第二章③

 不吉な出会いは当然のように不吉な運命をもたらせた。

 金で人を支配するのがユダヤ人なら、暴力で人を支配するのが朝鮮人だ。朝鮮人の金井は、当然後者を以て俺を支配していった。

 金井は言ったとおり、グランドハイテックの俺の部屋まで押しかけてきて、居留守を使うと、執拗なノックの果てに俺が犯したあの忌まわしき行為を大声で吹聴するので、我慢比べとなった。近所迷惑だからと言ってドアを開けると居座り、ありとあらゆる嫌がらせをし、やめて欲しかったら言うことを聴くしかない状況に追い込まれるのはわかりきっていた。全く、あの性根が腐った民族は嫌がらせをさせたら右に出るものがいない。

 幸い、籠城するのには慣れている。雨季はずっとそうやって過ごした。しかし、違うのは聴こえてくるものが気まぐれな驟雨の音ではなく、耳障りな金井の誹謗中傷だったことだ。

 きっとヨーコがこいつの口を通じて言わしているに違いない。

 そう思えるほど、確実に俺の触れてほしくない傷跡だけを狙って、闇に鋭利に光る血痕のついたジャックナイフのような言葉で何度でも何度でも刺して抉る。悪夢には受けるべき罰として慣れることができたが、ヨーコではない第三者の言葉がここまでツライとは……

 おまけに、金井がいなくなるまでデリバリーも頼めない。外出なんてしたら、待ってましたとばかりに付きまとわれるか拉致されるかのどっちかだ。

 これはここから逃げるしかないな。

 だけど、逃げるってどこへ?

 暗い絶望が広がる。

 どうでもいいが、あのネップチューンの原田泰造を色黒小太りにさせたような誰にでも愛想のいいヤーム(門番)はなんでこいつをつまみ出さないんだ?答えを求めるまでもない。汚い金を一億も持っているのだ。このアパートの事務員ごと買収されたに違いない。共謀して売られず、黙認ですんでるだけありがたいと思うしかないのか。

 何十時間ぶりに口にするデリバリーののんき屋の名物豚スラわんぱく弁当豚肉三百グラムごはん大盛りもうわの空と空回りする逃げる算段でほとんど味がしない。偶に奮発したのに勿体ない。

 恨み言を言っても仕方ないし、不幸の源泉は俺にある。現実ではないほうの悪夢に潜り込むか。ヨーコに罵倒され、不実を問い詰められるだけの悪夢に。

 ベッドに横になり、暗闇に目を凝らす。追われるものも死んでしまったものも皆、同じような暗闇の中だ。命のあるなしにそれほどの意味があるだろうか?どうしようもなく遠くに来てしまった。どうしようもない罪と罰から逃れる可能性を求めて。一時は驟雨が全て流してくれると思っていたけど、舞台は暗転しそうだ。

 なのに、俺はなぜ逃げない?

「フン。なによ。いつまでもウジウジと」

 いつもの怨嗟と拷問で人間の態を失ったような恐ろしく、見るに堪えないヨーコではなく、余裕綽々、情緒超安定の俺をどこまでも下に見る俺の知るヨーコだ。傷さえ癒えている。いつの間にやら俺の横で肩肘ついて、品定めをするような目をしている。アラビアの男のような白いピジャマを身に纏っているので闇によく目立つ。

「ドアを開けなさいよ。あんたが救われるにはそれしか方法がないわ」

 そんなわけがない。金井の肉体に憑依して俺を苦しめたいだけだろう。誰が応じるものか。

 俺は無視して、低い天井を睨みつける。

 すると、ヨーコが涼しい顔で何か呪文か呪詛のようなものをつぶやくと、クロゼットの中からカタカタと歯ぎしりのような気色悪い音が鳴りはじめ、天井からはチュウチュウと忙しそうにネズミが駆けずり回る音が聞こえ、窓の外はねっとりとした中年の愛撫のような熱帯夜から一瞬ですべてをかき消す季節外れの驟雨に変わった。

 雨の音に俺は一瞬、懐かしい幼友達にでも会った気分になったが、安心感を忌々しく切り刻むように二重ロックしているはずのドアが開き、勝ち誇ったように薄笑いを浮かべた金井が「人殺しの死姦のくせに手間を取らせやがって」と俺を見下すように吐き捨てたかと思ったら、背中から警棒のようなものを出してきて俺の頭を殴りつけた。

 そこで記憶がプツリと途切れた。

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