七月に、五月とわたしと
@ikuesan
第1話
これは戦いの記録なんかじゃない。
急いでつけ加えよう。戦いの記録でないということは、このささやかな冒険譚の価値を、いささかも損ねるものではない。わたしたちは好むと好まざるとに関わらず、いつかはーーあるいは何度でもーー自分自身と向き合わなくてはならない。泣きたいくらい特別で、笑っちゃうくらい凡庸な自分と。
だからこの大事件は、少なくとも人生に二度あらわれる。一度目は悲劇として、二度目は茶番として。
ともかくーー
□□□
【17:05】
ちょうど波のように、目覚めが訪れた。すとん、と感覚が戻ってきた。
シーツのするする。
ふとんのごわごわ。(ーーこれは気持ちいい。)
ひりつくようなのどの渇き。
それと、胸をざわつかせる心細さ。(ーーこれは気持ちが悪い。)
わたしは、うっすらと目を開く。ぼんやりと、明るい視界が拓ける。
天井に違和感がある。見たことのない天井。
わたしは、ふとんをかぶったまま、首だけを回す。
白い部屋だった。
白い壁。白い天井。わたしが寝ていたのは、白いパイプのベッドだった。ベビーベッドみたく、転がり落ちないようにパイプの柵があるから、そうわかったのだ。
ふとんもシーツも白。ベッドの横には、オフホワイトの四角い収納家具があった。足元にキャスターがついていて、引き出しが三つある。がらんとした家具の天板には、これ以上ないくらい素っ気ないデジタル時計が乗っていて、午後五時五分をしらせている。
「……」
そのまましばらく、ぼーっとする。
音はしない。しん、として、まるで耳にふたをされたみたいだった。
ベッドの左手に、厚手のカーテンのかかった窓がある。カーテン生地は黄色っぽいクリーム色。何となく「惜しい」と思ってしまった。「全部白だったら完璧だったのに」とクダラナイことが頭をよぎった。
わたしは、のそのそと、ふとんをどけてベッドから足を出した。そこで気がついた。見回してみたけど、やっぱりスニーカーがない。安物だけど、履き易くて重宝しているヤツだ。あるのは一足のスリッパだけ。ふだんまったく意識したことはなかったけど、いざ見当たらないと格段に心細い。すまなかった、これからもっと大切にするよ。
あらためて、身のまわりを点検する。格好はいつものままだった。お気に入りのTシャツに、着古したジーンズ。スマホはーーない。少し不安が頭をもたげる。ふとんをはねのけて、もう一度点検。やっぱりない。少しシワの寄ったシーツの上には、わたし以外、何一つ。
通学に使っていた鞄もない。念のため、収納家具の引き出しを開けてみた。どの段も空っぽだった。カラカラと虚ろな金属音だけがした。しかたなしに、リノリウムの床におりて、スリッパをつっかける。
部屋の隅に、スチール製の背の高いロッカーがあったので、近づいていって開けてみる。やっぱり中には何も入っていなかった。
ペタペタと歩き、窓際へ向かった。
カーテンを引く。さあっと、あかね色の陽が差し込んできた。
何階かはわからないけど、建物の上の階にいるようだった。見下ろすように庭の様子が見て取れる。緑の芝生と、それを縫う石畳の舗道。車椅子とそれを押す人影が、ゆっくりと視界の奥を横切っていく。
建物は小高い場所にあるようだった。庭の外側は木々が生い茂ったいちめんの森だが、木々のてっぺんが目線の下にある。森は緑の海みたく広がって、遠くに山が霞んでいる。
落ちていく陽が山の端にかかり、オレンジ色を滲ませていた。
何気なく窓を開けようとして、戸惑った。カギがないのだ。はにゃ? ぐるりと視線をまわしてみると、窓には桟がなく、一枚のガラスだった。新幹線のそれのような、いわゆるはめ殺しで、開け閉めができないようになっているのだ。
「あら、起きていたの」
急に声をかけられて飛び上がった。
ふり向くと、薄いピンク色の服の女性が立っていた。よく病院で見かけるような服だ。上衣がVネックの半袖で、下はスッキリしたシルエットのパンツ。ピンク色でも白衣というのだろうか、とまた、クダラナイことを考えた。
わたしは少し混乱していたのだろう。口をついて出たのは、ひと言、のどが渇いた、という言葉だった。
女性はにっこりと笑うと、部屋を出て行った。
彼女はすぐに戻ってきた。水の入ったコップを手にしている。わたしは、渡されたそれを、むさぼるように飲みほした。水は少し甘く感じた。
彼女は銀色のパッケージに包装されたカプセルを、収納家具の天板の上に転がした。
「もう一杯、お水を持ってくるわ。それでお薬を飲みましょう」
「ここはどこ」
わたしは尋ねた。彼女は困ったような表情をして、ここは病院よ、と答えた。
「あなたは昨夜、ここに運ばれてきたの。覚えていない?」
覚えていなかった。
わたしはーー。
目を閉じて意識を凝らす。
わたしの名前は、
……でも、病院って?
「病院って、どこの病院ですか」
わたしの声に、切迫したものを感じたのかもしれない。彼女はまた困ったように眉をひそめた。お水持ってくるから、と彼女は出て行った。
母さんはどこ、と訊きそうになり、わたしは言葉を飲み込んだ。最近、母さんとちゃんと話したのはいつのことだろう、と思いだす。きゅっ、と何かにつかまれたように、胸が痛んだ。
わたしは看護師さん(?)を追いかける。
部屋の、窓とは反対の側に、扉のない入口があった。慌てたのと、慣れてないスリッパのせいで、少し足がもつれた。
部屋の入口から、顔をのぞかせた。
薄暗い廊下だった。廊下の右手の先は、すぐにつきあたって非常口だった。ドアの上にグリーンの常夜灯がある。
わたしは廊下を左に出て、ペタペタと歩きだした。空気は妙にひんやりとしている。
廊下の左右には、わたしがいたのと同じような部屋の入口が口を開けている。通りすがりに、隣の部屋やその隣の部屋を、見るともなしにのぞいた。どの部屋も個室で、ベッドには誰かしらが横たわっている。
いくらも行かないうちに、患者用の共有スペースとおぼしき場所に行きあたった。
四角い空間に、背もたれのないサイコロみたいな形のソファがいくつかあって、壁際に自動販売機がある。ソファには、パジャマを着た人が三人、腰かけていた。三人はてんでバラバラに、まるでそばに誰もいないかのように別々の方角を向いている。
わたしは、その人たちに近づいた。ここがどこだか尋ねるつもりだった。
一人目のお年寄り男性は、宙を見つめて何かをつぶやいていた。反応はなし。
二人目の中年男性は、目をつぶってうなだれていた。やはり反応はなし。
三人目は、わたしと同じくらいの歳の女の子だった。とても小柄な子で、学校で友だちからちびっ子扱いされているわたしより、さらにちんまりとしている。パジャマがブカブカで、ソデやスソが少しあまっている。
ねえ、と声をかけようとして、どきり、と心臓が跳ね上がった。
なんて痛々しい。最初に浮かんだのは、そんな言葉だった。彼女の顔の右側には、額からまぶたを貫いて唇の端まで続く、ひどい傷痕が走っていた。
笑っているようにも見えるのは、引き攣れた傷のせいで、口角が上がっているせいだろう。それがーー失礼きわまりない感想だけどーーグロテスクな仮面めいた表情を、少女にまとわせている。
少女は感情のこもらない目で、わたしを見返した。好奇の視線には慣れているという風に。
わたしが口ごもっていると、こんなところにいた、と肩がつかまれた。わたしは、またもや飛び上がった。さっきの看護師さんだった。なんで足音がしないの、この人はっ!。
「まだ安静にしてなきゃだめよ。さあ、お部屋に戻りましょう」
看護師さんが、ききわけのない子どもに言い聞かせるように言った。手には注射器を持っている。掌ほどのそれが、とてもまがまがしく、わたしの目に映る。
いや……あんなところに戻りたくない。
そう言おうとしたとき、「うっ」という、うめき声がした。目の前の少女が右目を抑えていた。傷が痛むのかしら。わたしは場違いな心配をした。
「大丈夫、メイちゃん?」
看護師さんが、少女に声をかける。
「ううぅっ」
少女はそれには答えず、看護師さんの手を邪険に払いのけた。少女が、空いているほうの瞳でわたしたちを、いや、わたしを見た。
「ここに」
何? と看護師さんがきく。
「ここにいては、だめ」
少女が言い終わるのと同時に、ぱん、と乾いた破裂音がした。看護師さんの肩に、赤い花が開いた。つんのめるように、彼女が前に傾ぐ。
え?
とっさに支えようと手が出たが、彼女はぐにゃり、と真っ直ぐその場にくずおれた。わたしが振り向くと、廊下を黒い影が歩いてくるのが視界に入る。サングラスに大きな黒いマスク。黒ずくめの格好。手に何かを構えている。
どんっと、少女がわたしを突き飛ばした。
何? 何? 何?
考える間もなく転がる。
床に半身を打ちつけられる。痛みで息が詰まる。
もう一度、破裂音。
きん、と床が何かを弾く。
その場で丸まりそうになるわたしを、少女が引っ張り起こした。
彼女が簡潔に告げる。
「はしって」
強く手を引かれる。
わけがわからないまま、わたしは走り出す。
さっきやって来た方向だった。
行く手には暗い非常口。
少女が全力疾走する。
わたしもつられて全力疾走する。
ペタペタとスリッパが走りにくい。
ずくずくと心臓が早鐘のように鳴る。
あれっ。こんなシチュエーション、どこかであったようなーー。
わたしの頭の中で、いつかなにかで読んだ詩が再生される。
『みよ、遠いさびしい大理石の歩道を、』
『曲者はいっさんにすべつてゆく』
あれは確か、萩原朔太郎。
タイトルは、そうーー「殺人事件」。
鉄の扉に突き当たった。鍵がひしゃげて、破壊されている。ゾクリとなった。ということは、あの音はまさか?
少女がノブをひねる。
ギギギと苦しげにドアが、外に向かって開いた。
むっとする熱気が、わたしを包んだ。耳を圧するようなセミの声。今は夏。わたしはそれを思い出す。青く塗られた外階段が、下へ伸びている。
少女が扉を閉める。みたび破裂音。かちん、と扉が鳴る。わたしたちは、脇目もふらずに階段を駆け降りる。
朔太郎がリフレインする。
『またぴすとるが鳴る。』
何度も折れると、一番下の階にようやくたどり着いた。
少女は有無をいわさず、さらに走る走る。わたしもそれに続く。
目の前は建物の正面にあたる駐車場で、割と広い敷地に、自動車が離れ小島のようにぽつん、ぽつんと点在していた。
わたしたちは、まだ熱いアスファルトを横切ると、背の高い垣根の向こうに飛び込んだ。
濃い草いきれが匂った。
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