第10章 ウイルス撲滅の方法が完成
スーパーコンピューターで見ることができた約70%の情報から新薬を作ることは当然容易ではなかった。解析途中の情報は、いつも全くわけのわからない単語の羅列で、もしかしたらAIの他にも生身の専門家の解釈がワンクッションあったほうが良いかのように思われたが、ここは情報が漏洩する危険性を第一に考えていたので、今のメンバーのままで出来る限りは何とかしようではないかということになった。そこでAIの結論をただ待っているのではなく、何か自分たちでも多少なりとも新薬発見に近づくことができないかを模索しながら、読めるデータだけでも見ていくこととした。
そんな時、ひろしがスーパーコンピューターから新薬開発のヒントとなるデータを見つけたのは、ライフデバイスを取り出してからすでに数週間が過ぎたころであった。それでも皆は、2050年の科学の一端を知るための時間としては決して長いとは思ってはいなかった、むしろもっと時間が必要になるのかと想定していたのが大方の見解であった。
「ひろし君、スーパーコンピューターが出した情報で私たちが何か確実に新型コロナを撲滅するために必要な情報のヒントとなる、はっきりとしたキーワードはないのかい。」
「あります。」
「ええ、本当かい。なんだいそれは。」
「そうですね、それは「プロテアーゼ」という現代医療用語として実際に使われている単語が最も多く使用されています。
プロテアーゼ、つまりタンパク分解酵素こそがウイルス撲滅のカギになることは間違いないと思います。
また、この単語の語尾には「2050」とついていることが多いので、この酵素は2050年に発見された可能性が高いです。」
「キーワードはプロテアーゼか、我々の能力で語尾が2021と書き換えることができれば人類の未来は変わるかも、というシナリオでよいのかい、ひろし。」
「はいそうです、師匠。恐らく、それ以外のシナリオはスーパーコンピューターからは得られないようです。」
「ところでひろし、そこのパソコンで、今更ながらで、ちょっと言いづらいのだが、ウイルスの定義のようなものを調べてくれないか。」
「はい、師匠。やはりそこから入るべきですね。我々の今のレベルでは。
一言で言うと、ウイルスは遺伝情報を包んだ粒子ということになりますが、時代と共に定義はかなり変わってきています。
もしかしたら2050年にはまた変わっているでしょうが、現代の定義を解説します。
ウイルスは生きた細胞の中でしか増殖ができない。
これはウイルスがタンパク合成に必要不可欠であるリボソームを持っていないからです。
ここがウイルスの唯一の弱点と言えるかもしれません。
なぜなら宿主になる生命体、今回の場合は人類ですが、人類が仮にある強毒なウイルスにより絶滅してしまったら、その瞬間に、そのウイルスも滅亡するしかないのです。
しかし彼らにはそれを回避する技があり、時間的な余裕があればその技、つまり変異を繰り返し、場合によっては宿主が絶滅する前に別の種の生命体に宿主を自由に変えていくことが可能なのです。
これこそウイルスが何億年も地球に存在し、また今後も存在し続ける理由です。
次にウイルスのゲノム、つまり遺伝情報のことですが、DNAあるいはRNAです。
またウイルスは細胞分裂のように2分裂の増殖形態をとりません。
この増殖過程がウイルスの強みとなっています。
ウイルスの生活環を見ると暗黒期と呼ばれている感染性を消失する時期があります。
宿主に侵入したウイルスが細胞の中でRNAやDNA,つまり遺伝物質だけの状態になり、たんぱく質も酵素も無くなり、一時的に何もなくなってしまった様な時間帯があるのです。
しかし何もしていないわけではなく、たんぱく質を作り、感染のための構造物であるウイルス粒子を作り上げていくのです。」
「ひろし、もう十分だよ良くわかった。ありがとう。
でももう一点知りたい、ぜひ知っておきたいポイントがある。
それは今回みたいにウイルスが発生して拡散してしまった原因みたいなものをかいつまんで知りたいね。」
「そうですね、そこは重要なポイントになるかもしれませんね。矢作先生。」
「はい、先生方、そこも調べてみましたので解説いたします。
まず人になぜ動物由来のウイルスが感染したかは、ウイルスが時代に即した適応や変異の結果だと考えられますが、その拡大するファクターとしては生活経済の発展による人口の過密化、今回の新型コロナで考えると人口動態、つまり高齢化の進んだ先進国程、高齢者の感染リスクが高まり、結果重症化率も高まります。
さらに国際的な交流は大きな感染拡大を誘発するだけでなく、新型変異株の発生リスクにもなります。
衛生面もリスクになります。不衛生な地区では感染は広がりやすいですし、ウイルスが変異するリスクも高まります。
さらに現代で最も危惧すべきは地球温暖化による生態系の破壊です。
このことは多分ウイルスの変異には最も関係の深いことだと思われます。
これらと対極的なリスクとなるのが、人為的な問題です。
ウイルスの拡散に対して国家や世界が十分な政策や予防を怠ること。
そして最も恐ろしいことはバイオテロと呼ばれている、だれかが、あるいはどこかの国家が、新型ウイルスを作り出し拡散させるということです。
私の調べた限りではこんな感じです。」
「ひろし君、ありがとう。君の話と私たちが唯一手に入れているプロテアーゼ2050というキーとなる単語から私たちがまず何を始めるべきかを模索してみよう。
ところで現代ではどのような抗ウイルス薬がトレンドなのかい。」
「AZTで知られている核酸系の逆転写酵素阻害剤、また非核酸系もあります。
次にプロテアーゼ阻害剤。インテグラーゼ阻害剤、さらに侵入阻害剤などがあります。」
「いずれも蛋白とは深く関係してそうだが、プロテアーゼ、つまりタンパク分解酵素というキーワードからすると、プロテアーゼ阻害剤がヒットするね。
どうでしょう、矢作先生、何かピンとくることがありますか。」
「そうですね、いずれも抗ウイルス薬の基本は感染を成立させるための生活環において作られる不可欠な物質の製造を未然に阻害するのが目的となっていますね。
ところで細胞内で蛋白を作る過程がウイルスにとっての初期の仕事ですが、プロテアーゼ、つまりタンパク分解する酵素を必要とする場面はあるのでしょうか。
私には思い浮かばないのですが。どうだいひろし、そのあたりを調べてみては。」
「はい、ああ、ちょっとお待ちください。AIの判断がでたようです。メールを開いてみます。」
「お待たせしております。
デバイスからコピーしたデータは全体の約70%が解読可能な状態でした。
また、データは3つのカテゴリーに分けられていました。
1つ目は新型コロナウイルスとその治療薬について、2つ目は石松さんが受けた治療内容について、3つ目は恐らくデバイスのセンサーによってモニターされているデータです。
それではまず、1つ目のデータについて、今後予測される先端医療、科学、地球環境、人類の考え方及び創造性等々を判断材料にして、AIが予測した最も可能性に近いと思われる解析結果をご報告します。
2021年開発のmRNAワクチンは当面の間は人類の存続に対しては十分な効果が期待できるレベルでありましたが、何億年も滅亡することのないウイルスはその後、強力な武器を持つことになります。
それは、人類が最新科学で作り上げたワクチンに対抗する最強の変異株「Olympic-CoV-t-19」です。名称になぜOlympicが使われているか正確な理由は分かりませんし、どこで開催されたオリンピックかも分かりません。また、tはギリシャ文字の19番目のタウを言い表していると考えられますので、19番目の変異株と思われます。そう考えると1年延期された東京オリンピックが開催される今年に最強変異株が出現するとは考えにくいですね。しかし、このOlympicというワードは治療薬の所にもたびたび登場しますのでオリンピックが何か関係していることは間違いないと思われます。
次に、「プロテアーゼI.H2050t-19」このワードがすべてのキーになっております。
この解釈には多くの考え方がありますが、全ての正合性を合致させるとしたら、2050年に開発された、タウ19変異株に対するプロテアーゼインヒビター。
プロテアーゼインヒビターとはタンパク分解酵素阻害剤、ということになります。
データ上は全てのウイルスに対する万能薬と書いてあったのですが、そうではなく、タウ19に対する特効薬ということになります。
なぜそのような間違った解釈をされたかは、恐らく2050年のウイルス感染といえば、このコロナ変異株を指すほど流行していたということと、さらにはこのインヒビターがコロナウイルスのどのような株の「メインプロテアーゼ」、この言葉は重要ですのですぐに解説しますが、にも効果があるという意味で万能な抗ウイルス薬と表現したのでしょう。
それではAIが新薬はプロテアーゼインヒビターであると断定した理由をデータ上にのっていたヒントを交えて解説していきます。
まず人類は既に2020年にはウイルス増殖に必須であるプロテアーゼ活性を速やかに阻害する薬剤の開発を進めていました。
なぜプロテアーゼ活性が必須であるか、それはウイルスの生活環で必ず蛋白を分解しなければならない機会が何か所かあるからです。
それが先ほど登場したメインプロテアーゼ、今回の主役です。
コロナウイルスはヒトに感染するとRNAゲノムから長いタンパク質、これをポリタンパク質呼びますが、これが翻訳されます。そしてこのポリタンパク質が切断されてその断片がウイルスの増殖に必要な構造タンパク質や酵素として働くのです。
メインプロテアーゼはこのポリタンパク質の切断を主に触媒する働きがあるため、そこを阻害するための薬剤が抗ウイルス薬となりえると考えたわけです。
残念なことに2021年には間に合わなかったわけですが、2051年では、インシリコ創薬が普通になっていたので、恐らく今よりは簡単に素早く最適なプロテアーゼインヒビターが作られたわけです。
インシリコ、これは聞きなれないワードですが、皆様方が良く知っておられる実験の手法の進化型です。
In vitro、In vivoそしてIn silicoと続きます、といえばお分かりですか。
つまり実験をIn vitroは生体外の試験管の中、In vivoは生体内、そしてIn silico(インシリコ)とは細胞生物学的あるいは生化学的な手法を主とする創薬候補物質の検索に対してAIを活用してコンピューターの中で行うことです。
多くの研究者たちが莫大なデータを駆使してもなかなか目的のプロテアーゼインヒビターを見つけられなかったのですが、2050年に、ある研究グループが遂にプロテアーゼI.H2050t-19の開発に成功しました。
新薬であることから化学成分などの情報が一切公になってはおりませんが、当時の情報を集めて判断すると、このプロテアーゼインヒビターは特異的にコロナウイルスのメインプロテアーゼを阻害する作用があります。
当時の報道によると、この薬剤は化学合成剤ではなく、かつてノーベル賞を受賞した大村智博士によってゴルフ場の土壌から発見した新種の放線菌が産生する物質をもとに作られた「イベルメクチン」と同じ手法で作られたという驚きのニュースを伝えています。
つまりこのインヒビターは天然由来で、その発見者グループのチーフが毎朝の散歩のとき公園で採取した土壌から発見されたということでした。」
AIの分析に目を通した時、いち早く口を開いたのは矢作だった。
「皆、私たちの推測も大したものですね、当たらずとも遠からず、やはりタンパク質がなんにせよキーとなるわけですから。
それと、新種の土壌菌が見つかった場所が分かれば、今すぐにでも新薬を作れるわけですね。
ひろし、AIに聞いてみてくれないか。
その研究グループのチーフの所属と土壌菌を採取した場所を。」
さっそくAIに解析させたが、その研究グループのチーフの名前はおろか国籍も採取場所も特定不能ということだった。ただ、土壌菌がオリンピックというワードとリンクしていることは確かなようだった。
「そうか!私は直感で生きてきた人間ですから、一言いいたいのですが、いつどんな時も敵は近隣にあり、と言えませんか。
取り敢えず、東京オリンピック村の土壌を調べてみようじゃないか。
ひろし、採取してきなさい。」
「え~え、師匠、思い付きでそんなこと言わないで下さいよ。
2050年の公園の土が今と同じとは限らないじゃないですか、ましてそのオリンピックが東京かどうかも分からないですし・・・。」
「ばか野郎!調べてみなければ分からないじゃないか。
東京で見つからなければ、北京、パリの公園を全部調べろ。
なにせ、人類の命運がかかっているんだ!」
久しぶりに落ちた師匠のカミナリにひろしは直立不動で黙ってしまった。気まずい雰囲気の中、間を取り持つように優希が語った。
「いいわ、私が行くわ。分析してもらえそうな心当たりもあるから。」
「優希君、それ本当なのかい、じゃあ僕も行きます。」
「優希ちゃん、どこへもっていくつもりなんですか。」
「はい多村先生、私の卒業論文の研究テーマがプロテアーゼインヒビターに関連したことだったので材料を提供して頂いた東京大学の農芸化学研究室の市川教授です。
先生はかねてより自然界に存在する多くのプロテアーゼインヒビターを発見されています。」
「ああそんな方と繋がっていたなんてラッキーだね。ただ、内密に、できるだけね。
それと、新種の土壌菌がそんなに簡単に、その辺にあるものではないでしょうが、矢作先生にはどの程度の確信がおありですか。」
「済みません。土壌菌がオリンピックというワードとリンクしていると聞いて、興奮して少し感情的になってしまいました。
私なりに推理した結果ですが、新種の土壌菌が発見されたのは2050年です。
人類滅亡の危機がある中その年にオリンピックが開催されたとは思えませんので、土壌菌はオリンピックの聖地とか関わりのある場所で見つかったということになります。
そこで、2051年の優希さんのメッセージを思い出してください。
新薬を発見したのは日本人科学者と言っていました。
なので、東京オリンピックの選手村あとの公園を推理したわけです。
もちろん、その科学者は海外で研究していたかもしれませんし、日本にいたとしても札幌や長野だったかもしれません。
ただ、こうも考えました。
石松くんが時空を旅したのは決して彼の意思ではなく、何か大きな力が働いて、我々は人類を救う使命=ミッションを与えられている。
そして、そのミッションは必ず達成されなければならないとすると、答えはすぐ近くにあると想定されます。
まさか、答えは火星の土にあったというような、今の時代で実現不可能なミッションは出さないと思います。
私の判断、おかしいですか、多村先生。」
「いや、少なくとも間違ってはいないでしょう。
生物とウイルスの戦い、いや共存かもしれませんが、既に何億年も続いていて、その歴史の中での数十年なんて、土台誤差のうちですからね。
2050年で出るものは2020年でもきっと発見できるはずです、間違いない。」
市川教授にサンプルを持ち込んでからまだほんの数日のこと、多村はまさか、内容はさておき、こんなにも早く教授から連絡があるとは考えもしなかったので、一瞬、看護師からの電話の対応に躊躇しながらも、胸の高まりを抑えきれなかった。
「おはようございます。この度は大変お世話になっております、獣医師の多村です。」
「ハイハイ、よく存じておりますが、自己紹介は省略させていただき、本題に移りたいと思います。
せっかちな性分で、あしからず。
ただこんな重要なプロジェクトに参加させていただける機会は、そうそうあるものではないので、私としてはアドレナリンがここ数日出っぱなしなのです。ご理解ください。」
「恐縮です教授。
そこまでお時間を割いていただいているとは、ありがたいです。
それで、どのような結果だったでしょうか。」
「そうそう、それです。見つけました。発見しました。
新種の土壌菌から産生される物質は新型コロナウイルスのタンパク分解酵素を阻害する可能性が非常に高い物質です。
私は幸いにも、この研究だけに携わって生きてきた学者です。
プロテアーゼインヒビターについては直感で、これがそうだと、まず初期の段階で発見した物質を、更なる検査をし、確定に至るまで待つことなく、外したことはございません。
我々に時間はありますか、恐らく、そうはないでしょう。
ならばここは、in vitroやin vivoの実験は省略し、インシリコに直接行けるように、そちらで手配できますでしょうか。」
「もちろんです、いや多分。緊急事態ですから、それくらいのことは、何とかなると思いますよ。教授のアイデアですから、うまくいくはずです、きっと。」
多村はこう言い切ってしまったが、実は一抹の不安はあった。緊急事態ではあるが、しかも人類にとって、自分のようなクリニックの獣医師が、莫大な費用の掛かるインシリコによるスクリーニングを依頼しても本当にやってもらえるのだろうか、このスクリーニングにはそれこそ国家予算クラスの創薬専用スパコンMDGRAPE-4Aが使われていたが、それを使うことの可能な研究者は本当に限られていたからだ。こういう時は矢作の強力な人間関係が必要だと多村は考えた。
「おはようございます。朝早くから申し訳ないのですが・・・ ・・・。」
「了解です。どこまで話が進みましたか。まさか、実際の創薬?」
「さすがですね、そこです。」
「ならば出番はスパコンですね。手配しましょう。
ひろしには東大の市川教授まで試薬を取りに行かせます。」
流石に獣医界のブラックジャックと呼ばれる矢作の理解力は人並外れている。いったい何をどこまで考えて生きているのだろうかと多村は今更ながら思っていたが、人類が遭遇した幾多な危機は、こういう人間がいたから、人類にはこういう天才がいつの世にもいてくれたから、今があるのだろうと多村は感じていた。
その後、多村が立ち上げたプロジェクトチームは市川教授と共に、政府特別感染症対策機関の新型コロナウイルス対策チームに加わり、超法規的なやり方とスピードで新薬であるプロテアーゼI.H2021t-19の完成へと進んで行くのであった。
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