第二章➁
三か月もすると雨の季節は終わった。
仕事も遊びもせず、情報を遮断し、引きこもり、誰とも知り合おうとも会おうともせず、生活に関わること以外は無駄口もたたかず、ラオスにツーリストビザを取りに行った以外は遠出もせず、近場だって用のある時以外はほぼ出歩かず、雨と悪夢に浸食され、すっかり病んでいた生活も乾季の涼やかな乾いた南風と青く晴れ渡った空に生気を取り戻しつつあった。
東北地方の自殺率の高さは寒さや地域の閉鎖性よりも天気の悪さが堪えるからだというが、晴れた日ばかりが続くようになると、不思議と己の内面へ内面へと潜り、緩慢な溺死を選ぼうとしていた意識が明るい外の世界へと浮上を試み始めた。
天気で左右されるほど俺は単純な男だったのだろうか?
それがいいことなのか、悪いことなのかはわからないが、異国で観光も異文化体験も異文化交流もせず、三か月もいて言葉すら理解できず、孤独と悪夢に馴れ合って暮らすのはいくら受けるべき罰だとしても異常すぎる。もっとも、この街に住む日本人は日本人としか群れず、ゴルフや本帰国の日や日本食レストランの情報にしか興味を示さない人間が多いらしいが……
脛に傷持つ俺はひっそりと裏通りを歩けばいい。いや。歩かなくてはなるまい。
第一、中国の山奥やアマゾンのジャングルやアラビアの砂漠ならばともかく、一歩繁華街や歓楽街に出れば、俺の正体や日本でやったことを知っている奴だっていることだろう。それを嗅ぎ当て、そいつをネタに強請ってくる連中だっているだろう。この情報化時代にこの街には領事館に届け出を出してない者も含めると十万人の日本人が住んでいる。いや。日本人とは限らない。その中には強請りが本職の奴だっているだろう。
そんなことわかってはいるが、それでも外出したくなるほど、この国の乾季は快適で、爽快で、新しい何かがはじまる予感にあふれていて、日々を陰鬱に過ごしていることがだんだんつらくなってくる。
そうなると、今まで無意識に感じないように、また興味を持たないようにしていた「欲」が遅れてきた青春を取り戻そうと焦って饒舌となり、まだ歩けもしないのに走ろうとする幼子の好奇心のようにムクムクと蠢きだす。
つまり、春が来たんだ。
無理もない。この三か月、食事と言えば、徒歩二分の所にあるワットパシーの前のセブンイレブンで適当に見繕うか、アパート併設のカフェからの対して美味しくもないタイ料理や日系のレストランからのデリバリー弁当ばかりで、酒も一滴も飲んでいない。悪夢でろくに睡眠も取れず、あっちのほうはヨーコを死姦していらい、女の肌には触れていない。つまり、三大欲求は何一つ満たされることなく、またそれを不満に思うこともなく、ただ生きてきただけなのだ。
おかげで頬と腰回りと手首が随分とほっそりとした。十キロとはいかなくても七、八キロは確実に痩せているだろう。その分、サイドともみあげに白髪が増えた。若くいたかったら、細かいことで思い煩わず、常に闊達で居続けることが肝要だということだろう。
書を捨て街へ出よう。
それこそ、寺山修司が低い暗雲が立ち込める津軽の寒空の下から花の都東京に出て行ったみたいに!
この時の俺は、神も警戒心も悪い予感も罪と罰もヨーコも全部すっかり忘れてしまっていた。
悪夢は終わったわけではないというのに……
まさか、また殺意を覚えるとは思わなかった。
乾季になって浮かれて、歓楽街へと繰り出して、毎日のようにゴーゴーバーやアップオップナム(ソープランド)で己の罪と罰と穢れも忘れ、隙だらけの助平面を晒して遊び倒していた俺が最も悪いのだが、海外における日本人の敵は大概、同胞である日本人か、日本人になりすました連中であり、計を弄し、同胞を騙し、強請ることで生計を立てている人間の何と多いことか!フィリピンやタイなどはその典型であることを俺は身を以って教えられることになるとは!
クリスマス前後のバンコクは、連日天気がいいだけではなく、気温が三十℃を切る。粋な熱帯のクリスマスプレゼントの約二週間はやはり、俺も浮かれていて、ナナのレインボー2でお気に入りのゴーゴー嬢ファーちゃん(若い頃の岡田奈々似)を子供みたいに膝の上に乗せて、乳房を弄り、グラスと唇を同時に決め、ペーバー(連れ出し)をちらつかせながらいい気になっていたまさにそんな時だった。
ゴーゴー嬢がクネクネと艶めかしく踊るステージのポール越しに蛇蝎の如きなんとも厭な目つきで俺を見ている三十歳くらいの男がいる。星野源に似ているので多分、在日朝鮮人だろう。なんだか生暖かく、血の匂いを含んだ厭な予感がする。関わり合いになりたくない。俺は気付いてないふりをしてファーの甘いココナッツの香りのする黒髪に顔を埋めて、不安を払拭しようとしたが、動揺はわかりやすいくらいに伝わってしまったようだ。
「サム。アライニャ(どうかしたの)?」
下の名前が修なので「サム」は呼びやすいのだろう。ヨーコは俺を名前で呼んだことなど一度もなかった。バンコクに来てやっと俺は賦役のない人間になれたのかもしれないなんて考えると一寸、複雑だ。
「マイミーアライ(何でもないよ)。ワンニ―ポムチャガッバーンナ(今日は帰るね)」
夜の街で聞きかじって覚えたようなタイ語ではうまく事情が説明できないので、まさに「逃げるは恥だが役に立つ」という奴だ。
俺は会計をすまし、ファーの胸元に五百バーツ札を挟んで、可愛くワイ(合掌)するファーの頬に素早くキスをして、逃げるように立ち去ろうと出口に差し掛かったその時、その厭な男が回り込んで通せんぼをして言う。
「逃げなくてもいいじゃありませんか」
上目遣いでニヤニヤ笑う。厭な奴だ。
「別にあんたのことを誰にも言わないし、売り飛ばしもしませんよ。それに、バンコクは脛に傷持つ過去を明かせない日本人の吹き溜まりみたいなところですからね。お互いの傷には触れず、そっとしてあげることが礼儀です」
この朝鮮人、俺のことをどこまで知っているのか?過剰なくらいエアコンが効いているというのに冷や汗が止まらない。
「しかしね、女を殺して犯して金を盗んで逃げた岸修さんとなると興味を持つなというほうが無理な話ですよ。やっぱり、あれですか?死人のあそこって冷たいんですか?」
「下種野郎!」
俺は低く怒鳴ったが、聞こえなかったようで、厭な笑いをやめない。
訊いてもいないのに、不快な饒舌は続く。
「俺は金井寿人と言う者ですけど、日本では名前出せば誰でも知ってる生命保険会社で営業をやってたんですが、顧客の金を一億近く着服したのがバレて問題になりましてね、懲戒免職だけで終わらず、会社と原告から訴訟されてしまいましてね、バンコクくんだりに逃げてきたわけですが、まぁ、金があっても毎日生きた心地がしませんわ。そのへんあんたは大物だ。女殺しといて、そいつの金で風俗通いだ。やっぱり、本物はいいものですね」
「俺は殺してない」
「またまた!まさか冤罪だとでも?あんまりがっかりさせないでくださいよ。人でなしで人殺しのあんたの舎弟になりたいくらいなのに」
バカバカしい。
人違いだと言って切り抜ければよかったのに、なぜ「俺は殺してない」などと口走ってしまったのだろう?本当のことを言って何がどうなるというのだろう?こんな理屈の通らなさそうな相手に。それこそ平気で人を欺き、場合によっては人を殺しそうな相手に。
いかさまを仕組んで勝つのがわかりきっている賭博を見据えたようにヘラヘラと薄笑いを浮かべている。まるでヨーコの亡霊が差し向けた死神であるかのように。許されることはないだろうとは覚悟した逃避行だったが、何だろう?この銀紙を噛まされているような不快感は?この厭な男の不快な饒舌はただ俺を嵐の海に水夫などいない方舟で追いやる。
「まぁ、今日のところは見逃してあげますがね、あんたの業を知っているのは俺だけじゃありませんよ。そのうち奴隷になる運命なんだ。その時、手心を加えてほしかったら俺と仲良くしておいて損はないと思いますがね」
「どけよ」
俺が握手に応じるとでも思ったのか、卑屈に差し伸べられた手を邪険に払いのけ、わざと肩をぶつけ、睨みを利かしたのを金井は少し驚いたが、「ハイテックの225号室ですか?そのうち訪ねていきますよ」とまた厭な笑いを投げつけた。
ファーと過ごした疑似恋愛的な甘い時間の余韻はすっかり醒め、不快な嘲笑の響き渡る現実に引き戻されていた。
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