを剥がされた痛みに顔をしかめながらも、しのはらさんは落ち着いた声音で、口を開いた。

「あなたたち……病院から抜け出してきた子でしょ?」

 わたしは否定も肯定もしなかった。頭のどこかに〈いいえ逃げだしたなんて何かの間違いです〉と言ったら、ことが丸く収まるのではないかという考えが離れなかった。それは彼らが本当にわたしたちをーーいや、「わたし」を追跡しているのだろうか、という疑問に繋がる。つまり、追われているのは如月メイなのではないか。

 ここに至って、自分だけは助かりたいという卑しい心根を胸の奥底に見つけてわたしは、密かに自己嫌悪に陥った。

「あなたは、けいびぶ」

 そんなわたしの胸のうちも知らずに、如月メイが話しかけた。ナイフは、微動だにさせぬままだ。

「そうよ。あなた、如月メイさんでしょ? 大丈夫? 疲れてない?」

「わたしたちは、この町のそとにでたい」

 如月メイが問いかけを無視して、質問する。

「はしのほかに、そとへでるみちは、ある」

「わたしは、知らないわ」

 しのはらさんは、首を振った。

「ここに来た時はあの橋を車で渡ったし、ほかに道があるなんて聞いたこともない」

「じゃあ、このあたりのちずは、もっている」

 しのはらさんは口を噤んだ。探るような眼で、わたしたちを見比べる。この秘密めいた町について、わたしたちがどれだけ知っているのか思案しているのだろうか。

「……地図は、本部に行けばあるかもしれない」

「ほんぶ」

「病院の近く。警備部のオフィスがあるところよ」

 今度は如月メイが、首を振った。彼女の選択肢の中に〈戻る〉というのはないのだろう。しのはらさんは、説得するように言いつのった。

「ねえ、あなたたち、今からでも遅くないわ、このテープをほどいて一緒に病院へ帰りましょう。あなたたちは、その……病気なのよ」

「わたしたちは、びょうきではない。わたしたちは〈反在者〉」

 如月メイは素っ気なく答えると、地図が本当にないか確かめてくる、とわたしに言い放った。どうやら家探しをするつもりらしい。「わたしは?」と問うと「この人を見張りながら一階を探して」と申し渡された。

 如月メイは、二階へと上がっていった。

 わたしは、手始めにリビングのサイドボードの引き出しを開けてみた。目の前で物色するのは、気が引けるが仕方ない。

 引き出しの中には、マジックペンやハサミやドライバーなどが雑多に放り込まれていた。詰め所になるまえは、誰かが実際に住んでいたのだろう。生活感が感じられる中身だった

 あちこちの棚や引き出しを、次々に開けては閉めるを繰り返した。役に立ちそうなものは、見つけられなかった。

 ふと思いついて、しのはらさんを振り向いた。

「あのう、すいません。スマホ、持ってませんか?」

 しのはらさんは顔をしかめ、持っていてもこれじゃ出せないわ、と言った。如月メイがいなくなって、少し落ち着いたらしい。

「持ってるんですか?」

 一応、持ち主の意思を尊重している風にわたしは言った。

「持ってないわ」

 しのはらさんは、うっすらと笑みを浮かべて答える。

「ここではスマホは必要ないの。持っていてもどうせ電波は入らないし」

 わたしの視線は、ダイニングテーブルの上のポーチとワンショルダーバッグに注がれた。来たときからここにあった物で、ポーチはおそらく、しのはらさんの私物だと思われた。

 しのはらさんの言葉を信じる理由はなかった。何より、手の届くところに外の世界へ開く窓があるかと思うと、いてもたってもいらなかった。母さんのスマホの番号は暗記している。繋がれば、すぐにでも迎えに来てもらえるんじゃないか。

「ーーごめんなさい」

 わたしは形ばかり断ると、ポーチを手に取った。中にはハンカチやルージュ、コンパクト、ポケットティッシュ、キーホルダーなどがつまっていた。

 でも、スマホはなかった。普段、ラインと音楽配信くらいしか用のないスマホだけど(もし学校で、“スマホを使いこなせていないランキング”を開いたら、わたしは間違いなく十位以内に入るだろう)、誰かと繋がる手段があるのとないのとでは雲泥の差がある。ワンショルダーバッグも開けてみたけど、こちらには家のとおぼしき鍵とお財布しかない。

 がっかりしてわたしは、カウチに座り込んだ。

「ね、なかったでしょ」

 しのはらさんが、子どもに言い聞かせるように念を押した。

「もう一度言うけど、今からでも遅くないわ。病院に戻りましょう」

 しのはらさんは、声をひそめた。

「如月メイさんは……その……ちょっと変ってる子でしょ。でも、あなたは違う。あなたは普通の子よ。彼女と一緒になっていることはないわ」

「あの子のーー如月メイの言っていることは本当なんですか。わたしたちは、その……〈反在者〉とかいうものなんですか」

 しのはらさんは答えずに、わたしの顔をじっと見つめた。こっちの気持ちが落ち着くような、確信に満ちたまなざしだった。

 突然、胸が苦しくなった。思わずわたしは、両手で顔を覆っていた。

「お願い……わたしを帰して……」

 もううんざりだった。森を歩きたくなんかなかったし、こそこそと隠れるのも嫌だった。家の布団に潜り込みたかった。あれだけ息がつまりそうに感じていたアパートの部屋が、懐かしかった。母さんに、修平さんに会いたかった。

「かわいそうに、つらい目にあったのね」

 しのはらさんに声をかけられた。びっくりするくらい優しい響きだった。

「でも、お家に帰りたいのなら、やっぱり、病院に戻るべきよ。ねえ、あなたたちはーー病気なんだから」

 顔をあげた。わたしはーー思いがけずに、しのはらさんの言葉に動揺してしまっていた。


《あなたたちは病気なのよ。》


 そう、どうして彼女の言うことが間違っていると言えるのだろう。少なくとも、如月メイが病気でないなどとは、言えないのではないか。疑ってみれば、あの子にはおかしなところが多い。だいたい、〈反在者〉などと言う存在は、出来の悪いお話じみている。


 すべてはーー。


 すべてが、如月メイの妄想でないと、どうして言い切れるだろう。


 わたしはにわかに、足元が崩れおちていくような感覚におちいった。精神のバランスを失った人が入院する病院があることは聞き知っている。あの病院は、そういうところではないのか。そしてーー。

 わたしもそこに、入院していたのではないか。

 

 ーー待って。

 

 それでは病院での出来事は、どう説明をつければよいのだろう。如月メイがどうであれ、わたしが病気であれ、病院で何者かに襲われたのは事実に思われた。


『とほい空でぴすとるが鳴る。』


 そこまで考えて、わたしは恐ろしい可能性に行き当たった。

 あの襲撃は、現実に起こったことだろうか。拳銃で狙われるなんて、〈反在者〉云々よりもリアリティがない。

 あれがーー。

 あれがもし、わたしの幻覚だったとしたら?


《あなたたちは病気なのよ。》


 ほんの束の間のあいだに、わたしの周りの世界がグニャリと変質してしまったようだった。

 気がつくと、しのはらさんがわたしの顔を、心配そうに見ていた。そのまなざしが、まるで憐れんでいるようにも感じられて、わたしはいたたまれなくなった。

「夕方に、病院で事件があったのを知ってますか」はやる心を押さえて訊く。「発砲事件です。看護師さんが銃で撃たれて……」

 わたしはその情景を、まざまざと思い出す。

 あのとき、ピンクの白衣が、一瞬で鮮紅色に染まったことを。

 あの看護師さんは助かったのだろうか。

 あらためて、ぞくり、と全身が総毛だった。

「今日は夜までオフで家にずっといたから、外のことはよく知らないけど……」しのはらさんは肩をすくめた「何か騒ぎがあったのは確かみたいね」

 彼女の言質が取れず、わたしは歯がゆかった。さらに質問しようとしたとき、如月メイが二階から降りてきた。

「なにかみつかった」

 彼女はわたしを見て、眉をひそめた。

「だいじょうぶ」

 きっとわたしは、幽霊にでも出会ったように顔色をなくしていたに違いない。それに、如月メイからそんな普通のいたわりをもらうとは、思ってもいなかった。

「ちずはなかった。かわりにこれをもってきた」

 戦利品を如月メイがかかげた。それは二人分の雨具で、ほとんど黒に近いような、くすんだ濃い緑色のポンチョだった。

「これはもらう」

「いちいち断りを入れるなんて、ずいぶん丁寧な泥棒さんね」

 しのはらさんが、皮肉を言う。

「わたしたちは、うしなったものを、とりもどしたいだけ」

 如月メイが、悪びれもせず返したときだった。

 ガシャンッ、という甲高い破裂音が、耳にとどいた。とっさに音のしたほう、庭に面したガラス戸を見ると、閉じたカーテンの下からガラス片がこぼれ出てきた。同時に、ごん、と重いものが床に叩きつけられた。

 ガラス戸が割れて砕けたのだ、と気づいたときにはもう、床から赤い炎と白煙が噴き上がっていた。

 拘束されている上に、背後の状況がつかめないしのはらさんが、悲鳴を上げた。わたしは逆に、息を呑んで固まってしまった。

 部屋中が瞬く間に煙でけぶる。視界が奪われる。突然の炎と煙で、わたしの思考はバラバラに散らばった。

(爆弾?)

(逃げなきゃ!)

(死んじゃう!)

 反射的にその場に伏せそうになったとき、肩がつかまれ引っ張られた。デジャヴ。病院のときと一緒だ。如月メイだった。如月メイは、すでに移動を開始している。わたしも無我夢中でついていく。

 そこからの一連の動きは、スローモーションのようだった。いやわたし自身がスローモーションのシーンに入り込んでしまったと言えばいいか。

 ガラス戸がスライドして、カーテンが乱暴に引かれる。煙にむせぶしのはらさん背後から、ぬっと黒ずくめの影が現れた。侵入者が床のガラスを踏むパキッという音が、残響のように聞こえる。影が邪険に、イスごとしのはらさんを倒す。煙をかき混ぜて腕が突き出された。その先端で、まがまがしい銃口がこちらを狙っている。わたしの身体は、もどかしいくらいにゆっくりとしか動けない。プールの中にいるみたいに。

 

 銃口から視線を外せないままーー。(もう、間に合わない。)

 銃声がこだましーー。(ほら、撃たれた)

 わたしは足をもつれさせーー。

 

 だがその瞬間、のけ反っていたのは、襲撃者のほうだった。銃口が斜め上にそれた。再び肩をつかまれる。

「こっち」

 わたしは今度こそ走り出す。視界の隅で、二つのことを同時にとらえていた。如月メイがナイフを影に投げつけ火線をそらせたこと。シュウシュウと音を立てて激しく煙を吐き出すモノが、発煙筒であること。

 出口まで、ほんのわずか。

 如月メイが勝手口の扉を開く。さあっ、と夜気が入り込んでくる。湿ったような、雨を予感させる肌ざわり。

 わたしたちは再び、夜の闇に躍り出たのだった。

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