第3話

【一日前Ⅱ】

 終業式は、いつも通りの校長先生の退屈な訓示で終わりを告げた。今夜は夏祭りですが、高校生らしく節度をもって参加するように云々、といったような。

 ロングホームルームでさらに「夏休みの過ごし方」の念を押され、十一時半ごろにようやく解散となった。どんだけ信用がないのだ、わたしたちは。

 半ダースほどの理由で栄子に謝りたおし、ゆかたを選びに行くから忙しいんでしょ、急がないとお母さんとの約束に間に合わないよ、と最後は半ば脅迫めいた文句でおどしつけて、先に帰ってもらった。栄子のお母さんは陽気でとても優しい人だけど、少しだけ短気なのだ。

 栄子はうらめしげな顔で去っていった。実は、ちょっとした意地悪ごころも混じっていた。五月に、栄子が告白してカレが出来てから、わたしの誘いにキャンセルが続いたことがあったのだ。思い知れ。

 わたしは悠々と帰り支度をして、教室をあとにした。

 生徒たちがあらかた帰った校舎は、主のいなくなった宮殿みたいで、寂しさと、物憂げな感じと、あとどうしてだか一種のすがすがしさがあった。

 渡り廊下を、運動着に着替えた女の子たちが急ぎ足に走っていく。運動部の子たちは、これから夏の大会に向けて色々と忙しいのだろう。ちなみにわたしも、籍だけは読書クラブに置いてある。ただ書物に対して偏食(?)気味なわたしは、最初の課題図書を読み通すことができずに、早くも幽霊部員になっていた。おしゃべりしながら楽しげに歩く生徒を見て、自分だけ取り残されたような気分になる。

 ゲタ箱で室内履きを百均で買った巾着袋にしまい、ブラスバンドの音合わせの、ぶおー、という音を聞きながら、校門を出た。

 オオアリクイのかたちの雲が、オニイトマキエイっぽい姿になっていた。

 がらん、となった駐輪場から自転車を転がしていき、校門を抜けてからこぎ出す。帰りは下り坂が多いので、だいぶ楽だ。足に力を込めると、生暖かい風が頬をなぶった。

 でもいつもはとても好きなその感触が、今はあまり心地よく感じない。

 今朝の母さんの顔が、脳裏でちらついた。

 おとといの、修平さんの顔も。

 とたんに、これから帰る家が、暗くてみじめな場所に変わった。

 誰もわたしを必要としていないという孤独感。それに耐え切れなくて、わたしは方向転換し、自転車を北に向けた。


『世紀の二十番目の孤児ははすべきことを知っていた』


 町のこちら側は、古い家並みの残る地域で、わたしの近所の人たちは「お屋敷町」と呼んでいる。

 その名の通り、土塀越しに大きな庭木ののぞくお屋敷や、妙にモダンなコンクリートの邸宅が軒を連ねている。昔の地主さんや、お金持ちが多いのだろう、とわたしは想像する。どこもかしこも立派な門構えで、ガレージの中には図ったように複数の車、それも外国の高級車が並んでいた。あまりに自分の境遇とかけ離れすぎていて、うらやましい、という感じすらない。本来なら、わたしには縁のない地域だ。

 ひと気のないお屋敷のあいだの小路を、自転車はすいすいと進んで行く。

 住宅地の途中に、そこだけ消しゴムでこすったみたいに建物がなくなって、時間貸しの駐車場になっているところがある。黄色い車止めと清算機のとなりに、ぽつん、と自動販売機が佇んでいて、そこでわたしは自転車を止めて、いつものどおり缶コーヒーのブラックを一本買った。

 周りを高い塀に囲まれたその駐車場に立つと、まるで谷間の底にいるみたいだ、といつも思う。じゃあ、わたしが百合か、と言われると怪しいけど。

 再び自転車にまたがって、ペダルをこぎ始める。

 しばらくうねうねと入り組んだ小路を進むと、お目当ての場所にたどり着いた。

 その洋館は、鬱蒼とした木々の後ろにひっそりと建っていた。厳めしい高い石塀にぐるりと囲まれているけど、正面の門扉は傾いで隙間があいている。左右に続く塀にはところどころひびが走って、草が飛び出していた。

 わたしはあたりを見回して、誰にも見られていないことを確認すると、鉄の門扉を押した。この瞬間はいつも緊張する。

 ぎいいぃ、という鈍い音とともに門扉が開く。持ち上げて、自転車ごと中に入った。廃屋の外に自転車が停めてあったら、あからさまに怪しい。

 入ってすぐの木陰に自転車を隠すと、建物のほうに歩いていく。

 門から玄関へ向かって、敷石が続いていた。敷石の両側の下草は、丈高く荒れ放題だった。わたしはデコラティブな装飾のひさしが張り出した車寄せを横目に、建物を左に迂回する。洋館の側面を目指した。赤いレンガ造りの壁には、つた草がからみついて、天然のグリーンカーテンになっている。

 おそらく勝手口であったとおぼしい引き戸のノブをひねった。カギがかかっていないことは知っていた。わたしはもう一度あたりを見回してから、屋敷に侵入した。

 室内は空気がよどみ、少しカビ臭い。

 入ってすぐは、タイル張りの三和土になっている。少し心が傷んだが、土足で三和土から上がった。

 廊下に敷かれた絨毯は埃にまみれ、もはや元の色が何色だったのか分からない。どこからか入り込んだ木の葉やゴミクズが、そこここに散乱している。

 廊下を右方向に進む。

 厨房を通りすぎて、両開きの木の扉を開くと、玄関ホールに行き着いた。

 右手に二階へ続く階段がある。木目のキレイな手すりに立派な柱飾りの階段は、まだ健在なのだが、上階にはあまり行かないようにしている。

 初めて探検したときに一度上がったのだけど、二階の床はあちこちがギシギシと不気味に軋むのだ。正直、今にも抜け落ちやしないかと、ヒヤヒヤしどおしだった(それでも一周したのだから、今考えると命知らずの蛮勇だ)。それに二階には肖像画やブロンズ像が残されていて、彼らに見張られているようで背筋がゾクゾクする。

 わたしは玄関ホールを横切って、左手の重厚な扉を開いた。

 こ

 中の部屋は、応接間として利用されていたのだと思う。布張りのソファセットが置き去りになっていて、壁には(たぶん)本物の暖炉がある。暖炉の上には全長七十センチくらいの帆船模型。天井からはシャンデリアが下がっている。

 奥の庭に面した壁は天井から床まで一面ガラス張りで、カーテンのないそこから、折り重なるように繁る庭木が見て取れた。

 わたしは鞄から出したタオルで埃を払うと、ひじ掛け椅子の一つに腰かけた。庭を見渡せる格好の位置だ。

 この場所を見つけたのは、ひと月ほど前だった。

 修平さんと母さんを見かけたあの晩の翌日、気持ちの整理がつかないまま放課後を迎えたわたしは、自主的に迷子になった。家に帰りたくなかった。いつもの帰り道を外れて、通りすがりの屋敷に忍び込むという冒険(暴挙?)にでたのは、全くの偶然だったけれども。

 それ以来、勝手ながらここは、わたしの秘密の場所に決定した。誰にも邪魔されない、一人きりで過ごせる場所。

 そう、昨日までは。

 わたしは缶コーヒーのプルトップを開けた。本当はきちんと煎れたのが飲みたいけれど、さすがに空き家で火を使うのはまずいだろうと自粛している。コンビニのコーヒーは、一回ひどく溢してしまってから、あきらめた。

 それなりの香りのコーヒーを一口すする。スマホのイヤホンを耳にセットし、お気に入りのサウンドを流す。読みかけの文庫本を開いた。

 

『いかりのにがさまた青さ』

『四月の気層のひかりの底を』

『唾し はぎしりゆききする』

『おれはひとりの修羅なのだ』


 そう、わたしも怒りを抱えている。この詩の賢治のように。

 いや、それは怒りなどではない。似ているけれど違うもの。わたしはその感情を知っている。

 身を焦がすようなそれはーー嫉妬。


 『まことのことばはうしなはれ』

『雲はちぎれてそらをとぶ』


 ざざっと風が吹きすさび、植木の梢が揺れた。

 パキッ、と家鳴りがした。

 物音に気がつかなかったのは、宮沢賢治に没頭していたからだけではないと思う。それは密やかに、足音を忍ばせてやってきたのだ。

 首筋にちくり、と何かが押し当てられる感触。

 何、とわたしは手を回す。何も当たらない。手のひらを眺める。異常なし。

 でも。

 やっぱり、

 おかしい、

 声が、

 出ない。

 ぐにゃり、と視界がゆがんだ。

 身体がーー溶け出していくように感じた。


『(このからだそらのみぢんにちらばれ)』

 

 そしてーー暗転。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る