第12話

【21:03】

 右手にフェンスを見ながら、つかず離れず歩き続けた。

 足の痛みは治まるどころか、鈍痛となって、どんどん、ひどくなっているようだった。思考能力が低下しているのが、自分でもわかる。立て続けにいろんな出来事があいついだこともあり、何も考えられなくなっている。押し寄せる蚊を、おいはらう気力もなくなっていた。

 すでに道と呼べるものはなく、草むらの勢いの弱いところを選んで進むふたりの足どりは、あまりスムーズとはいえなかった。如月メイが、ふいに歩調をゆるめた。

「どうしたの?」

 如月メイが、唇に人差し指を当てた。

 わたしは彼女ごしに、行く手をすかして見た。

「いえが、ちかづいている」

 眉根を寄せて、如月メイが呟いた。

 彼女の言うとおりだった。左の方角に、さっきまで離れていたはずの町の明かりが見える。右手のフェンスの向こうはいま急傾斜の崖なのだが、それがせり出してきて、左の町へと食い込んでいる。どうやら、フェンスと街自体が隣接している区域に来てしまったらしい。目の前には、もうすぐ住宅の裏手が近づいていた。

「いったん町へ戻るしか、ないんじゃない?」

 わたしは言った。これ以上、フェンス沿いに歩くことはどう考えても難しい。暗闇の中で崖の際を歩くのはぞっとしない。だとすれば、住宅地に侵入して突っ切り、町の出口の「橋」とやらに行くしかない。

 如月メイが、時計を取りだして、時刻を確認した。夜の九時。まだ人びとが眠りにつくには、早い時間帯かもしれない。どれだけの数の住民がこの町にいるのかは知らないけど、それだけ発見される可能性も高くなるだろう。

 わたしたちは、ぼそぼそと小声で相談しあった。

 このままここで、夜が更けるまで待つこともできる。二時間くらい経って十一時すぎれば、少しはリスクが下がるかも。だけど、ただいたずらに時間を浪費してしまってよいものか。

 わたしは逡巡して固まってしまった。いや、くたびれて動けなかっただけなのかもしれない。

 すると、如月メイが歩き出した。

「ちょっと」

 止める間もなく、ずんずんと進む。

「ねえ、行って大丈夫なの」

「もどるしかないって、いった」

「確かに言った。言いましたけどね……」

 わたしは仕方なく、後からついていく。

 ひょっとしたら、如月メイはわたしの様子をおもんぱかって、歩きはじめたのかもしれない。たしかに一度立ち止まってしまったら、もう二度と動けなくなってしまいそうではあった。

 森の際までくると、かなり立派な広葉樹があった。その陰に隠れて様子をうかがった。すぐ先に、一戸建ての勝手口が見える。裏手に面したガラス窓に、明かりはなかった。耳をすませても、生活音は感じられない。たぶんこの家には、誰も住んでいないと思われた。

 わたしたちは、そろり、と木々の間から抜け出していった。

 この家の敷地も、ブロック塀でぐるりと囲まれていた。建物脇の狭いスペースを、玄関方面に向かう。

 門の外は、街灯もない細い裏通りだった。辺りは、やはりブロック塀に囲まれた家々が、墓標のように静かに列なっている。

 わたしたちは心もち前かがみになりながら、ふたり並んで夜の町角を忍び歩いた。明かりがついている、いないに関係なく、人の気配の希薄な町だと思った。まるで、何か得体の知れないものに占領されてしまったかのよう。ふと、フィニィの『盗まれた街』というタイトルを連想した。あるいはキングの『呪われた町』か。

 角を右に曲がりかけて立ち止まった。前方で、まぶしいライトがきらめいた。自動車の音がした。

 わたしたちは身をひそめつつ、目だけを塀の角から、そうっと出した。

 二、三本向こうの通りを、自動車が左から右へと通り過ぎた。車には詳しくないので車名も車種も分からなかったが、体育の高見沢先生の乗っているのに似ていた。かなりごつい車で、たしかトヨタ・ランドクルーザーとかいうやつだ。

 音が小さくなるまで待って、わたしたちはゆっくりと動き出した。

 如月メイが呟く。

「でぐちに、くるまがたくさん、あつまってきてる」

 わたしは嫌な予感でうち震えた。もし自動車の集結がわたしたちの脱走に対応するためだとするなら、警備部とやらは、かなり本気でわたしたちを狩りだそうとしているのかもしれない。

 これまで、何となく影のように曖昧模糊としていた脅威が、にわかに現実味を帯びて迫ってきたようだった。

「すこし、とおまわりする」

 左前方の細い路地に入った。如月メイが相変わらず先に立っているが、いまさらながら、彼女の先導がはたして正しい道のりをたどっているのか、ちょっと心配になる。

 わたしは頭の中に、如月メイの描いた地図を思い浮かべた。いまわたしたちは、町の東側にある「橋」を右に見て直進しているーーつまり、北方向にある町の中心部へと向かっているのだった。

 ある程度行ってから今度は、「橋」をめがけて、東に針路をとった。

 相変わらず右に左にと折れながらも、如月メイは着実に東を目指しているようだった。その証拠に、路地を縫うように歩いていても路が、進行方向へと明らかにつま先下がりにくだってるのが感じられる。つまりわたしたちは、「橋」に近づいているのだ。

 小道を抜けた先で、唐突に住宅地が終わっていた。視界が開け、二車線道路が横たわっている。道路を挟んだ奥には、例のフェンスが立ち塞がっていた。町と外界との境界線だ。

 ここが東の町外れなのだ。

 ようやくたどり着いた。

 だがわたしは、如月メイが指差す左の先を見て、絶望的な気持ちになった。

 フェンスが途切れた場所は、学校の校門よりももっと頑丈そうな黒い門扉で閉ざされていた。強力な光源があるようで、門の周囲は皓々とした明かりに照らし出されている。

 門を取り囲むように、三台の自動車が陣取っていて、自動車の脇には、大きくて長い銃器(?)をかついだ人影が警戒しているのだった。どうやらそれが警備部の人びとであるらしいが、如月メイの言っていた「警察」という表現よりも、「軍隊」と言った方がしっくりくる感じだった。

 どちらであっても、町を出ようとすれば、見つからないわけはなかった。

 残酷なことに、フェンスの編み目越しに、門を抜けた先がのぞけた。

 町を出た道は、しばらく周りに何もない野原を下っていき、やがて橋にたどり着いていた。そして、橋の手前側にも、照明に浮き上がる車らしきシルエットがあるのだ。

 幾重にも厳重な警備がしかれている。

 わたしは頭を引っ込めると、塀に背をあずけて、その場に腰を落とした。

 どうしたって、脱出する望みがあるようには思えなかった。

 そもそも、ここまで見つからずに来られたのが幸運だっただけなのだ。

 張り詰めていたものが、急速にしぼんでいった。

 体育座りになったわたしは、膝に顔を埋めた。身体が突然、鉛のように重く感じられた。

 このままここで、眠ってしまいたかった。目が覚めたらアパートにいる、そんな妄想に浸りたかった。

 如月メイがやってくる気配がした。わたしの頭に手を乗せーーそのまま、なでなでした。

 わたしは顔を上げ、如月メイを見た。

 頭をなでられるなんて、小学生以来だ。それは不思議と心休まる仕草だった。

 彼女は、とてもあどけなくも、あるいはわたしよりずっと大人のようにも、見えた。場違いだったけどーーわたしは彼女の繊細なかんばせに、惚れ惚れとした。

 本当に、綺麗な子だな。

 わたしが見惚れていると、如月メイが手を離して合図した。

 エンジン音が聞こえてきた。また車だ。

 慌てて立ち上がり、路地の奥に引き返した。

 うなりを立てて車が、二車線道路を進んでくる。見つかったのだろうか?

 そうではなかった。車は、わたしたちの隠れている場所の手前で停まった。

 ドアが開く、ガチャリという音。人の降りた気配があった。

「ありがとう」

 女性の声がした。

 それに応ずる男の声。

 ドアの閉まる音。

 再び車が動き出しす気配。どうやら、Uターンをしているようだ。やがてエンジン音が遠ざかっていった。

 今度も充分にやり過ごしたつもりだった。

 わたしたちが路地から抜け出したのと、女性が一軒の家に向かって鍵を出したタイミングが、たまたま一緒だった。

 はちあわせしたわたしたちは、一瞬、お互いの目を見つめあった。彼女の目が、何かに思い当って見開かれた。

 三者三様のリアクションが、同時に起こった。

「あの、わたし、怪しい者じゃ……」

 わたしはとっさにそんな言い訳を口にしていたが、考えてみれば充分に怪しい。怪しすぎる。

 女性は鍵を落として、なめらかに腰に手を回していた。あとでわかったがそれは、拳銃を取り出そうとする動作だった。

 一番素早かったのは、如月メイだった。

 稲妻のように全速力で突進すると、女性に組みついた。女性が、仲間を呼ぶために声をあげようとした。その口元を覆う。

「しずかにして」

 手品のような鮮やかさで、如月メイの手に果物ナイフが握られていた。如月メイはその切っ先を女性の頬にあてた。もうちょっとで、瞳に到達しそうだった。刃がギラリときらめいた。女性の手が、固まった

「さわぐと、きる」

 顔の傷と相まってか、如月メイの言葉には、妙な迫力があった。女性はおそらく、こうした状況に対しての何らかの訓練を受けているのだろう。思いのほか落ち着いた物腰が、それを想像させる。だが、彼女がそのテクニックを発揮するまえに、如月メイのナイフが顔を切り裂くのは、確実に思われた。手にしたナイフと同じく、真っ直ぐに、躊躇わずに、彼女はそれをなすだろう。

「わかったら、めをとじて」

 女性はわたしに救いを求めるような一瞥をくれたが、すぐに観念したように眼を閉じた。如月メイの指示でわたしは、女性のヒップホルスターから拳銃を引っ張り出した(この用語は、海外のミステリ小説で知っていた)。黒光りするその凶器は、びっくりするくらい軽く感じた。

 次いで、バックパックから布のガムテープを取り出すと、それで女性の両足首をグルグル巻きにする。両手も後ろ手にして、グルグルに留めた。このバックパックは、猫型ロボットのポケットみたく、必要なものが何でも出てくる。わたしは、如月メイの用意周到さに舌を巻いた。

「いえのなかに、はいる」

 如月メイが、決定事項のように告げる。

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