第10話
【19:29】
夜の闇が濃い。夜気にむっとする草いきれが混じる。どこからか虫の音が聞こえる。
さっきから、わたしの周りをしきりと、蚊がまとわりついてくる。蚊にも都会派のヤツと、山育ちのヤツがいるのだろうか。強奪(?)した虫除けスプレーを、如月メイとむせるくらいかけあったのに、すでに何ヵ所か刺された。ここの蚊は、わたしの近所の蚊よりも根性がある気がする。わたしがつき合ってきたのは野生児ではなく、シティボーイだったのか。
街の気配はとうに後ろに流れ去り、行く手には、見たこともないような黒々とした森が迫っていた。
わたしと如月メイは、まばらな木立のなかを進み続けた。行く手に比べれば雑木林程度といえるが、下草が多くて歩きにくい。かろうじて、踏み分け道のような土の部分が足下にある。懐中電灯の心細い光が、それを浮き上がらせる。本日何度めかだが、クモの巣に顔が引っかかってわたしは、悲鳴を呑み込んだ。如月メイに、すでに注意を受けたからだ。
頭上を覆う枝葉の隙間から見える空には星が散らばっていたが、木の下闇にはその光は届いて来なかった。
もっとちゃんと理科の勉強をしておけば、少なくとも今自分がどこにいるのか、星座から分かったのかもしれないなどと、らちもないことを考えた。理科は数学の次に、わたしの苦手な教科だった。
道なき道を行く如月メイの歩行速度は一定で、まるで歴戦の登山家のよう。
ふたりとも、口もきかない。
蚊に刺された箇所もだが、わたしはさっきから、足が痛くて痛くてたまらなかった。
「ねえ、ちょっと、まって」
何度目かの弱音を吐いた。如月メイが振り返る。
「もうすこし、いってから」
「お願い。ちょっとだけ」
仕方がない、という顔で如月メイは立ち止まった。わたしは情けなくも、その場にへたりこんだ。体育は理科の次に苦手な教科だ。
「今、何時?」
わたしが訊く。如月メイは、ショルダーバッグから丸い目覚まし時計を取りだして、時間を確認する。
「しちじはん」
ということは、もうかれこれ一時間は歩き続けたことになる。
わたしはため息をついた。
その拍子にふと、このあいだ見た、情報系のテレビ番組を思い出した。
不動産物件の表記に使われる、「○○駅徒歩×分」というのは、およそ八十メートルで一分と計算する、とそのとき説明していたはずだった。だとすると、わたしたちがあの家を出てから、六十分×八十メートルで、四千八百メートル。実際はわたしたちの歩みはもっと少し遅いだろうから、(直線距離ではなく)道のりで、およそ四キロくらいは進んでいるのではないか。
もっともそんな計算がなんの役に立つのかは、分からなかったけど。
「あのさ、お腹空かない?」
わたしは痛む足をさすりながら言った。
「まだ、だいじょうぶ」
「わたしは大丈夫じゃないんだけど」
「もうすこしで、まちのはずれにつくはず。そこで、ごはんをたべよう」
如月メイは譲らない。
あきらめてわたしは、立ち上がった。
如月メイの話は本当だった。いくらも歩かないうちに、わたしたちは行き止まりにぶち当たった。
森の中に唐突にフェンスが立ちふさがり、行く手を遮っていた。高さは三メートル以上はゆうにあるだろう。フェンスの上方にはトゲトゲした有刺鉄線が物々しく巻かれ、侵入者を(あるいは脱出者を)威嚇している。
「……これ、どうやって越えるの?」
わたしがフェンスに近寄ろうとする腕を、だめ、と如月メイがつかんだ。
「なに?」
「ドクターのはなしだと」如月メイはフェンスを睨んで言った。「フェンスのあちこちに、せんさーがしかけられている」
「センサー?」
わたしは後ずさった。
「たぶん、フェンスをこえるのはきけん。警備部にきづかれてしまう」
「じゃあ、どうするのよ」
わたしは理不尽な怒りを、如月メイにぶつけそうになる。しかし如月メイはそれには答えず、ごはんにしよう、と言った。
わたしたちは、雑草をおしりでつぶして、座りこんだ。
言うまでもなく、夕食は質素なものだった。盗んできた食パンを分け合い、チーズを挟んで食べた。喉の渇きを、ペットボトルのミネラルウォーターで、ぐびぐびと癒す。ミネラルウォーターは生ぬるかったが、とても美味しく感じられた。地面に転がされた懐中電灯の明かりが、わたしたちを下から照らし上げて、林間学校の肝だめしを思い出させた。
如月メイは、黙々とパンを口に運んでいる。
明かりで陰影の濃くなった顔の右側の傷が、引き攣れたように上下する。
見まいと思っていても、ついそこに目がいってしまう。
如月メイはさっき、中谷とかいう医者から暴行を受けた痕を見せた。あるいはーー顔の傷もその名残なのかもしれない。
好奇心を押さえられずに、わたしは如月メイに質問した。
「ねえ、ドクター中谷って、どんな人? おじさん?」
如月メイは、ひどくゆっくりと咀嚼を続けながらーーもぐもぐーー答えた。
「ドクター中谷は、わたしが猫町にきてすぐから、わたしの、たんとういだった。としはわからない。たぶん、さんじゅうだい」
ドクター中谷に初めて殴られた日のことを、如月メイは、まるで初めて恋人にキスされた日のように語った。実際、そうであったのかもしれない。
突然、連れてこられた見知らぬ施設での、見知らぬ生活。
毎日のように検査と試験が繰り返される。
頭部に器械をセットし、何かを計測される。
投薬。
運動。
伏せられた絵柄を当てるゲーム。
密閉された瓶からカプセルを取りだす実験。
わたしは、パンを食べ終え、膝に落ちたクズを払った。
如月メイは続けた。
「ドクターはわたしを、すきだといった。ときどき、だれもみていないところで、わたしをぶった。そしてそのあとは、とってもやさしくなった。ごめんね、ごめんね、っていった。わたしはーードクター中谷がすきだった。ドクターも、わたしをすきだとおもっていた。でもーードクターはわたしをおいて、いってしまった」
「置いていった?」
「この町はもう少しで、ほうきされる」
施設の拡張のため、猫町は棄てられる運命だった。すでに別の場所に、新たな施設が建設されているのだという。いまこの町に残っているのは、警備部や病院の機能の一部だけらしい。如月メイが脱出を決心したのも、このチャンスを逃したら、二度とここから抜け出せないと考えたからだった。
ドクターは去り際に囁いた。必ず君を迎えに来る、と。
「じゃあ、あなたは町を脱出して、ドクターに会おうとしているの?」
「……わからない。そうなのかもしれない」
そこでわたしは、もう少し踏み込んでみることにした。
「ひょっとして……その顔の傷もドクターに?」
如月メイは首を振った。
「これは、ドクターじゃない。じぶんでやった」
「自分……で?」
病院に来て少し経ったころ、如月メイに、奇妙なものが見えるようになった。視界のなかに、実際の風景とは違う映像が映り込むのだ。如月メイはそれを、世界が二重に見える、と表現した。
『世界を二重に私の目は見る。』
『二重の世界はつねに私とともにある。』
彼女の場合、それはまず、視野の狭窄から始まる。
視界が、すっと狭くなり、色を落としたように、モノトーンの風景に変わる。そこに、眼前の風景と少しだけずれた画像がオーバーラップしてくる。すると、やがてそれが明滅し、ある一つのヴィジョンを映し出す。
メイの能力〈未来視〉の発現であった。
見慣れた世界の恐ろしい変容。しかも自分でコントロールすることはできない。如月メイにとってそれは、恐ろしく、奇怪な体験だった。
だが病院のドクターたちにとっては別段、珍しいものではなかったようだ。
ーー大丈夫。君のその力はとても素晴らしいものなのだよ。
笑顔を作る口元とは対照的に、ドクターたちの目は笑っていなかった。それはモルモットやモリヤドクガエルを観察するときの、冷たいまなざしだった。
如月メイは、さらに綿密な検査を受けるようになった。その結果、ドクターたちは如月メイを、〈痙攣的能力者〉と断定した。
「ケイレン的能力者?」
「そう、わたしはーーできそこないだった」
能力を意志的かつ持続的に行使できない弱能力者のことを、病院ではそう呼ぶのだという。痙攣的能力者は、力を自らコントロールできず、組織にとって、いや、人類にとって有用ではないとされている。
如月メイの力が、実用に耐えられないと判明した時点でーー実際、
ドクター中谷以外は。
ドクターにぶたれると、如月メイは、自分がただの実験動物ではない、と感じることができた。ドクターは、如月メイを「人間」として扱った。少なくとも、如月メイはそう思った。
そのとき、如月メイの身体と心に烙印が押された。一生消えない烙印が。
ドクター中谷は、幼い如月メイに、最初笑顔で近づき、次に恐怖で支配し、最後に情報と引き換えに懐柔したのだーーたぶん。
なんだかーーやりきれない。
それはわたしが、漠然と思い描いている「愛情」とは程遠い世界の出来事だった。にもかかわらず、如月メイは、ドクター中谷を好きだと言った。
わたしが修平さんを好きなように。
『しかし、無論、恋におちるということは、帰る場所を失うということなのだった。 』
如月メイが繰り返す。
「わたしはドクター中谷が好きだった。ドクターにぶたれても、へいきだった。でもあるひ、ドクターとおおのさんが、だきあっているのが視えた」
大野とは病棟の看護師さんのことだった。如月メイは、看護師さんとドクター中谷の逢引の場面を〈未来視〉した。
そして、当然のことながら、ふたりが重なり合った場面を目撃することとなる。
残酷な予言。
見たくなかった光景。
うずまき、はけ口を求める、叫び。
わたしは想像する。
その感情をわたしは知っている。
それは嫉妬だ。
如月メイが、手に入れたハサミで自ら顔を引き裂いたのは、それからしばらく経ってからだ。
無遠慮に、無秩序に、無慈悲に挿入される、
見えなければ、現実が変わるとでもいうように。
幸いーーなのか、傷は眼球に至らず、如月メイは失明をまぬがれた。
だが
わたしは想いを廻らせる。
もしわたしが、如月メイの言う〈反在者〉なのだとして、わたしにはどんなことが起こるのだろう。わたしにも、如月メイのような〈能力〉が発現するのだろうか。
〈能力〉が有用と判断されると、わたしは何らかの仕事(?)につかされる。そうでないと判断されると閉じこめられる。
どちらにしてもわたしは、母さんの、修平さんのもとに帰ることができそうもない。できないとしてーーそれにわたしは耐えることができるのだろうか。
如月メイがようやくパンを食べ終え、ミネラルウォーターを一口飲んだ。わたしたちは、どちらからともなく立ち上がった。
どちらにせよ、わたしたちには、進む以外に道はなさそうだった。
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