第4話

【17:27】

 垣根に飛び込んだ拍子に、手足を枝でひっかいた。ピリピリと全身に痛みが走る。だが、かまってなどいられなかった。

 通り抜けた向こうは、塀に囲まれた戸建ての民家の前だった。隣もその隣も、似たような建物が並んでいる。ごく普通の分譲住宅地に見えた。

 少女はわたしの手首を引っつかむと、迷いなく、前方に伸びる小路に導いた。

 山に囲まれているからだろうか、まだそんな遅い時刻でもないのに、路地には薄闇が降りていた。街灯がすでに灯っていて、ひと気のない道を照らしていた。

 移動し出して、すぐに気がついた。街が暗く感じられたのは、窓や玄関に明かりの消えた住宅が多いからだ。

 道の両側は、今はもうあまり見かけなくなった背の高いブロック塀で、それが一戸一戸の敷地を区切っている。どの家も道に面して庭があり、脇に屋根つきのガレージがついていた。あまりに画一的な景色で、自分の家がどこなのか分からなくならないかな、と妙な心配をする。高い塀がわたしの方に倒れかかってくるようで、息苦しい。迷路に放り込まれたみたいだった。

 少女はずんずん進んで、辻辻で右へ左へと折れていく。闇雲なようでいて、できるだけ病院から遠ざかろうとしているのが分かる。そして、速度をゆるめる気配は一切なかった。

 わたしは、ついていくので精一杯だった。生まれて初めて、自分の運動不足を呪った。

 息が上がる。

 めまいがする。

 なんでわたしは、こんなめに遭っているのだろうーー。

 しばらくひた走ると、広い道に突き当たった。歩道のある二車線道路で、両側に並木があり、これまでよりもゆったりと間隔を取って、やや大きめな家々が立ち並んでいる。

 どちらへ行こうか迷っているように、少女は立ち止まった。

 道路は立派な造りだが、やはりひと気はない。わたしはふと、むかしに読んだ『おしいれのぼうけん』を思い出す。さとしとあきらが迷い込んだ、車が一台もない高速道路を。あの話ではたしか、道の両側の水銀灯がーー。

「あ、ちょっと待って!」

 わたしはあわてて声をかけた。少女がまた、走り出そうとしたからだ。

「ねえ、待ってよ!」

 強引にきゃしゃな手を振りほどく。

 少女が振り返って、わたしを見据えた。

「どこに行こうとしてるの? ていうか、なんで走んなきゃなんないの?」

「あそこにいたら、じゅうで、うたれてしまう」

 少女が、平板な調子で答えた。

「撃たれる?」

 わたしはさっき聞いた、ぱん、という乾いた音を思い出す。少女の言葉が急に府に落ちる。

 あれはやっぱり銃声だったんだ。


『とほい空でぴすとるが鳴る。』


「なんで、わたしが……」

「ここに、たっていては、だめ」少女がさえぎる。「うごきながら、はなそう」

 少女が断固とした口調で言い放った。しかたなしに、また歩き出した。

 大きな通りを避け、細い道を選びながら、わたしたちは進んだ。少女の歩みが、少し慎重になった気がした。油断なく辺りを見回しつつも、明らかに一定の方角を目指している。

 街はがらんとしていて、どこまで行っても人の気配が感じられない。分譲住宅というさっきの印象を、少し訂正する。ここはまるで、展示場のモデルハウスみたいだ。

 歩くうちに、宵闇はどんどん濃くなっていった。

「ねえ、答えてよ。なんで逃げなきゃなんないの?」

 少女はわたしの言葉には答えず、はたと立ち止まった。

「どうしたの?」

 ここまで迷いなく進んでいたのに、突然止まられると、逆に不安になる。でも、わたしには何の異変も感じられなかった。周囲は相変わらず、ひっそりとしている。いったいーーなに?

「くるまが、くる」

 少女の口から、呻き声が出た。彼女はわたしの手を引くと、急いで手近な家のガレージに踏み込んでいった。わたしはあわてて、それに従った。

 そこは、周りからコピペしたみたいな造りの二階家だった。ガレージ横の小さな庭には、赤い花弁のヒャクニチソウと、黄みがかったオレンジのマリーゴールドが植えられていた。ガレージから玄関まで飛び石が続いている。

 少女はわたしを連れて、ブロック塀の陰にしゃがみ込んだ。幼児みたく、自分の口に手を当てている。わたしも倣って口をつぐんだ。耳の奥で、血の流れるズクズクとした音を聞いた。この音が外に漏れていないなんて、信じられなかった。

 すぐに低いエンジン音が聞こえてきた。表の通りを自動車が近づいて来ているのだ。でもどうして、彼女だけが気づいたのだろう。ものすごく耳が良いのかしら。

 音がどんどん大きくなっていく。わたしは、われ知らず息を殺していた。

 エンジン音が近づきーーそして遠ざかっていった。

 完全に気配がなくなってから、わたしたちは息をついた。

 少女はそろそろと門から顔を出して、表をのぞいた。わたしはまたも、それに倣う。通りに、車の影はなくなっていた。

「こっちへ」

 今度は少女は、家に近づいていった。表に面した窓に、明かりは点っていなかった。玄関の電灯も真っ暗だ。

 少女は、呼び鈴を押すと身をひるがえした。わたしを身振りで呼ぶ。わたしたちは、玄関から離れた庭木の下に隠れた。

 しばらく待ったが、中から反応はない。さらに十数秒待つ。やはり誰もいないようだった。少女は素早くドアに近づいて、ノブを引っ張った。カギがかかっているようだった。そりゃあ、そうでしょと胸の内で呟く。

 少女が庭へと戻った。余っているパジャマのソデをまくる。繊細な指。敷地の隅にある、花壇を形作っているレンガのブロックを、一つひろった。彼女の細い腕が、レンガを持ち上げる。

 ーーちょっと、まさか。

 予想通り少女は、庭に面したガラス扉にレンガを叩きつけた。

 ガシャン!

 思ったよりかは地味な音がして、ガラスが割れた。

 わたしたちは、しばらくその場で固まった。

 誰も来なかったし、何も聞こえなかった。

 びっくりしているわたしをよそに、少女はガラスに手を突っ込み、半月錠を回転させた。扉が開いた。

 少女は土足のまま、躊躇なく中に踏み込んだ。

 どうやらそこは、この家のリビング兼ダイニングキッチンのようだった。

 茶色い絨毯の敷かれた上には、ソファセットと低いテーブル。テレビ。奥にはキッチンテーブルとイスが数脚。シンクの横の扉は勝手口だろう。ひと通りの家具はそろっているのに、あまり生活感がない。すでに放棄されたあとのような気がした。

「はやくなかへ」

 立ちすくむわたしを、少女がうながした。

「ねえ、勝手に入っちゃいけないんじゃないの?」

「わたしたちは、にげなくてはならない」少女は振り返りもせず答えた。「はんざいしゃ、だから」

「犯罪者ぁ? はぁ? なんでわたしが?」

 確かにいまガラスを割ったけど、それはあなたでしょ、とわたしは突っ込みたくなった。

「ちがう」

 少女はあたりを見回す。キッチンテーブルの上のメモ用紙を取ると、同じく置いてあったボールペンで、ごりごりと字を書いた。のぞき込むとそこには、


 【反在者】


 と書いてあった。

「〈反在者〉?」

「あなたもわたしも〈反在者〉。ーーこのせかいに、いてはならないもの」

 ……意味わかんない。

 わたしは頭が痛くなってきた。この子は何を言っているのだろう。しかたなく、質問を変えた。

「あなたは誰なの?」

「わたしは、きさらぎめい」

 少女がまたメモに、ごりごりと書く。【如月メイ】とある。可愛らしい字だが、筆圧が強い。

「如月メイ」

 わたしはオウムのように、復唱した。

「分かった、あなたは如月メイね。わたしは浦沢遠子」

「遠子」

「そう。じゃあ質問。ここはどこ?」

「ここはねこまち」

「ね、ねこ……まち?」

 やっぱりーー朔太郎なの?

「どくたーが、なづけた。〈反在者〉のまち」

 如月メイが、わたしをじっと見返す。まともに見つめあったわたしは、思わず彼女を、じっくり観察してしまった。

 間近で見て気がついたのだが、彼女はーーその無残な傷痕にもかかわらずーーとても端正な顔立ちをしていた。っていうか、かなりな美少女だった。

 皮膚の下が透けて見えそうなくらい色素の薄い肌。ほっそりとした首。大きな黒目がちな瞳。あまり手入れしていない黒髪が、てっぺんの辺りでちょっとはねてるけど、そこがまたなんともいえずキュートだった。同級生の男子が夢中なアイドルなんか目じゃない、正真正銘、言語道断、天下無敵の美少女だ。

 だからというわけではないが、少なくとも嘘を言ったり、わたしを担いだりしているようには見えない。真に美しいものは、性別を超えるのだ。

「よく分からない……。猫町? 猫町はどこにあるの? 県内?」

「猫町は、ちずにないまち」

「地図にない町?」

「そのそんざいが、ふつうのひとびとに、しられてはいけない。なぜなら〈反在者〉の町だから」

 どうも話が噛み合わない。話題がループしている気がする。わたしは問題の核心をついた。

「じゃあ、また質問。〈反在者〉って何?」

「〈反在者〉は、もうひとりのじぶん」

「もう一人の自分ーー」

「なぜそれがうまれるのかは、まだ、わかっていない。でも、すうひゃくまんにんにひとりのわりあいで、それはうまれる」

「ちょっと待って。生まれるってどこから?」

「わかっていない。だれにもしられず、とつぜんはっせいする。そしてはっせいご、せいふに、かいしゅうされる」

 わたしは頭がくらくらしてきた。少女の、如月メイの言っていることは、どう考えてもまともではない。しかし、メイが嘘や冗談を言っているのではないとすればーー。

 彼女は心が、何らかの変調をきたしているのではないか。

 わたしの心を見透かしたように、如月メイが冷笑を浮かべた。

「わたしは、おかしくなっていない。遠子はまず、このせかいを、うけいれなければならない」

「でも、わたしは今までーー十五歳まで生きてきた、記憶がある。母さんの顔だって浮かぶし、学校にも行っていた」

「〈反在者〉は、いちぶのけつらくをのぞくと、生まれながらに、ほんたいとおなじきおくを、もっている。きおくで、そのふたつをくべつすることはできない」彼女はにべもなく答える。「だからこそ、せいふは〈反在者〉をつかまえようとする」

 その口調に不吉なものを感じて、わたしは恐る恐る質問した。

「どうして……どうして〈反在者〉は政府に回収されてしまうの?」

「ふたつ、りゆうがある。このせかいに、おなじにんげんは、ふたりいらない。あればこんらんする。これがひとつめ。もうひとつは〈反在者〉の、とくしゅなちから、のせい」

「特殊な力……」

「〈反在者〉は、ひとりひとり、ふつうではない力をもっている。さっき、びょういんで、あなたをたすけたのも、それのおかげ」

 そう言って如月メイは、自分の右目を押さえた。

「こっちのめでわたしは、みらいし、をすることができる」

 如月メイは、再び漢字を書いた。そこには【未来視】とあった。

「こちらの目には、さんじゅうびょうさきのせかい、が見える」


 ーー三十秒先の予知能力?


「だから……だからさっき、わたしを助けることが出来たというの?」

 如月メイは、うなずいた。

「あなたが、けんじゅうで、うたれるえいぞうが、みえた」

 わたしは、ぺたん、とイスに腰を下ろした。

 あまりに途方もない話なので、およそ信じることが出来なかった。彼女の言葉に従うなら、わたしはわたしではなく、〈反在者〉という、本体の〈偽物〉ということになる。荒唐無稽で、グロテスクな宣告だった。にもかかわらず、如月メイの言葉は、どこか切実な響きを持ってわたしに迫ってきた。

「あれは、誰? なんでわたしが撃たれなきゃなんないの」

 わたしは顔を覆った。これは夢だ。目が覚めたら、わたしは家の布団の中にいるんだ……。

 顔をあげて、失望した。

 如月メイは、変わらずそこにいた。

「あなたをうったのがだれかは、わからない。でも、ここにいたら、わたしたちがどうなるかは、わかる」

「……どうなるの?」

「政府につかまれば、とじこめられて、もうそとには、でられない」

 如月メイが言った。

「力をかして。ここから、にげだすの」

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