最終章①
俺、マレー半島を南進す。
ファランポーン駅十五時半発のマレー鉄道バタワース行の寝台車は、よく下を向いた象の顔に喩えられるタイの国土の細長い鼻の部分を夜通しかけて下り、翌朝八時前にパダンベサールの国境を越える。沢木耕太郎の『深夜特急』第二巻の真似をしてチュンポンで降りることも考えたが、あそこは四十年以上経った今でも何もない街だそうなので、やめておいた。
カンボジアやラオスのボーダーのイミグレではタイで犯罪を犯して逃亡している指名手配中の日本人や中国人の写真を張ってあることがよくあるので、俺は内心、穏やかではなかったのだが、俺は小物すぎるのか、照合され別室に連れて行かれることもなく、無事マレーシアに入国を果たした。
十時十分にバタワース駅に着いたらそのまま隣接されたバスターミナルからバスでクアラルンプールまで下って、中央駅前のインド人街の安宿に荷を下ろし、日本語の通じるドクターのいるサウジャナビラのさくらデンタルクリニックに通い、しばらくは歯を治すのに専念したが、海外では歯と性病は保険が効かないため、予想外の出費となった。時間を選ばず突然襲ってくる鈍痛と食事時の噛むと神経を針で突き刺すような激痛に耐えていると、信長のヒステリーの原因が歯痛だったというのがすっと腑に落ちた。それが治療できただけでも憑き物が落ちた思いだ。
憑き物と言えば、ほとんど躊躇いなく金井の両目を刺した俺に思うところがあったのか、あれからずっとヨーコが夢枕に現れなくなった。
悪夢は本当に過ぎ去ったのか?
一年近く魘され続けた悪夢。
いや。出会ったことそのものが悪夢だったと言ってもいい。あの選択肢のないただただ尊厳や自尊心を踏みつけられる隷属の日々を思うと、なぜヨーコを撃ち殺したのが俺でなかったのか?と悔みたくもなる。
ところでヨーコを殺したのは、いったいどこの誰なんだ?
今まで逃れることや耐え抜くことばかり考え、そこにばかり持てる力や知恵を使わなければいけなかった毎日だったので、そんなこと考えもしなかったし、結局、ヨーコは執拗に死姦は責めたが、殺されたことに関しては淡白と言うか、執着がないというか、そもそも、悪霊になるなら殺した奴の所に行けよと思ったものだが、それも今は昔。死人に口なし。真実が何で、どこに何個あるかなんて誰も知らないのだ。それを知ろうとすれば、また何か得体のしれない大きなものに追われるのではないかと考えると、そんな自傷行為をする気力などどこにもない、と苦笑する。
バナナの葉を皿にしたミーゴリン(焼きそば)をつまみにタイガービールを呷っているとそんな思案に駆られる。マレーシアで難儀するのは酒が高いこととインド人やアラブ人のところでは滅多なことでは酒を提供してくれないことだ。なので、食事をしながら飲みたいときはモスリム、ヒンドゥ連中の多い駅前よりも観光客の多いセントラルマーケットやアロー通りに行くのが確実だ。もっとも、酒を飲まない人にとってはカレーやロッティやダンドリーチキンの名店が多いので、駅前は天国だろう。
マレーシア美食指南はともかく、逃げ疲れた俺にとって、クアラルンプールは都会すぎるし、少し忙しすぎる。バンコクと同様、便利なのはいいが、あまりにも観光資源と癒しの要素が少ない街だ。歯も治ったことだし、そろそろ出発の時期か。
遠くで雷鳴が聞こえる。
驟雨を追いかけてどこまでも。
それも、賽の目のままに。
それも、許されぬ罪を背負ったままで。
クアラルンプールからマラッカは車で二時間もかからない。
東京から箱根あたりに行く感覚だ。大都会クアラルンプールと打って変わり、マラッカは十六世紀の植民地時代を偲ばせる旅情と風格のある古都で、世界遺産でマレーシア随一の観光地でありながらも、それを鼻にかけるでもなく、卑屈なまでにアピールするでもなく、俗っぽさは皆無だ。
朝の涼しい時間は、オランダ広場から昨夜の驟雨に濡れた川沿いの歩道を下ってゆくと、原色のモダンアートをペイントされた古いショップハウスの壁とブーゲンビリヤが鮮やかだ。川からの風も涼しい。歩き疲れたら、そのへんのティーハウスに入って、胡麻塩頭でランニングシャツ一枚の華人のじいさんたちに交じって、汗をかきかきパクテー(スペアリヴの漢方煮)やラクサ(ココナッツミルクとスパイスの効いた麺料理)を啜り、腹の減っていないときはミルクと砂糖の沈殿した甘いカフェラテやミルクティを啜る。そんなふうにごく自然に現地に馴染んでいると俺は、逃亡者ではなく、ただの旅行者になったように錯覚してしまう。
心が平穏であるかと言われれば、当然違う。
ヨーコの容赦ない追跡と報復が途絶えたからせいせいしているのかと言われれば、それも違う。
どうも「逃れられた」という感覚はほとんどない。ないどころか、金井のような狂人が俺に鉄槌を下すべく、すでに市井に紛れているのではないかと思うと、恐怖でしかない。そいつをまともに受けてしまっては精神がおかしくなってしまう。だから普通を装っている。
隣のテーブルに誰かが置き忘れていった英字新聞のスター誌をこちらに取り寄せて広げて精読する。
ヨーコがいなかったら、アメリカに行くことも関わり合いになることもなかった。十年前はジャパンタイムスを読んでもチンプンカンプンでヨーコに叱責交じりに嘲笑されたものだ。あの魔女と関わって唯一よかったのは英語を覚えられたことくらいだ。あとは何もない。
三面記事に目を落とすと、マレー人の男との交際に反対されて、母親を殺めてしまったまだうら若い華人女の記事が写真付きでかなり紙面を割いて載っている。幼い頃から儒教を叩きこまれ、親孝行を是とする彼らでもそんなことくらいで凶行に及んでしまうものなのだろうか?
俺はそれが不思議で仕方なかったが、殺意が湧くのは一瞬だ。その一瞬というのは、ヨーコのような悪霊が心の隙間に入り込んで、一番の理解者のような顔をして教唆するのかもしれない。
俺がヨーコを死姦したように、俺が金井の目を刺したように……
嗚呼。本当に現実と非現実を隔てている壁など薄く、低い。そして、それはある日突然、簡単に崩壊する。
それは俺が一番理解しているはずなのだが……
ミルクティが冷めて、厭な甘さがする。
くだらない三面記事なのに、余計なことを考えすぎたようだ。
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