第三章➁

 俺は安堵すると同時に、死刑執行前夜の囚人みたいに言葉にならない恐怖を感じていたのだろう。そういう時、どうも種の保存の本能が働くようで、それにヨーコがいつになく優しく、あんな淫夢を見せるものだから、夢精してしまった。十五六のガキじゃあるまいし、情けなくなる。

 喧噪のソンクラン(タイ正月の水かけ祭り)が過ぎて、五月に入ると日中四十度を超すことはなくなったものの、まだまだ暑い。水シャワーを浴びながら、爪の痛みで涙を同時に流しながら下着を洗う。こういうことは金井が来る前にすましておかないと、また何を言われるかわからない。幸い、外に干しておけば二十分もしないうちに乾く。

 しかし、ヨーコが言っていたことが気になる。

 金井が俺の目を潰すだって?

 捕虜のヴェトナム人の耳を剝ぎ取り、数珠のように繋げてネックレスを作るような残虐極まりない奴らの末裔だ。俺の目を刳りぬいて目玉焼きを作ることがあってもまったく不思議ではない。寧ろ今までこの程度の(と言っても筆舌に尽くし難い)拷問ですんでいるのは何かあると考えたほうが自然だ。

 そんな悍ましいことを考えただけで嫌悪と悪寒で背中が冷たくなってくるのを感じる。冷静さを失うと、また取り返しのない失敗をしてどこまでもどこまでも逃げ続けなければいけない運命に追われるだけだ。そんな逃亡ももうすぐ一年。疲れ果てていることや夢や希望がないことを一瞬でも忘れてしまわないと発狂してしまうだろう。だから、今は逃げ出すことよりも何も感じないという、無情の苑に早くたどり着くほうが楽になれるのだと考える。

 楽の何がいけない?

「どうしたんですか?怖い顔して。まさか、俺のこと殺そうと思っていたりして」

 オーナーに金品でも渡したか、俺の弟だとでも言ったのだろう。いつの間にか合鍵を持っていやがる。それに、何がおかしくてそんなにニヤニヤしていやがる? 女ものの香水の残香にタバコと肉の焼けたロースターの煙の臭いが混ざる。真昼間から焼肉と風俗か。しかも、顧客から騙し取った金で。絶望的に厭な野郎だ。

「爪、ちゃんと手当しないとそのうち化膿して蛆がわきますよ。ま、別に蛆虫に蛆が湧いたところで誰も困りませんけどね」

 映画『アウトレイジ』の椎名桔平ばりの日本人では決して真似のできない感情のない冷笑を浮かべると、青いタイシルクのシャツの胸ポケットからパーラメントを取り出して吸い、吸殻を俺の剥がれているほうの親指の爪に押し付けた。若干、傷は癒えているとは言え、それでも麻酔なしで歯の神経を取られているような痛さだ。痛すぎて逆に声が出ない。

「灰皿くらい用意しとけよ。人殺しの蛆虫が。わかったら、返事ぐらいしろ」

 二三発腹に喰らうが、急所は外れているし、たいしたことない鈍らなパンチだ。喧嘩慣れしてないくせに残虐性だけは反社並だ。もっとも、今日日の経済系の反社はこういうタイプが多いのだろうな。

「ふっ」

「何がおかしい?」

「別に」 

「だから、何がおかしいんだっ!」

 そうやってすぐ激高して、喚き散らして、弱きものを虐め、殴る蹴るだ。保険の一流の営業マンの仮面の下は人の心を失い、悪魔に魂を売り渡した民族の業でしかない。何でそんな酷いことをするのか?なんて訊くのは不粋だ。鞠かマタタビか鼠を与えられた猫に理性なんて働きはしないのと同じだ。

 痛いのに、次の一手、次の瞬間が恐怖でしかないのに笑いがこぼれる。きっと俺の限界が近いのだろう。俺のちっとも苦しんでない様が金井をイラつかせているのだとしたら、一矢報えたような思いでまた笑いがこぼれる。狂人を刺激してはいけないと頭ではわかっていてもだ。

「まぁ、いい。笑っていられるのも今のうちだ」

 取り乱したことなど何もなかったかのように金井は、プラダのセカンドバックから千枚通しを取り出し、俺の目の前で尖端を向けて構えた。ヨーコから「そうなる」と言われていたことなので、驚かない。寧ろ谷崎潤一郎の『春琴抄』のストーリーってどうだったっけ?と考える余裕すらあった。

「目暗にしてやるよ。蛆虫に目なんかいらないだろう」

「それで?その続きは?」

 本当にやる気なら前口上は抜きでブスっといくはずだ。やはり、金井は喧嘩慣れしていない。普通の奴のくせして一人称が「俺」なところも違和感ありまくりだ。こいつは弁舌や虐めで人を殺すことはできても、実戦になると、それもイレギュラーが起こったら絶対に対処できまい。つまり、零戦と同じで防御ができないのだ。そうと分かった以上は「目を潰される」恐怖などないに等しい。だからこそ、場面がよく見えるし、挑発的な軽口も叩ける。

「何だとコラ!」

 案の定、千枚通しの尖端は俺の目を狙ってきたが、手が震えていて目的が定まらず、空を切る。普通以下の腕力なので、動きを見極めれば千枚通しなど手刀で落とせる。俺はそれを素早く奪い取り、迷うことなく、金井のいやらしい細い狐目を刺した。アドレナリンが出ているのだろう。爪の痛みはほとんど感じない。心臓を刺した感覚は意外と豆腐のように柔らかいらしいが、眼球は一寸だけ硬いと思った。力を加え、硬さを突き抜けると、溶けた風船アイスのようにあとは中身が弾け出るような妙な解放感を感じた。或いは、処女膜を破った時の緊張感のある征服感にも近い。この手の感触は現実感が薄く、どこか淫夢に似ている。

 別に何とも思わない。殴れば拳が痛むが、金井の目を刺した手はちっとも痛まないし、何かの間違いで心が痛むのだとしても金井の痛みなどわかりたくもない。刺身包丁で魚を三枚に捌くのと変わりはしない。それどころか、突き刺すだけなので、さして労力は要らない。

「ぎゃぁぁぁぁぁ!」

 断末魔の叫び。

 だが、俺は正当防衛としか思っていない。

 一億円騙し取って、ひと一人、何か月もここまで非人間扱いしてきた報いにしては、片目が不自由になるなど実に軽いと思った。「実に軽い」と思ったので、もう片方の目も刺した。個人の好き嫌いによる勝手な裁きではあったが、罪悪感はまったくない。責められたときは責められた時だ。そのことによって何者かに罰せられることがあるのだとしても、その何者かを返り討ちにすればいいだけだと思うほど、罪の意識はなかった。

 もう二度と光を見ることもない、一瞬でブラックアウトした鈍く血の流れる両目を手で抑えて、金井は一生懸命に言葉にならない言葉を叫んでいる。日本語でも朝鮮語でもない理解不能な言葉をだ。痛みを伝えるには十分過ぎる狂気を感じるが、「因果応報」という言葉しか見つからないし、俺は、本来、裏通りか座敷牢にいるべき不具者か禁治産者を見ているとしか思っていない。

 別にこいつと話したいことなど何もないし、これ以上の関係性は断固として拒否するが、流石にこの部屋にはもういられまい。人を呼ばれる前に逃げないと。タイの警察は金のあるほうを信用するから、ヨーコの案件同様、俺が正直に話したところで信用されるわけがないし、金井も賄賂を要求されまくって、裸にされるだけだろう。

 俺は、醜く呻吟する金井を横目に、ビリーホリディの『奇妙な果実』を流しながら、氷を張ったグラスに注いだシンハビールを飲んだ。

 現実感がなく、ちっとも冷たさも苦味ものど越しも感じないが、晩年のビリーホリディの地獄の底を見てきたような皴の刻まれた切ない声で歌われる『奇妙な果実』がのたうち回る金井とシンクロする。

――飛びだした目に苦痛によじれた口

 そして、その黒人霊歌はこう締めくくられる。

――ここにもひとつ黒く苦い果実がある


 当初、ファーを頼って、ファーのイサーンの田舎に逃がしてもらうことも考えた。タイでの殺人事件や凶悪事件の検挙率の低さは、警察の質の悪さもさることながら、田舎に逃がれた犯人を身内総出で庇い通すところにある。

 つまり、俺は、岸修という一人の女を死姦し、一人の男の光を奪った罪を犯した日本人であることを放棄し、万事、いい加減で極楽蜻蛉なタイ人としてひっそりと余生を送ることを選ぼうと考えたが、ファーと連絡が取れなくなってしまったのだ。おそらく、俺が金井に軟禁されている間にバンコクを引き払い、そのイサーンの田舎にでも帰ったのだろう。そもそも、情を交わしたとはいえ、恋人ではないし、この国でファーという女性を探すのは、日本で田中さんや鈴木さんを、中国で王さんや張さんを、韓国で金さんや朴さんを探すのと同等に大変なことなので、泣く泣く諦めた。

 金井のセカンドバックと財布から五万バーツほどと百万円の札束を二つ奪うと、俺はハイテックを脱出し、裏の運河から船でアソークまで出て、そこから地下鉄でファランポーン駅まで出て、駅から歩道橋を渡ったところにあるシークルンホテルに落ち着き、あれから二週間ほど、ほとぼりを覚ましながら、今後のことを考えている。

 奇跡的に爪はほぼ元通りになったものの、歯周病が悪化していて奥歯がひどく疼くので、歯医者にも行きたいが、やはり、追われている気がするので、まずはバンコクを離れるのが先決だ。今度こそ、いい方角に逃れなければ。

 窓越しに見える夕映えのかまぼこ型のファラーンポーンの駅舎を見ていると、どうも旅愁をくすぐられていけない。駅前のソムタム(パパイヤサラダ)売りもそうだ。俺は逃亡者だというのに、そういう詰めの甘さをヨーコや金井に利用されたんじゃないのか、情けない。

 いや。マレー半島を下ろう。

 北は敗北,敗走と相場が決まってるしな。後ろ暗い人間は決まって北に逃げる。

 どれ?方位は?

 南は……見事に歳破入り。北も似たような凶方位。それならば陸伝いに東のカンボジアやヴェトナムに逃れることも考えたが、こちらはヴィザが要る。逆方向のミャンマーも然り。ヴィザを旅行代理店に頼むにしろ、自ら領事館に赴くにしろ危険すぎるし、一か八かの賭博を打つには俺は疲れすぎている。ヴィザが下りないだけならまだしも、その場で逮捕されるリスクは取れない。第一、ヴィザ待ちの数日間、思い悩んで生きた心地がしないだろう。

 これだけ罪を重ねて救われようとするのが大きな間違いだ。「人は皆、平等である」というのはきっとそういうことなのだろう。わきまえなければなるまい。

 多分、俺は次に落ち着く場所で捕まるか殺されるかするだろう。

 金井を通じて、最後の最後で復讐をやり損ねたヨーコの怨霊がそのように動くのだろう。ただもう狂人に拷問にかけさせるのは勘弁してほしいが、多分、そうもいくまい。

 バンコク最後の夜に思いっきり辛いソムタムでも食べたいなどと思っていると、わずか一二分の間に暗雲が集まり、雷鳴と共に驟雨が降り始めた。

 この二三日空気が湿っていると思ったが、雨季が始まったのだ。

 俺にとっては二度目の雨季が。

 驟雨の音を聴いていると、終焉に向かっていくことも、これ以上の罪を重ねることももうどうでもいいことのように思えてくる。

 俺は、外出をあきらめ、祈るように深く目を閉じた。




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