第5話

【一か月前】

 ひと月前のあの夜、ふたりに遭遇したのは、何かの必然だったのかもしれない。残酷な偶然だったのかもしれない。


□□□


 六月のその晩、わたしはいつもどおり一人きりの夕食を済ませて、学校の図書館から借りた本に、目を落としていた。テレビは面白そうな番組をやってなかったし、Wi-Fiなどという素敵な妖精さんは、我が家には飛んでいない。スマホの通信費は、おこづかいの範囲内でしか使えなかった。

 母さんからは、遅くなるから先に休んでいなさい、というラインが届いていた。母さんはご飯を食べてくることもあれば、食べてこないこともあるので、一応、一人分のおかずは用意してある。あとは冷凍庫でカチカチになっているラップ包装のご飯を、レンジで解凍すればいい。お母さんが食べないときおかずは、朝ごはんに回される。

 朝のニュースでは梅雨入り宣言が出され、事実うっとうしい雨が降り続いていた。こんな日は一日中、ねむくてねむくて、しかたがない。っていうか、授業中は寝てた。わたしの十八の必殺技のひとつは、黒板を見つめた姿勢のまま、ばれずに熟睡できることなのだ。

 道路に面した西向きのわたしたちの部屋には、雨滴が窓を叩く音と、ひっきりなしに行き交う自動車の音が、入り混じって聞こえてくる。

 キリのいいところまで読み終わったわたしは、コーヒーを飲もうと、台所に立った。戸棚からカップをとり、我が家のほぼ唯一の贅沢品である、コーヒーメーカーに電源を入れる。そこで紙のフィルターがないことに気がついた。しばらく流しの下や、食器棚の奥や、壁の上方の吊り戸棚を探したけど、やっぱり見つからなかった。

 飲めないとわかると、余計に飲みたくなる。

 くぅっ。

 しかたない。

 わたしは覚悟を決めて、フィルターを駅前のスーパーマーケットに、買いに行くことにした。

 アパートのエントランスを出ると、街灯に照らされた雨が、金色の筋となって落ちてくるのが見えた。粒の大きな雨で、しかも風に巻かれている。この様子では、自転車に乗るのは危険に思えた。やむを得ず、ビニール傘を開いて歩き出した。

 十分ほど暗い住宅地を歩くと、小さな商店街に行き当たる。古びた駅舎と、駅前ロータリーから延びる百メートルほどのアーケード街が、わが町のメインストリートだ。道路を挟んだ両側に店が列なっていて、店の前に歩道がある。その上を屋根がずっとおおっているのだった。

 だけど、今はほとんどの店が(時刻とか雨とかに関係なく)シャッターを下ろしている。こぢんまりとした電気屋さん、少女マンガ雑誌を立ち読みして怒られた本屋さん、グルグル回るポールがレトロな床屋さん……。どれもわたしが小学生のころにはまだ営業していたけど、気がつくと窓ガラスは埃だらけになってしまっていた。

 雨だということを割り引いても、金曜日の夜のこの物寂しさには、哀しくなる。自動車で10分くらいの国道沿いに、大きな駐車場を完備したショッピングモールができて、みんなそこで用事を全部を済ませることができてしまうのだ。だって郵便局も入っているのだから。

 アーケードの下でわたしは、ビニール傘をたたんだ。

 右に行くと駅だった。駅前には、二十四時間営業のコンビニが一軒だけあるけど、そこにはフィルターは置いていない。目的のスーパーマーケットは駅とは反対方向だった。わたしは左に曲がって、アーケードの下を進んだ。

 スーパーマーケットは、午後八時半になると店じまいをしてしまうので、わたしは少し急いでいた。ぼとぼと、と雨がアーケードを叩く。普段、アーケードは掃除もされずに埃がたまり放題だった。昼なお暗い感じなので、ちょうどよく汚れが洗い流されるといいな、とわたしはぼんやりと思った。

 お目当てまであと数軒のところで、道路を挟んだ反対側のアーケードを歩くふたり連れに、気がついた。滲む街灯の明かりの向こうに、見覚えのある青いワンピース姿。母さんだ。

 あれ、今日は仕事って言ってたけど。

 声をかけようとして、危うく踏みとどまった。親しげに連れ立っていたのはーー修平さんだった。

 修平さんは、ポロシャツに明るい色のジャケット。グレーのスラックス。相変わらず年齢不詳だったけど、どのアイテムもいつものより、少しだけお洒落に感じられた。

 反射的に顔をそむけ、物陰に隠れた。そこは、つぶれた乾物屋さんとクリーニング屋さんに挟まれたすき間で、屋根がなく、滝のように水が降りそそいでいた。傘をさすのも忘れてわたしは、その場で固まっていた。たちまち、びしょ濡れになった。

 どうしてーー。

 心臓がどきどきとした。同時に、心の中に黒い煙のようなものが、むくむくとわき上がってきた。

 修平さんは、両親の学生時代からの親友で、六年前、父さんが交通事故で亡くなった後、何かとわたしたちを助けてくれた人だ。父さんとともに剣道に打ち込んでいたという修平さんは、よく笑う、そしてとても優しい人だった。

 わたしは月に一度くらいのペースで会いに来てくれる修平さんを、密かに心待ちしていた。

 それは単に修平さんの仕事が小説家で、本が好きなわたしが、そのことに興味を持っているからだけではなかった。

 わたしは修平さんに会いたかった。

 たとえそれが夢であってもーー。


『うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものは頼みそめてき』


 それなのにーー。

 どうしてわたしに秘密にしたのお母さん? こっそりと会わなくちゃいけないことをしていたの?

 ふたりの関係はーー笑顔をのぞかせる母さんの様子を見ればーー一目瞭然だった。

 しばらく、微動だにせずに、その場に佇んでいた。

 目の前の、暗く汚れた壁を、雨垂れが伝い落ちていく。排水管から、じゃじゃじゃ、と水が吐き出されていく。足元には水たまりができていて、無数の波紋の中に、スニーカーがつかっていた。

 梅雨寒というにはあまりに身体が冷えて、歯がカチカチと鳴りはじめた。でも、わたしの心はそれ以上に、ずっとずっと、冷え切っていた。

 やがて、ひとつの言葉だけが、わたしの中に繰り返し、繰り返し、こだました。それは次第にふくれあがり、もはやわたしは、その言葉だけに満たされた。

「いやだ」

 一度口に出してしまうと、もう止めどがなかった。いやだ、いやだ、いやだいやだ……。わたしを支配する、呪いの言葉。

「いやだよ、お母さん……」

 両手で、顔を覆う。力が抜けていく。冷たいコンクリート壁に背中をあずけ、わたしはずるずると、そこにうずくまった。

 わたしのーー。

 わたしの修平さんをとらないで。

 声にならない悲鳴をわたしは、上げ続けた。

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