第8話
【18:32】
あまりにも多くのことを一度に詰め込まれて、わたしの頭はパンク寸前だった。
わたしがソファにぐったりと沈みこんで動かないあいだ、如月メイは、何やらあたりを物色していた。
「何してるの?」
「ここから、でるじゅんび」
相変わらず素っ気ない。
彼女が右に左に動くたびに、サラサラのストレートヘアが、シャンプーのCMみたいにそよぐ。クセッ毛のわたしには、少しうらやましい。……現実逃避しすぎて、場違いな感想しか浮かんでこない。
やがて如月メイは、テーブルの上に着実に、獲物を並べていった。
クローゼットの奥にあった、二十リットルくらいのショルダーバッグを、一つ。
冷蔵庫からはいしゃくした、ミネラルウォーターのペットボトル(500ml)が、三本。
同じく冷蔵庫から食パンのビニール包みと、円いプロセスチーズの箱を、一つ。
缶切りのいらないツナ缶が、二個。
ケースのついた果物ナイフが、一丁。
手のひらサイズの目覚まし時計(時刻はおよそ六時半を指していた)が、一個。
その他、もろもろ。etc.
「どうするの、この荷物?」
「もっていく」
「えっ? それって泥棒じゃないの?」
〈それが何?〉という目で如月メイがわたしを一瞥した。彼女にとっての優先順位は、わたしとは違うようだった。おそらくは〈この町を脱出すること〉が、彼女の最優先事項なのだろう。
止めなよ、という言葉をわたしは呑み込んだ。わたしに、如月メイの行動を非難する資格なんてないように思えた。
そのとき、わたしが連想したのはまたも場違いなこと、一見いまの状況と全然関係ない別のことだった。去年、栄子の部屋で、栄子の従姉の沙和さんと三人で、映画を観たときの出来事だ。
その映画に出ていた【普通の高校生】役のヒロインが、クラスメイトのイジメに堪えかねて、相手の家のガレージにスプレーで落書きをした。沙和さんはそのシーンに大変ご立腹で、「いくらイジメられていたとしても、あんな迷惑なことをするなんて許せない」と憤っていたのだった。すると、上映直前までマンガの話をしていた栄子が、「でもルルだって【殺し屋】だよ。人殺しだよ」とツッコンだ。ルルというのは、沙和さんの推してるマンガのヒロインの名前だ。沙和さんはそれに、「あれはそういう設定だからいいの!」と反論していたのだった。
わたしは二人の話をぼんやりと聞きながら、オレンジジュースをストローでズズッと吸って、つらつらと思いを廻らせた。お話好きのわたしには、面白いテーマだったからだ。
なるほど【普通の高校生】の基準からすれば、落書きというのは、結構な犯罪だろう。それに書かれた方にすれば、酷く迷惑なのも確かだ。落とすのに、お金だってかかる。
一方、単純に罪の重さで言うなら殺人の方がよっぽど酷い気もする。なのにそっちを行っているルルちゃんは「別に構わない」。というか寧ろ「推してる」と沙和さんは言う。
二つを【フィクション】という同じ土台で考えると、その違いはどこなのだろう?
それは、今の自分の立場が思い起こさせた記憶だった。
今のわたしは、【普通の高校生】なのだろうか? それとも【反存者】なのだろうか?
わたしが生きるために、他人の家の物を盗むとしてそれは、非難されることだろうか? 許されることだろうか?
何だか判らなくなってきた。
もちろん【現実世界】ではどんな犯罪でも許されはしないだろう。たとえ動機に情状酌量の余地があったとしても、罪は罪だ。【何であれ、法律に書いてある以上、ダメなものはダメ】という割り切りかたも、あるかもしれない。でもここで考えているのは、そういうことではなかった。わたしは、他人事のように如月メイを難じていてよいのだろうか? いまこうした装備が必要なのは、わたしも一緒なんじゃないだろうか?
「ねえ、この家に住んでるのは誰なの?」
だんだん混乱してきたわたしは、まだ動いて回っている如月メイに、たずねた。
「たぶん、びょういんかんけいしゃ、だとおもう。あとは、けいびぶのしょくいんか」
「警備部って?」
「そとでいう、けいさつのこと」
「じゃあ、その人たちに助けてもらおうよ!」
希望が出てきて、わたしは叫んだ。しかし如月メイは「だめ」と言下に否定して、首を横に振った。
「警備部は、びょういんのかんじゃをみはって、そとにでないようにしている。わたしたちがみつかれば、また、びょういんにつれもどされる。そしてたぶん、わたしたちは、にどと、そとにでることができない」
「ーーどういうこと?」
「わたしたちは、ずっとあのなかでくらしている。びょういんでは、いろいろなけんさをする。そしてみんなあるひ、きえてしまう」
「消えるってーーどこにいくの」
ゾクッと背筋に、悪寒が走る。
「どこにつれていかれるのかは、わからない」
如月メイによれば、病院にやって来た〈反在者〉たちは、徹底的な検査を受けるのだという。あらゆる身体測定。病気の有無。知能テスト。そしてーー特殊能力の検査。
検査の結果、用途に適合した能力があると判断された〈反在者〉は、外に連れて行かれ、何らかの任務に就かされる。だがそうでない場合はーー。
ひたすら人体実験の対象となる。
「それもドクターが教えてくれたの?」
「そう」
如月メイが、メモ用紙をわたしの前に置いた。そうして紙に、横長のだ円を描いた。
「これもドクターに教えてもらった」
説明が、いきなり始まった。
「このまるが猫町。そしてここが、びょういん」
如月メイは、だ円の中央からやや左の外れたところに、×印を書き入れた。それから、だ円の上側が北で、左側が西、というのもつけ加える。
「わたしたちがいるところが、ここらへん」
病院の少し南の下に、如月メイは☆印を置いた。
「まわりはすべて、やまでかこまれている。そとのせかいへ、もどるみちは、ここ」
だ円の東の端から、二本の線が伸びた。如月メイはそこに、「橋」とつけ加えた。聞けばその下には、浅い川が流れているのだそうだ。そして今度は、☆印から「橋」に向かい、矢印つきの線が引かれた。ただしその線は、☆印から直線的に「橋」につながるのではなく、いったん、だ円を南下してから南の縁をなぞるように反時計回りに回っているのだった。
「こうして、町のがいえんを、ぐるりとまわって、でぐちにむかっていこうとおもう」
「なんでわざわざ遠回りを? ああそうか、警備部に、見つかっちゃだめなんだ」
「それだけじゃない。あなたをねらっている、はんにんからも、にげなくてはいけない。あれはたぶん警備部とはちがう〈敵〉だとおもう」
ああそうだ、そっちもいたのか。わたしは頭が痛くなってきた。
「それで、そこからはどうするの? 出口なんて、ふさがれてるかもしれないじゃん」
如月メイは、眉をひそめた。
「いってみなければ、わからない。むかうとちゅうで、ほかにでぐちが、みつかるかもしれない。ドクターのはなしていない、でぐちが」
なんとも心もとない話だった。しかし彼女の言葉通りなら、この町から抜け出すにはーー自由を得るにはーー自分たちの力でこれをやり遂げなくてはならないのだ。
わたしはたぶん、間違っているのだろう。【普通の高校生】は他所の家に押し入ったり、物を勝手に盗ったり、警察からこそこそ逃げ回ったりはしない。でも、やるしかなかった。ジャン・バルジャンが十九年間、鎖に繋がれたのを【ダメなものはダメ】で、済ませていいと思えないのと同じく。
腹をくくったわたしはさらに、この家の住人から着がえのシャツ、アウター、パンツをもらうことにした。幸いなことに、男性も女性も住んでいたようだった。盗ったほうも盗られたほうもキモチワルイ感じがして、ショーツはさすがに無理だったけど。
特に如月メイはパジャマ姿だったので、上から下まですべてを取り換えた。
薄いピンクのキャミソールに、白いシャツ。カーキ色のカーゴパンツ。なんとか形にはなったが、やっぱり服は、どれも如月メイには、少しずつ大きかった。
それからわたしたちは玄関に回り、自分の足に合いそうな靴を探した。この先の道のりがどうなるのかは分からなかったが、病院のスリッパよりはましだろう、と思ったからだ。それぞれ選んだ結果、似たようなデザインのスニーカーになった。まるでおそろいコーデの、ペアスニーカーみたく。
ようやく準備が整うと、わたしたちは玄関をゆっくりと開けた。
日は落ち切っていたが、空気は熱を孕んでいた。まだかろうじてスミレ色を保つ闇が、濃いぬばたまの闇に生まれ変わるなかを、わたしたちは踏み出した。
自由へ向けての一歩を。
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