第8章 ウイルス撲滅へ挑戦が始まる
2021年7月20日、多村は石松に埋め込まれていたライフデバイスを目の前にし、その小さな金属片が数年後に訪れるかもしれない人類の危機を救うアイテムになると思うと身が引き締まる思いであった。そして、臨床家としての仕事は後輩に任せることとし、病院の一部屋を改築して専用のスペースを作り、プロジェクトチームを立ち上げてデータの解読とその後のウイルス対策のための研究を始めた。他のプロジェクトメンバーは矢作達人、駿河ひろし、松原優希であった。
メンバーの皆も30年後のまだ見ぬ世界の情報を見る期待感、データを読むことができるかという不安感、迫りくる強力な変異株に対する恐怖感、人類の危機を救わなければならない使命感と複雑な感情を抱いていることは同じであった。
未来の科学技術で作られたデバイスとそれに記録されているデータは最重要機密事項であることから、その管理と解析については、当初より矢作が獣医師では唯一会員であった、政府特別感染症対策機関および高度医療研究諮問機関との連携をとり、情報漏洩が全くないようなシステムを構築していった。
また、矢作の人脈と彼の要望で、デバイスの解析には世界に3台しかないスーパーコンピューターを使うことが許されていた。
まず、デバイスの素材や構造から解析が行われた。大きさは15mm×11mm×3mmで角や縁は丸みを帯びた構造物で素材は不明であったが磁性はなかった。1面の一部はその周りの素材と異なる外観を示していたので、その部分は何らかのセンサー部分と思われた。
X線による非破壊検査ではコントローラーとなる基板、バッテリー、メモリーチップ、センサーと思われる構造が確認できたが、その大きさだけを見ても現代の科学では再現できないような構造と思われた。
次に、電源は生体の心筋の電気信号で充電されることとWi-Fiに接続できることは分かっていたので、スーパーコンピューターからデバイスにアクセスしデータをすべてコピーした。起動ファイルがどれかはAIに解析させて、何とかOSを起動させることはできた。メッセージで優希が言っていたように、起動パスワードは現在本人が使用しているものと変わっていなかった。
早速、中を見てみると、膨大なデータファイルがいくつかのフォルダに分けて整理されているようであったが、すべてのファイルが開くわけではなく、また開いても文字化けしている所があるなど、全体としては70%くらいしか見ることができなかった。
なぜそのようなことが起こってしまったのか、情報処理の専門家を交えて検討した結果、元のデータをデバイスにコピーする際に、個人情報保護の目的でAIがセキュリティをかけたか、あるいは時代を逆行する上でパラドックスが生じないための現象ではないかということであった。
いずれにしても、70%のデータで新薬の開発に取り組まなければならないのだが、一つ一つのデータを人の手で読んでいてはかなりの時間と労力が必要と考えられたので、データの解析はAIに行わせ、多分書き込まれているはずの新薬のヒントになる情報と使用するタイミングなどを予測させてみることになった。2021年のAIのレベルは当時の人々の予測を遥かに凌駕していたが、2051年の科学には到底到達はできないだろうとは誰もがわかっていた。確かにAIは解析に時間を要していた。
一方、デバイスの解析と並行して石松の健康チェックが行われた。未来の獣医療でどのような治療が行われたのかは、獣医師としては当然興味が湧くところである。
先ず血液検査と尿検査が行われ、結果はすべて基準値内であった。
「優希ちゃん、最後に石松の検査したのはいつですか?」
「今年の4月でしたが、実は去年から慢性腎障害のステージ2になっていて、右の腎臓が少し委縮してきていましたので、ベラプロストナトリウムを与えていたんですけど、悪くなっていますか?」
「いやいや、全く異常ないよ。
ベラプロストで治ることはないから、おそらく何らかの再生医療が行われた可能性が高いね。」
尤も、多村は石松から自身が受けた治療についてある程度聞いていたので、予測できる結果ではあった。
次にX線と超音波による画像診断を行ったところ、萎縮していた右の腎臓はほぼ正常な大きさで確認され、また、おそらくは複雑骨折により整復不能と診断された右肘関節に、人工関節が置換されていることが確認された。
「矢作先生、この腎臓どう思われます?」
「X線の透過性やエコーのデンシティからしてドナーから移植した腎臓とは思えませんので、人工的に作られたものの可能性が高いと思います。
30年後は再生医療がかなり進歩しているということでしょうね。」
「人工関節についてはどう思われます。」
「人工関節というのは、変形性関節炎などで正常な運動機能ができなくなった関節に人工的に作った関節を置き換えるものですね。
現代でも人工骨や人工関節の技術は日々進歩していて、人では人工肘関節置換術は行われていますから、猫でも近い将来実現可能なことだと思いますよ。
でも石松さんの場合、恐らくは関節だけでなくその近縁の骨も粉砕していたでしょうし、当然その周囲の神経や血管も損傷していた可能がありありますね。
ですから、この症例ですごいところは術後1か月くらいだというのに、人工関節と本描の骨が完全に癒合していること、しかも跛行などの運動機能障害が全く見られないということは、筋肉の腱や靱帯が正常な位置に生着していること、さらに、神経学的な後遺症が全くないことでしょうか。
これらの高度な技術には想像を絶するものがあります。」
「人工関節の素材は何か予測できますか。
X線の透過性がある程度あるので、少なくともステンレスやチタンではないと思いますが。」
「簡単ですよ、わかります。」
「ええー、なんとおっしゃいましたか今、簡単にわかるのですか。」
「分かりますとも、簡単です。彼の足を切断し取り出して分析器に入れればすぐにわかります。」
「師匠、先生のブラックジョークには皆さん慣れていませんので、ご注意を、特に石松さんは。」
「冗談ですよ。少なくとも現在使われている様な金属ではなく、何か新しい素材で作られていると思いますよ。」
慌てて、ひろしが矢作の話しを遮ったが、それを聞いていた石松はそそくさと部屋から出て行ったあとだった。
それにしても、石松は重傷を負ったにもかかわらず、失踪前より明らかに肉付きが良くなり、活発に動き回り、元気になっていた。まさに、数年若返って未来から戻ってきたようだった。
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