第2話

【一日前Ⅰ】

 その夏、わたしは十五歳だった。それがどんな季節だったかなんて、誰にも語らせやしない。絶対に。


□□□


 わたしと母の住まいは、駅から少し遠い、古ぼけた二階建てアパートだった。一応、鉄筋コンクリート造りだけど、灰色の外壁は黒い雨だれの染みをまとっていて、いつもどこかしら湿っぽい感じがする、そんな建物だ。

 二〇四号室は、やや広めの台所がついた2Kだ。朝の七時にスマホのアラームで目が覚めると、わたしは寝ぼけまなこのまま、朝食を作りに台所に立った。朝食といっても、セットしておいたご飯(炊き立てホカホカ)と前夜のうちに作っておいたお味噌汁を温め、冷蔵庫から作り置きのきんぴらと納豆のパックを出すだけだ。

 母さんはわたしより朝寝坊だ。昼間は印刷工場の事務として働き、夜はお酒を出す店でフロアレディをしているので、母さんは慢性的に寝不足だった。

 母さんは、働きすぎなのではないだろうか。もちろんお金が必要なのは事実だけど、身体を壊さないか心配になる。わたしがバイトを申し出ても、母さんは良い顔をしなかった。父さんに顔向けができないと言って。もっとも、夏休みのあいだならば少しは考えると、ようやく先日折れてくれたのだけど。

 なるべく母さんを起こさないように気をつけているつもりだけど、狭い部屋のこと、わたしが起きれば、自動的に母さんも起こされてしまう。それに、夜一緒にご飯を食べられないぶん、朝食は一緒に取るというのが母さんの希望なのだった。

「おはよ」

 母さんがパジャマのまま大雑把に髪の毛をまとめて、食卓につく。わたしはすでに、制服に着替えていた。夏服は半袖のブラウスに臙脂のリボンを着け、下は紺色のチェックのスカートに、紺色のソックスだ。正直、少々野暮ったい。

 わたしたちは、黙々と箸を運んだ。実はここのところ、母さんとはあまり口をきいていない。忙しい母さんが多少なりともゆっくりできるのは週末くらいしかなく、その週末にわたしが図書館なんかに出かけてしまうのですれ違ってしまうーーというのが表向きの理由だった。

 でも本当のところ、気まずい空気の原因が何なのか、母さんなりに思い当たる節があるようだった。そして、それを口に出すことが出来ずに苦しんでいるのだ。

 ーーううん、違うよ、母さん。

 わたしは心の中で呟く。

 母さんの考えていることは、半分、当たっていて、半分、間違えてる。

 そして母さんが苦しんでいることを知っていてわたしは、あえて何も言わずに黙っているのだ。

 わたしは、意地悪な、イヤなおんなだ。

「ねえ、遠子。明日から夏休みでしょーー」

 母さんが、洗い物を流しに置きながら言った

「母さん、休み取るから、どこか行こうよ」

「でも夏期講習とかあるし」

 答えてから、しまった、とわたしは焦る。

「夏期講習って、あなたまだ一年生じゃないの? それに受講料が必要でしょう?」

「ううん、大手だと特別無料講習ってのがあって……」

 わたしはさらに、しどろもどろになった。近ごろのわたしは、漠然と進学する未来を思い描くようになっていた。高校に通うようになって、周囲に影響されたみたいだった。そして打ち明けてはいなかったけど母さんは、そのことに気づいているようだった。

 今のわたしたちの生活では、進学には経済的に大きな壁がある。だからこの話題は、わたし中では何となくタブーというか、空気のように見えないことになっていた。少なくともまだ三年近く先だと言うこともある。わたしは慌ててつけ加えた。

「そんなに大したものじゃないの。栄子が試しに出てみるっていうからつき合いで行くだけだし。あと、アルバイトもどこでやろうかとか色々考えてて……」

 そっか、と母はさびしそうにつぶやいた。罪悪感がむくむくと沸き起こってきたので、お母さん、と声をかけた。

「やっぱ、考えておく。夏休みだしね」

 母さんの顔が、ぱっと華やいだ。とても女性らしい、素敵な笑顔だった。

 ーーその笑顔を、誰に見せてるの?

 そんなことを考えたわたしは、自己嫌悪におちいりそうになったので、頭をぶんぶん振ってから、いってきまーす、と言って、学校へと向かった。


□□□


 高校は、アパートから自転車で十五分ほどのところ、丘の上にある。

 わたしの町は、近隣から通う生徒に「坂の町」と呼ばれるくらい坂が多い。それはたいがい、だからほんとにやってられない、という意味で使われる。

 今朝もわたしは、ヒイヒイあえぎながら、正門前の最後の急傾斜を登りきった。

 坂のてっぺん、校門のわきでひと息ついて、ささやかな達成感にひたる。これもわたしの日課だ。自分が登ってきた道のりがはっきり確認できるのが、何とも爽快だ。坂の左右はサクラの並木で、春になると、ピンクのトンネルみたいになる。そのときは、爽快さに夢見心地が加わるのだった。

 お城の址だったという場所に建つ高校は、町で一番の高さにあって、さすがに見晴らしがいい。駅と商店街、工場と住宅地と漁港といった、小さな町のほぼすべてが見渡せる。今日は空の上に居座っているオオアリクイにそっくりな雲までが、あつらえたように、ぴたり、と景色にはまっている気がした。

 額に熱を感じた。早くもじりじりと陽射しが気温をつり上げはじめ、汗が吹きだす。アブラゼミが、わんわんと、朝から元気に大合唱している。

 登校してくる徒歩や自転車の生徒たちが、どことなくグッタリしながら、わたしの横を行き過ぎていく。声がするので振り向くと、ジャージ姿の生活指導の先生が出てきた。遅刻しそうな生徒たちに、はっぱをかけるのだろう。

 わたしは校門をくぐって進み、校舎の横にある駐輪場に自転車を止めた。

 生物部が面倒をみている小さなウサギ小屋の横を通り過ぎる。もうエサをもらったらしく、ロップイヤーとネザーランドドワーフが、小松菜の切れ端をはむはむしていた。野球部のカキーンという金属バットの音が聞こえる。朝練を七時くらいからやっているのだろう。熱心でいいけど、急がないと遅刻しちゃうんでないかね、と無用な心配をする。

 一年生の教室は、三階建て校舎の最上階だった。教室の一番後ろの席につくころには、またも額に汗がにじんでいた。椅子に座るとすぐさま、クラスメイトの栄子が近づいてきた。

「とーこ、おはよ。今日も元気かね」

 わたしは心の中で緊急警報を発令し、控えめに、そうでもない、と答える。

 栄子は、クラスが分かれたことはあったけど、中高とずっと一緒に過ごしてきた、唯一、親友と呼べる友だちだった。昔はよくお互いの家に泊まりっこしたり、放課後に遊んだりもしたけれど、高校生になってからは、連れだって出歩くことが少なくなっていた。

「で、どうするよ、とーこたん。今日行くでしょ」

 あー、やっぱりそのことか、とわたしはげんなりする。正直言って、栄子のお誘いに乗りたくはなかった。今夜の夏祭りに、彼女のカレとその友達との、ダブルデートをセッティングされていたのだ。

「んー、ごめん。今日はやめとく」

「えーー、なんで、なんでーー」

 彼女が不満そうに口をとがらす。

「ショータくん、とーこ目当てにくんだよ」

「今日、あれで、ちょっと辛いんだよね」

「あれぇぇぇ?」

「そう、あれ」

 めんどくさいときの言い訳はこれに限る。わたしはそれ以上、反論の糸口を与えないように、机の中を整理しだした。

「うち、もう来るっていっちゃったよぉ」と栄子。でも、それって、最終確認をしなかった、きみのせいでないのかね?

 彼女が一ダースもの理由を並べてわたしを説得にかかる前に、担任があわただしくやってきた。終業式の日は朝に掃除があるのだ。わたしは内心ホッとして、栄子を席に追いやった。

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