第11話

【二日前】

 ため息をつく。

 胸が締めつけられる。

 わたしはスマホのディスプレイを眺める。

 そこにはさっきから、一つの番号が表示されている。

 世界を変えるのはたやすいこと。たやすくとても難しい。

 通話ボタンを一つ押すだけなのに。

 そのわずかな動作が、どうしてもできなかった。

 修平さんが出たら、まず、なんてあいさつしよう。

 「こんにちは」じゃなれなれしい?

 「お久しぶりです」じゃ仰々しい?

 どんなことを話せば会話が弾むのだろう?

 そう、わたしは修平さんのことを何も知らない。

 お父さんとお母さんの親友であるという以外は。

 家でどんな格好をしているかとか、どんな食べ物が苦手なのかも。

 わたしの持っている武器はあまりに少ない。

 それがわたしをしり込みさせる。

 それでも。

 わたしはありったけの勇気を絞り出した。


□□□


 などと、気恥ずかしいポエムを披露するでまもなく、連絡をとって待ち合わせをする必要すらなかった。この時間の修平さんの居場所は知っている。アーケード街の外れの小さな喫茶店だ。

 残念ながらこの町には、〈街〉のような「カフェ」は存在しない。あるのは、ショウ・ウィンドウのレプリカのスパゲティに埃の積もった、古びた喫茶店だけだ。

 ガッコウの友だちはみんな、国道沿いのマックにたむろしているので、こっちのお店には、もう何十年来の常連みたいなお年寄りのほかには、修平さんくらいしか使っていないと思われた。

 赤いレンガ造りを模したビルの二階に、その店は入っていた。ガタピシいうエレベーターではなく、階段で上がっていく。

 わたしが、カランコロン、と音を立てるドアを開けると、修平さんはやっぱり来ていて、店の一番奥のボックス席でノート型パソコンを広げていた。

 今日はプリントのある白いTシャツに水色の半そでシャツを重ね、下はチノパン姿だった。学生みたいなその姿が、木目調で統一された渋い感じの店内に、何故かすごくしっくりとなじんでいる。

 修平さんは、わたしが目の前に座るまで気づかずに、パソコンの画面に見入っていた。

 ボリュームを落としたクラッシックがBGMとして流れていて、キーボードの上を、十本の指がピアノの演奏をしているように滑らかに、リズミカルに動いている。

「修平さん?」

 わたしは思い切って、少し気取った声で、話しかける。

 修平さんの指が止まり、びっくりしたように眼をぱちくりさせる。

「やあ、遠子ちゃん。久しぶり」

 真剣だった表情が、ふいに笑顔に変わる。陽だまりの猫みたいだ。修平さんは母さんと同い年だから今年で三十六歳になるはずだが、そうして笑顔を見せると、あっという間に若返ってしまう。

 わたしは彼のそんな顔が、とても好きだ。

 仕事を邪魔されたというのに修平さんは、まるで自分の家にいるみたいに、わたしを向かいの席に招き入れた。

「何か飲むかい? コーヒーでいい?」

「はい」

 お店と同じくらい年を重ねたウェイターさんが音もなくやってきて、注文を聞いていった。修平さんが頼んだのはブレンドだった。内心迷惑をかけているかもしれないと感じつつわたしは、〈コーヒーをおごられにくる図々しい知り合いの高校生〉というポジションを手離したくなかった。それ以外で、修平さんに接近できる術が思いつかなかった。

「学校の帰り?」

 修平さんがパソコンを横によけながらきいた。わたしは制服姿なので、当然の推理だった。

「遠子ちゃんは、部活動はやってなかったんだっけ」

「帰宅部です」

「懐かしいなその言葉。そう言ってたよ。ぼくたちの頃も」

 手元のカップを持つと、修平さんは美味しそうにすすった。冷え冷えのコーヒーを、こんなに美味しそうに飲む人も珍しい。

「修平さんは、新作ですか」

「うん。まだ書き出しでね」カップを下に置く。「そうだ、ちょっと教えてほしいんだけど、いいかな?」

「なんです」

「遠子ちゃんは、告白するとしたら、SNSかな」

「は?」

「それとも、やっぱりフェイス・トゥ・フェイスかな」

「えっと……」

 つい先日の、ショータ君の真剣な表情が頭の中で閃いて、わたしは少しうろたえた。少なくとも、ショータ君はわたしの眼を見て、必死に言葉を絞り出そうとしてくれた。

「いやどうなのかなって思って。いま時分の高校生はーー。あ、これってセクハラになるかも? ゴメン、忘れて」

 慌てる修平さん、ちょっと可愛い。

 それがただの取材であることは分かっていても、面と向かってきかれると、ちょっと、どきどきするのも事実だ。そういうとこだゾ、無自覚さんめ。

「さあ……」

 わたしはあいまいに答えた。本当に分からなかったからだ。

 今まで誰かに告白しようと思ったことは(ひとりをのぞいて)なかったし、実際、したこともなかった。バレンタインのチョコは、いつも友だちにあげている。

「高校生が出てくるお話を書いているんですか?」

 これから書く予定なんだけどね、と修平さんはディスプレイに視線を戻した。

「主人公は中年の会社員なんだけど、彼の子どもが高校生の女の子なんだよ。父一人子一人で。主人公のお父さんは、娘の考えていることを知りたくて、ついスマホを盗み見てしまう。マナー違反だね。するとそこに、娘が同級生に告白したSNSを見つけてしまうという冒頭を考えているんだけどーー」

「ふーん」

 親子が出てくる話と言うのは、修平さんの作品のこれまでの傾向からすると、珍しいかもしれない。

 修平さんの書いている小説は、大人同士の恋愛の話が多く、残念ながら、あまりわたしの趣味ではなかった。わたしが好きなのは、もっと大時代的で、荒唐無稽な、探偵小説だ。反対に読まない、というか苦手なのは、青春小説だ。なぜなら、『戦争を仕掛けてきたのは向こうだから』 だ。

「編集部とのやりとりでぼくもラインを使うけど、遠子ちゃんたちみたいに、はじめからコミュニケーションツールとして持っている子とは、感覚が違うんだろうなあ、と思ってね」

「やだ、修平さん。まるでおじさんみたい」

「充分、おじさんだよ、ぼくは」

 お腹も出てるしね、と修平さんは笑った。

 会話の切れ目のタイミングを計っていたみたいに、ウェイターさんが、コーヒーを運んできた。鼻をくすぐる官能的な香りを、わたしは楽しんだ。

「そうだ。遠子ちゃん。これから時間、空いてるかい」

 修平さんが、思い出したように訊いた。

「うん。別に予定は何もないけど」

「じゃあ、ちょっとつきあってもらえるかな」

「つきあうってどこへ?」

 少し期待して、わたしは言った。

「ん? 別に遠くじゃないよ。本屋」

「本屋さん?」

「そう。君らの好きなファッション誌やマンガを教えてもらおうかと思ってね」

 修平さんは、にこにこと言う。

 ーーなんだ。やっぱり取材か。

 がっかりした気持ちが表に出ないように、わたしは無理にほほ笑んだ。同時に、ある考えが頭に閃いた。

 その思いつきに、わたしの胸は破裂しそうになった。

 のど元にせり上がってくるみたいな心臓の鼓動を押さえて、わたしは言った。

「うん、つき合う。それじゃあーー修平さんもわたしにつきあってくれる?」


□□□


「こんなところ、どうやって知ったんだい?」

 修平さんが感嘆の声をあげた。

 ふふふ、とわたしは内心ほくそ笑んだ。きっと修平さんなら気に入ってくれると思ってた。

 商店街の本屋さんでご要望に答えた後、わたしは修平さんをともなって、例のお屋敷にやって来た。

 わたしは本屋さんで、文庫本を一冊購入した。アントニー・バークリーの『ジャンピング・ジェニィ』。やっぱり、古い探偵小説だった。

 日没が一年で一番遅い時期で、日暮れにはまだ間があり、お屋敷のゆるい勾配の三角屋根も、応接間(とわたしが勝手に思っている部屋)から眺める木々の緑も、輝いて見えた。

 わたしは少し自慢するように、くるり、と回って見せた。

「素敵でしょ。このあいだ、自転車で散策してて見つけたの」

 へえ、と修平さんは珍しげに辺りを見回している。

「人がいなくなってから、まだそれほど経っていないみたいだね」

 キャビネットの上の埃を、修平さんが指で拭う。

「でも、これって不法侵入だよ」

「あっ、やっぱそうなっちゃいます?」

「そうなっちゃいますね」

 にやり、と修平さんが笑った。

「遠子ちゃんは意外に、引き出しが多い子だね」

「それってどういう意味ですか?」

「面白いってこと」

「光栄……なの、かな?」

 わたしは修平さんに、お気に入りの席をすすめた。修平さんは疑わしげに、ソファを眺めた。

「大丈夫です。先週はちゃんと使えましたよ」

 わたしはうけおう。修平さんは安心したのか、腰を下ろした。そこから庭に目をやる。

 少し薄暗い部屋から目をやると、壁面のガラスが額縁のように庭を切り取って、風景画のように見えなくもない。

「ふむ。悪くない」

「でしょ?」

 わたしは修平さんの後ろに立った。同じ視線で景色を見たかったから。

「ここで何して過ごしてるんだい」

「本を読んだり、音楽を聴いたり、あとはぼーっとしてます」

「それって、家にいるのと変わらないんじゃないの」

「全然違います」

 わたしはきっぱり断言した。修平さんは、うん、と頷いた。

「そうかもね。ぼくも子どもの頃は自分だけの場所が欲しかった」

「子どもの頃ーーですか」

「よく秘密基地とか作った」

 わたしは少年時代の修平さんを思い浮かべ、微笑んだ。きっと今と同じような優しい目をして、はむっ、としたような口元だったに違いない。急に胸が苦しくなった。ああ、わたしは、こんなにもこの人が愛しいのだ、と思った。何かにふいに、つかまれたみたいだった。

「遠子ちゃんは、ほんとに面白いね」

 わたしは一歩、踏み出した。

「面白いだけですか?」

 もう一歩。もう少し。

 すぐそこにあなたがいる。

「わたし、さっき告白されたんです。同級生から」

「ーーほう?」

「ちゃんと、面と向かって、です」

 上ずりっぱなしのわたしの声に比べて、泣きたいくらい落ち着いたあなたの声音。

 坂道を転がるように、気持ちがーー止まらない。わたしは、背後から修平さんの肩を抱きしめた。これ以上ないくらい、強く。

「遠子ちゃん?」

 戸惑ったような声。わたしは答えない。答えられない。

「遠子ちゃん?」

「わたし、修平さんが好き」

 震えないで言えたことが、不思議だった。

「遠子ちゃんーー」

「分かってる。修平さんは、母さんが、好き、なんでしょ。でもーー」

 言葉に詰まる。

「わたしじゃ……わたしじゃ、ダメ?」

 修平さんの手が、わたしの腕に重ねられた。それがほどかれる前に、わたしは自分で手を離しーー。

 部屋を飛び出した。

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